犬(きみ)がいるから 村井理子

2018.4.15

18もどってきたハリー

 

 一ヶ月ほど入院をして、僧帽弁閉鎖不全症という心臓病の手術をした。おかげさまで手術は無事成功し、今は自宅療養中である。ハリーは、まだ体力が完全に戻らない私に静かに寄り添ってくれている。この原稿を書いている今も、デスクの真横に置かれたソファで、幸せそうに居眠りをしている。私が動けば、すぐに起きてついてくるはずだ。私が階段を昇る姿を見つめる目は、真剣そのものである。

 私が入院している間、ハリーはトレーニングセンターに預けられていた。私がいなければ、日中、ハリーと過ごす人がいなくなるからだ。夫は会社に行き、子どもは学校に行く。夫の高齢の両親に怪力ハリーの面倒を頼むことはできない。そこで、トレーナーさんに相談をし、入院する日の数週間前から、他の犬とトレーニングセンターで過ごす時間を徐々に増やし、長期の宿泊に耐えられるよう訓練していたのだ。

 残念ながら、入院前に私に対するこだわりや分離不安を完全に克服させてあげることはできなかったけれど、それでもハリーはトレーニングセンターのことが大好きになった。そんなハリーの様子を見て、私も安心して入院することができた。約一ヶ月の間、トレーナーさんは入院している私にハリーの写真や動画を送り続けてくれた。広いドッグランで他の犬たちと楽しそうに遊ぶ姿や、きちんと座って大人しくしている姿を見て安心した。頂いたメールで、いつもの怪力でクレートを壊したことを知り、あいつ、またやったのかと呆れるやら、申し訳ないやら。とにかく一ヶ月の間に、ハリーは大いにトレーナーさんを悩ませたに違いない。大人しくてとてもやさしい犬だけれど、弾丸のようなハリーの世話は骨が折れたことだろうと思う。感謝しかない。
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 私が退院した日もハリーはトレーニングセンターに預けられていた。夕方になり夫が帰宅してから、家族全員でハリーを迎えに行った。開胸手術を終えたばかりの私は、胸の傷めがけてハリーが飛びかかってくることを警戒していたのだが、一ヶ月ぶりに会ったハリーは、なんと私を軽く無視したのであった。子どもたちと再会できたことを喜び、大騒ぎし、夫に駆け寄り甘えるついでに私のところに来て、手をクンクンと匂って、身を翻して子どもたちのいる場所に走って行った。

 車に乗った後も、ハリーはまったく私を見ようともしなかった。助手席にどかっと座っているハリーに、後部座席から「ハリー、どうしたの?」と声をかけると、振り向いてちらっとは見るものの、その後は夫にばかり甘え、かまってくれと大騒ぎしていた。何度声をかけても、ちらりと見るだけで、それ以上は反応しなかった。

 ハリーはハリーなりに、心の中で折り合いをつけていたのだろうと思った。私が突然いなくなり、いつまで待っても戻らず、もうあの人はどこかへ行ってしまったと思ったのだろう。もしかしたら、こころの中で私という存在に別れを告げたのかもしれない。トレーナーさんや夫や子どもを頼りにして、この一ヶ月を過ごしていたのかもしれない。ハリーがそうすることでこの非常事態を乗り切ったのなら、それでかまわない。ハリーにだってきっと、彼なりの思いがあるはずだと私は考えた。

 少し寂しい気持ちにはなったものの、兎にも角にもハリーは無事に家に戻ったし、私の手術も終わったし、大きな山は越えることができた。一安心しつつ、パソコンに向かい退院した旨を友人や知人に知らせるメールを書いていて、ふと気づいた。遠くからハリーがじっと私を見ているのだ。声をかけても、目をそらして聞こえないふりをする。それなのに、少しすると、またじっと私を見ている。愉快だった。ハリーは絶対に私のことを覚えている。たぶん、腹を立てているのだ。

 こんなに長い間、どこに行っていたんだ! 僕を置いて、何をしていたんだ!

 疲れて早めに布団に入ったが、その日、ハリーが私の横に来ることはなかった。今までは、私が布団に入るやいやな、無理矢理体を押しつけるようにして真横で寝ていたハリーだったが、その日の晩は私に近寄ることはなく、遠くから私の様子を観察しているだけだった。30594207_10155233810806594_5068162306076122681_n
 夜中の二時ぐらいだったと思う。背中に、ドン! という強い衝撃を感じた。ハリーだ。しばらくじっとしていると、私の後頭部をクンクンと匂い、次に耳のあたりをベロベロ舐めた。そしてパジャマの襟を噛んで引っ張り、しばらく遊んだあと、鼻から勢いよくフン! と息を吐き出し、私の枕に自分の頭を無理矢理乗せた。そして1分も経たないうちに、大いびきをかいて寝始めたのだ。病気になってからというもの涙もろくなったけれど、この時もさすがに涙が出た。ハリーはやっぱり私を覚えていたのだ。

 この日以降、ハリーは再び私にぴったりと寄り添う生活を送っている。大きい体をして甘える姿はかわいいといえばかわいいのだが、このままではハリーにとっていい状況ではないのが悩みの種でもある。
 でも、もう少しだけ、あとほんの少しだけ、このままハリーと離れず一緒に過ごしたい。ハリーも私もすごくがんばったのだから、きっと神様も許してくれると思うのだ。
 

 

この連載は月2更新でお届けします。
次回2018年4月30日(月)掲載