犬(きみ)がいるから 村井理子

2018.10.1

28痛恨の一撃!


 腹を立てている。当然、ハリーに対してだ。最近彼は、ちょっといい気になっているのではないか。調子に乗っているのではないか。私がやさしいからといって、何でもやっていいと思っているのではないか。もしそうであれば大きな間違いなので、一度、はっきり本犬には伝えておきたい。
 先日、本連載がまとめられた『犬(きみ)がいるから』の出版を記念して、東京の書店を巡り、トークショーとサイン会を行った。多くの読者のみなさんが、どれだけハリーのことを愛して下さっているか、どれだけ私の身を案じておられるか(ハリーに引っ張られて骨折などしないよう)、熱心に私に語りかけてくれた。そしてハリーへのお土産まで手渡して下さったのだ。私は感激した。これほどまでに愛されている犬がいるだろうか。こんなにたくさんのおやつをもらえるハリーはなんと幸せな犬なのか! お越し下さったみなさま、誠にありがとうございました。
 四日ぶりに家に戻った私を、ハリーは大歓迎した。まるで恋人に一年ぶりに会ったかのように、体をくねらせ、(鞭のような)尻尾を強く振ってイスを倒していた。しばらく私を追いかけ回し、トイレや風呂の外で座って待つほど、私の帰りを喜んでいた。何かというと横に座り、寝る時間になると私のベッドに無理矢理乗って、安眠を妨害し続けた。とにかく、子犬の頃のようなべったり状態に戻ったというわけだ。

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 東京から戻ってすぐに、雑誌の取材がわが家で行われた。犬を飼うこと、犬と暮らすことを対談形式で語るという趣旨で、数名の取材陣と対談のお相手が琵琶湖までやってきてくださったのだ。まずは、普段ハリーが爆走している琵琶湖に向かい、私とハリーと、対談のお相手である書評家との撮影が行われた。私は緊張でガチガチであった。なぜなら、私は長らく彼女の書評を読み、出演されたラジオやテレビ番組を視聴してきたのだ。「ほ、ほ、ほ、本物……」と震える私。そして何も気づいていない通常営業のハリー。ハリーはいつも通り枝をくわえて爆走し、私は固まった笑顔でカメラに収まったのである。
 そして取材陣と自宅に戻り、対談が行われた。ハリーは大変機嫌よく、そして愛想もよくみなさんに対応していたが、30分を過ぎた頃だろうか、突然、私たちが向き合って座るダイニングテーブルの下に潜り込んだのである。たぶん、ヒマだったのだろう。私はというと、目の前に座っておられる書評家の、膨大な読書量に裏打ちされた知識と文学への愛にあふれる話に、ファン丸出しで、ただ、聞き惚れていた。胸がドキドキした。こ、こ、これはまさに生メッタ斬り! メッタ斬りON LIVE!!
 しばらくして、ふと気づいた。ハリーが私の靴下を引っ張っている。おっと、これはめずらしい。子犬の時は靴下を狙うハリーにしょっちゅう足に飛びつかれたものだったが、一応成犬になってから、こんな子犬じみた遊びはしていなかった。当然私は完全に無視した。というのも、仕事に集中していたのだ。私なりに必死に頭を回転させ、犬と暮らすことの大変さ、喜びをなんとか伝えたいと一生懸命に話をしていた。しかし、私が集中すればするほど、ハリーは靴下を引っ張り、脱がせようと躍起になる。
 それでも私は無視を決め込んでいた。反応すらしなかった。かっこよく言うと仕事モードになっていたし、普通に言えば、緊張していたのだ。ハリー? そんな犬知らんわという感じで放置していたのである……足首に強烈な痛みが走るまでは。なんと、ハリーが私の足を思いっきり甘噛みしたのである。
 足首の皮膚の一部をぎゅっとハリーに噛まれた瞬間、大声が出そうになったが、出なかった。人間ってすごいものである。集中していると、かなりの痛みがあっても悲鳴なんてものはそうそう出ない。ハリーのいたずらに唖然とした直後、猛烈に腹が立った私は、噛まれた足でハリーのでっかい頭をぐぐぐっと押した。ハリーはぐぐぐぐと押し返してきた。押す、押し返す、それなら両足で押す、だったら靴下に噛みつく……という応戦を繰り返しながらも会話に集中していると、なんと、次は反対側の足首をぎゅっと噛まれたのだ。それも、相当な力で、頑丈な前歯を使って、皮膚を5ミリほど上手に挟んで、まるでペンチでやるように、ぎゅっ! とハリーは噛んだ。あまりの衝撃に私がひるんだ瞬間、靴下をくわえて脱がし、走り去った。
 取材陣が帰ったあと、「なぁんでもっとちゃんと話すことができなかったんだああッ!!」と、自己嫌悪に襲われて頭をかきむしっている私を遠目に見ながら、ハリーはニヤニヤ笑っていたと思う。まさに、してやったりの顔だ。「ハリー、お前、いい気になってんじゃないぞ! みんなにかわいいって言われたからって、カメラマンさんにたくさん写真を撮られたからって、お前は全然えらくないんだ!! それから甘噛みするなッ!」 
 私の言葉はむなしく空回りするだけで、ハリーの心には届かない。いままでもそうで、きっとこれからもそうだ。両足首に噛まれ跡(歯形の内出血)がある私を更に絶望の淵に落としたのは、その数日後、お気に入りの靴に穴を開けられたことであった。悲しすぎて絶望感しかない。
 ああもう、本当にイヤだ! でもハリーが好きっ!

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この連載は月2更新でお届けします。
次回は10月15日(月)掲載です。