犬(きみ)がいるから 村井理子

2018.5.15

20ゆったりした日々

 

 長い冬がようやく終わり、木々が一斉に葉を繁らせている。山から吹いてくる涼やかな風と、湖から吹いてくる温かな風が、ちょうどわが家のベランダあたりで顔を合わせて庭木を左右に揺らすと、美しく澄んだ青空に向かって勢いよく伸びた枝の鮮やかな緑の葉が、さらさらと心地よい音を出す。それを日がな一日眺め、のんびり暮らしている犬がいる。ハリーだ。ベランダが大好きなハリーは、鼻をクンクンと動かして初夏のにおいを嗅ぎながら、人間の私には想像もつかないようなものごとを考えている(たぶん)。そして、それに飽きたら昼寝をするのが日課だ。
 金〇に別れを告げ早一ヶ月、経過は順調である。毎日たっぷり運動し、たっぷり食べ、ぐっすり眠っている。ひなたぼっこが好きだから、わざわざ日光が当たる場所を選んでは、ドタッと大きな音を出して寝転んでいる。真っ黒い体なので熱を吸収しやすく、5分もすると息も荒くリビングに戻ってくるが、水分補給して、また挑戦。これを延々と繰り返す。私はそんなハリーの姿を眺めながら、皿を洗ったり、洗濯物を干したりしている。私が近くを歩くと、寝ていても少しだけ目を開けて、様子をうかがっている。起きている時に声をかけると、勢いよく尻尾を振って応えてくれる。バッタン、バッタンとベランダの床板を長い尻尾で叩いて鳴らしては、耳を下げ、口を開き、少しだけ舌を出す。まるで笑っているように見える。私まで思わず笑ってしまう。
 こんなにゆっくりと暮らしていて本当にいいのだろうかと、ふと不安になる時もある。もちろん仕事を完全にストップさせているわけではないけれど、以前に比べれば、随分ゆったりとしたペースだ。ただでさえ厳しいフリーランスの世界で、長期間休むことが何を意味するのか、嫌というほど理解しているつもりだ。しかし、そんな不安も、ハリーの顔を見ていると、すぐに忘れてしまう。もうしばらくゆっくりしていても、たぶん誰にも叱られないような気はする。なにせ、ここ数ヶ月は、なかなかどうしてハードな日々だった。ねえ、ハリーはどう思う?……こんな質問を投げかけながら、ずっしりと重くて大きな頭を撫でている。ハリーは何も言わない。

32187215_10155291515186594_5403581729002749952_n
 退院して真っ先に買ったのは、自分用のベッドだった。寝起きが楽だし、なにより布団のように頻繁に上げ下げしなくていい。術後しばらくは重い物も持てないだろうと考えて、思い切って買ってしまったのだ。それを私よりも喜んだのは、実はハリーだった。寝室の窓際にベッドを設置するやいなや、ハリーはその上に飛び乗って、我が物顔でくつろぎはじめた。もう少しで40キロになる巨体は、ちょっと押したぐらいではびくともしない。「どいて!」と何度声をかけても、知らん顔していびきをかきはじめる。何度か叱ると勝手には飛び乗らなくなったが、私がベッドに近づこうものなら、どこにいてもその動きを察知し、急いで走って来るようになった。
 私が座れば真横に座り、私が寝れば、オレもとばかりに寝てしまう。ものすごく邪魔だ。本を読もうとクッションを重ねて準備をすると、じゃあオレもそうしますみたいな顔をして、クッションにもたれたりする。やめて欲しい。あっという間に寝てしまうくせに、すべてに付き合うことが自分の使命であるかのように振る舞うハリーの愛は、いろいろな意味で私に重くのしかかる。私のベッドが私のベッドではなくなってしまった。くつろげない。なぜか私が寝にくい。でも、ハリーの静かな寝息を聞いていると、まあ、いいかと思ってしまう。少しぐらい譲ってあげてもいいか。だって、すごくかわいいのだ。ほとんど気絶レベルのかわいさなのだ。
 至近距離からハリーの顔を見ていると、なんだかとても不思議な気持ちになる。みっしりと生えた黒い毛。長くて固いヒゲ。大きな鼻、口、そして耳。柔らかくて、ふわふわで、まるで巨大なぬいぐるみだ。こんなに穏やかでやさしい生きものがわが家にいて、私の横に寝ているなんて、夢のようだ。ハリーと並んで寝転んで、風に揺れるカーテンの隙間から空を眺めていると、このままずっとこうしていられたら幸せだなと思う。風ってこんなに心地よいものだったのかと、思わず深呼吸する。胸いっぱいに空気が吸える。それがこんなにも素晴らしいことだったなんて、手術前の私は知らなかった。心が震えるほどうれしくて、寝ているハリーの頭を、何度も、何度も撫でてしまう。
 街の喧騒とは無縁な田舎の町で、聞こえてくるのは葉のこすれる音、そしてハリーの寝息だけだ。あまりにも静かで、穏やかな日々を送りながら、私は今まで何を幸せと考えてきたのか、思い出せないでいる。

 
 

この連載は月2更新でお届けします。

次回2018年5月30日(水)掲載