犬(きみ)がいるから 村井理子

2018.2.15

16入院

 

 突然の告白で申し訳ないが、実は二週間以上も入院していた。心臓に疾患が見つかってしまったのだ。それはいいとして(いや、全然よくはないんだが)、困ったのはハリーのことだった。
 今まで何度か書いてきた通り、ハリーは私にべったりの、甘えん坊で分離不安気味の犬だ。体は大きいが、まだまだ子犬で頭の中は幼い限りである。なにせ、まだ一歳になったばかりだ。今までは自宅勤務の私と毎日休まず散歩に行き、日がな一日、自由気ままに過ごしてきた。唯一の仕事は私のお供で、行き先がどこであってもぴたりと横にくっついて離れなかった。私はそんなハリーが愛おしかったし、ハリーもそんな生活を気に入っていただろうと思う。そんなことではダメだとわかっていても、まあ、あとしばらくはいいよね・・・・・・なんてのんきに構えていたら、突然、ハリーにとっては大ピンチの状況になってしまった。
 私が急遽入院し、忽然と家から姿を消したため、ハリーのパニックがはじまった。私も、突然入院することでハリーの生活に大きな変化が起きることは当然予測できてはいたが、それにすぐ対応できるほど、自分の症状が軽いわけではなかった。救急病棟に入院した直後に、夫とはハリーをどうするかという話にはなったけれど、そこで何かを決めることはできなかった。それよりも、自分のことで精一杯だし、ベッドに縛り付けられているような状態の私にできることは少なかった。
 それでも、安心できる材料はわずかだがあった。入院当日は土曜日だったから、とりあえず週末の二日間は、ハリーは家族と一緒に過ごすことができる。月曜からは、近くに住む夫の両親がハリーと一緒に過ごしてくれることになった。高齢の両親が、あの魚雷みたいな犬をどうやって制御するのだと不安はあったが、選択肢はないように思えた。誰もいない家で留守番することに比べれば安全だろう。午後になれば子どもたちが戻る。夕方には夫が戻る。それでなんとかつないでいけるだろう。私の入院も数日で済むはずだと思ったのだが、実際のところ半月も入院することになった。
 入院してから一週間ほど経過した日のことだった。近所の人からメールが来た。何気なく読んでみると、「ハリーくんが脱走してます」とあった。突然のことで、まさに心臓が止まるほど驚いた。24時間、心電図の機械をつけて心拍をモニタリングされていた時期だったので、看護師さんが病室にやってきて「村井さん、大丈夫?」と聞いたほど脈が乱れた。右手には点滴が刺さっている痛みがあって、メールを打ち返すことができない。慌てて左手で打とうとするも、手が震えてケータイを二回も床に落とした。急いで拾おうとすると呼吸が乱れる。もう、何がなんだかわからない。しばらくすると何通かメールが届き、ハリーはご近所の皆さんが無事に捕獲し、なんとかして家まで戻してくれたということだった。27867185_10155092835671594_6332546540863524144_n
 何を追いかけて走ったのか、誰を探していたのかは、今となっては全くわからないけれど、ハリーはずいぶん遠くまで行ってしまっていた。それまで、まるで目に見えない壁でもあるかのように、ハリーはわが家の庭から一歩も外に出ない犬だった。教えたわけではない。ハリーは外の世界よりも、家族がいる家の中の方が好きで、庭に出してもあっという間に戻ってくるのだ。そのハリーが、隙を見て玄関を飛び出し、遠い場所まで行ってしまった。首輪も、名札も、何もつけていない状態で。
 病名を告げられても、涙ひとつ出なかったというのに、ハリーが遠くまで走って行ってしまった事実を考えると、どうしようもなく悲しくて、真っ暗な病室でその日は夜中まで泣いた。
 さて、現在のわが家がどうなっているかを報告しよう。私はすでに退院して、ゆっくりではあるが仕事にも復帰している。ハリーは、週三回、トレーニングセンターに通い、朝から夕方までクレートトレーニングをしたり、他の犬たちと広いドッグランで遊んだりして、とても楽しく過ごしている。トレーニングセンターがお気に入りのようで、意気揚々と出かけては、遊び疲れて帰ってくる。トレーナーさんは、ずいぶん賢くなりましたよと言ってくれる。それでも、リードの引きはまだまだ強く、訓練が必要であることは変わりないようである。
 ハリーと一緒に散歩に出ることは、今の私にとっては夢のような話になってしまった。少なくとも、この寒い冬が終わるまでは大人しく暮らした方がよさそうだ。ハリーの爆発するような生命力を見ていると、素直に羨ましく思える。私も早く元気になりたい。飼い主の体力はすっかり落ちたものの、ハリーの忠誠心は揺るぎないもので、今現在も、ハリーはぴったりと私の横につき、いつ何時でも準備万端整っている状態である。私の言うことであれば、100%応えてくれている。27749906_10155092835626594_6192386006454379651_n
 私が退院した日、夫と一緒にハリーも病院まで迎えに来てくれた。一年前のちょうど同じ日、私はハリーを大阪の空港まで迎えに行った。一年後のまったく同じ日に、今度はハリーが私を迎えに来てくれた。まさか自分の人生がここまでひっくり返るとは思っていなかったが、それでも今の私には常に寄り添ってくれるハリーがいる。私が再びハリーと長い散歩に出ることができるほど回復するまでに、彼も成長することだろう。きっと強くなれるはずだ。私も、そしてハリーも。

 

この連載は月2更新でお届けします。
次回2018年3月15日(木)掲載