科学と民主主義 藤井達夫

2024.3.11

0505 その後の民主主義へーー石炭から石油への転換がもたらしたもの 

経済成長を支えた化石燃料とケインズ主義

おおよそ一八七〇年代から始まり、第一次世界大戦後も続いた工業化社会の民主化は、第二次世界大戦後、新たな展開を迎える。その背景には、戦後の化石燃料の使用における大転換があった。石炭から石油への転換だ[1]。その中で、かつてその戦闘性によって大衆民主主義の扉を開き、代表制度の民主化に貢献した労働者は大きな変容を被ることになる[2]

ミッチェルによれば、エネルギー源の石炭から石油への転換は、労働者の物理的な力の行使を制限することになった。その理由の一つは、石油のエネルギーフローによる[3]。まず、石油の採掘が機械によるところが大きいために、石炭に比べ少ない数の労働者で事足りた。また、石炭の採掘場所が工業地帯に隣接することが多かったのに対して、石油の場合は、油田は工業地帯から遠く離れているだけでなく、中東のように、工業化した国々からも隔たれていた。さらに、石炭が鉄道によって都市や工場に輸送されたのに対して、石油はすでに十九世紀後半には登場していたタンカーによって海上輸送されていた。これらの特徴によって、石炭の時代に労働者が獲得したが物理的な力は弱体化せざるを得なかった[4]。 

石油は、一九五〇年代の中東での大規模な油田の開発と採掘によって、極めて安価で無尽蔵の化石燃料と見なされるようになる[5]。人類は、石炭に代わって石油という無限のエネルギーを手に入れたのだ。これによって、経済は、歴史上はじめて、物質の持つ有限性という制約から解放されることになった。

人類の生存を賭した生産活動は、有効利用するには余りに狭い土地や有限で希少な資源、人口増加に追いつかない食糧といった数々の制約の下に置かれてきた。それゆえ、経済は、長らく、限りある財の賢明な活用ないし節約を意味していた。ところが、第二次世界大戦後の経済は、石油のおかげで物質の制約から解放される。低価格で使い続けることのできる化石燃料は、人類史上初めて、無限の経済成長を現実のものとしたのである[6]

エネルギーフローの変化は、結果として労働者からその戦闘能力を次第に奪うことになった。しかしその一方で、この石油こそ、第二次世界大戦後の冷戦下において、西側資本主義諸国の工業化の発展を推し進め、それらの国々の代表制民主主義を新たな局面へ突入させたのであった。その新たな局面とは、戦後労使和解体制の構築であった[7]

戦後労使和解体制は、労働者が増大する富を雇用者側との交渉と妥協によって配分することに同意し、暴力による革命が放棄された体制である。この体制の下で、労働者と雇用者は敵対する階級という関係から、経済の発展と社会の安全という共通の利害関心の実現に向けた協力関係へと移行する。この協力関係が、西側諸国の資本主義経済を安定化させることで、労働者の生活の安全を保障する福祉国家が完成されていった。

ただ、戦後労使和解体制は、たんに労働者が雇用者側と対等に交渉するだけの権力を社会集団として獲得したというだけでは、成立しえなかった。加えて、二つの要因がその成立には不可欠であった。

まず、労働者の要求に対する資本家と雇用者側の妥協がどうしても必要であった。第二次世界大戦後の西側諸国において、その妥協を引き出したのが、ソ連を盟主とする共産主義の存在であった[8]。労働者の要求に対して、共産主義の影響力を危惧した雇用者側から譲歩を引き出させることになった冷戦とソ連のプレゼンス。これらは、西側諸国における戦後労使和解体制と樹立には、不可欠な要因であった[9]

もう一つが、第二次世界大戦後の西側諸国の富裕化であり、それをもたらした高度経済成長であった。そして、この経済成長を可能にしたのが、無尽蔵に存在すると見なされ、安価で供給された石油に他ならない。、第二次世界大戦後、工業化に成功し、豊かになった西側民主主義諸国の主要な政治争点は、富の配分の問題へと収斂していく。平和裏に国家が行う富の配分と経済的不平等の緩和は労働者たちを貧困から脱却させると同時に、政治的には労働者たちを保守化させていった。豊かになり始めた労働者にとって、革命ではなく日常生活の継続こそ、自分たちの利害に適うようになる。こうして、戦後労使和解体制はさらに強固なものとなっていった。

戦後の西側諸国の経済成長を資源面で支えたのが石油という化石燃料であったとすれば、政策面で牽引したのがケインズ主義であった[10]。ここでのケインズ主義は、二〇世紀を代表するイギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズの経済学を基盤にした、一九二九年の世界恐慌後の資本主義世界における統治の包括的な様式を意味する[11]。ウォール街の株式取引所での株価大暴落に始まった資本主義経済の崩壊が資本主義諸国の社会それ自体を解体させていく最中で、ケインズ主義は資本主義を維持しながら経済を再建すると同時に、瓦解の危機にあった社会の安全を確保しようとした。当時、それは、ファシズムに代表される全体主義およびソ連の社会主義などに代わるもう一つの選択肢となった、アメリカのローズベルト大統領のニュー・ディール政策にも影響を及ぼした[12]。そして、第二次世界大戦後、西側資本主義陣営の盟主であるアメリカでは、共和党の大統領アイゼンハワーが民主党のニュー・ディール政策を引き継ぐことで、ケインズ経済学にもとづく「ニュー・ディールの秩序」が確立される[13]。アメリカ以外の西側資本主義諸国も左派右派政権を問わずケインズ主義を採用することで、それは一九七〇年代までの統治における基本的な様式になるのである。

第二次世界大戦後の西側資本主義諸国は、金為替本位体制による国際通貨管理政策の下で、ケインズ主義の代名詞である、政府による積極的な財政政策によって経済成長を遂げていった。その一方で、ケインズ主義によって統治された社会では、その担い手となった労働者とその家族の生活の安全を維持することが極めて重要な課題となった。そのための主要な手立ては、社会保険と社会事業である[14]。こうして、西側資本主義諸国において、ケインズ主義の政策パッケージの下で、労使の協調体制が進み、工業化と同時に福祉国家化の完成が目指されたのであった。

代表制民主主義の黄金期とその翳り

豊かさと安全が確保され、成熟に向かう西側の工業化社会において、代表制民主主義は一九六〇年代、その黄金期を迎える。そこでは、労働者と資本家という二大集団から構成される社会に深く根を下ろした政党が、各々の支持者集団の利害関心を実現するべく、政治権力の獲得を目指して、定期的かつ頻繁に開催される選挙をとおして競争をする。こうして革命の暴力ではなく、言葉による交渉と妥協によって、社会内部の抗争が平和裏に解決される。選挙によって表明される社会の多数派の意思に従う政治によって、統治される者が自ら統治するという民主主義の自己統治の理念が実現されたわけだ。そのような擬制が説得力と正統性を持ちえたといった方が、より精確であろう。しかし、その一方で、代表制民主主義の黄金期を可能にした石油とケインズ主義は、負の影響も及ぼすことになった。それが専門家の行使する権力の増大と日常生活への浸透であった。

自由放任の市場主義が社会に及ぼす致命的なリスクに対する反省から、ケインズ主義は、経済学者や官僚、あるいは、実務経験者といった専門家が市場を規制することによって社会の安全を実現しようとした[15]。この事態は、それらの専門家の権威を高め、その権力を増大させることになった。さらに、石油とケインズ主義によって完成された福祉国家の秩序は、市民としての義務を果たすことのできない個人や問題を抱えた家族、あるいは荒廃したコミュニティに対して多くの専門家が介入し、規律化を伴う物質的および精神的支援を行うことで維持された[16]

このように、第二次世界大戦後の代表制民主主義は工業化の進展と共に黄金期に向かう一方で、その黄金期を可能にした条件に由来する障害に直面する。その障害がテクノクラシー、すなわち専門家による支配であった。官僚、法律家、教育者、医者、工場のマネージャー、エンジニアといった専門家たちの行使する支配に対して、代表制度を超えて民主主義の理念をいっそう深化させようとする運動が西側諸国で巻き起こった。それが参加民主主義である[17]。参加民主主義においては、選挙という政治参加を超えて、日々の生活の場、例えば、職場や学校などでの自治が目指された。これは、専門家によって領有された社会を市民が自ら統治することで、非支配という民主主義の理念をさらに実現しようとする運動であった。「より多くの民主主義」を求める動きは、六〇年代から「ニュー・ディールの秩序」が崩壊していく七〇年代の西側の民主主義諸国において広く観察することができた。

また、この時期には、豊かになった西側の工業国において、特に戦後生まれの世代を中心に脱物質主義的なメンタリティが広く浸透し始める。一般に、社会学の用語として脱物質主義が意味するのは、個人が物質的な価値、すなわち経済的な富や安全以上に、自律や自己表現により価値を置く傾向だ。平たく言えば、モノの豊かさよりも、こころの豊かさをより重視する人が増えるようになったということだ。この脱物質主義の普及と相即するように、政治の領域では、アイデンティティの政治が注目されるようになる[18]。アイデンティティの政治とは、人種や民族、ジェンダー、性的指向などとして現れるマイノリティ集団のアイデンティティの承認と、それらの差異に起因する暴力や搾取、排除、抑圧などの社会的不正義の是正を目指す政治運動ならびに思想を意味する[19]。七〇年代以降活発化する、アイデンティティの政治のアジェンダ化は、ポスト工業化社会の民主主義を象徴する動向として次第に理解されるようになる[20]

参加民主主義、そしてアイデンティティの政治は、エリート主義を批判し、政治的平等のより実質的な実現を目指した点において、民主主義を深化させる契機であった。言い換えれば、それらは、工業化社会が完成へと向かう中で広がった専門家による支配や画一化を強制する規律権力に対抗し、市民による自己統治という民主主義の原初的な理念に立ち返ることを目指す運動であった。しかし、その一方で、この二つの契機は、代表制民主主義に対して大きな負荷をかけることになった。その負荷はすでに七〇年代の半ばには「民主主義の過剰」としてフォーカスされる[21]経済的な富の配分以上の任務を政治に負わせようとする要求が増大すればすれるほど、そして、それらに政府が対応できなくなればなるほど、人びとの政府に対する不満と不信が蓄積する。余りに多くを求める民主主義が、こうして政府の統治能力を危機に晒しているというわけだ。

[1] シュミルによると、化石燃料としての原油の大規模な使用が始まるのは、「一九世紀最後の数十年のこと」であり、その使用の普及には、自動車などの内燃機関の発明、さらには後の蒸気タービンの発明が不可欠であった。バーツラフ・シュミル(二〇一九年)『エネルギーの人類史』下巻、塩原通緒訳、青土社、四二~六一頁を参照。

[2] Mitchell,T(2011)Carbon Democracy:Political Power in the Age of Oil:Verso, p.29.

[3] Mitchell(2011),pp.31-32, pp.36-39.

[4] ミッチェルは次のように述べている。「石油産業のこれらおよびその他多くの社会的技術的な特徴によって、石油の生産からより民主的な政治のメカニズムを作り上げることは次第に困難になっていった」(Mitchell(2011), p.237.)

[5] サウジアラビアのダンマーム油田とクウェートのブルガン油田がそれに当たる。第二次世界大戦後の中東の油田開発によって、中東が世界の原油供給地域の中心地となる。これについては以下を参照。https://www.eneos.co.jp/binran/document/part01/chapter01/section03.html(二〇二三年一〇月九日最終閲覧)

[6]。シュミル(二〇一九年)、二〇四~二〇七頁。

[7] 一例として、以下を参照。久米邦夫(一九九一年)「戦後労使和解体制の形成――戦後日本政治経済のマイクロ‐マクロ・リンク」、『年報政治学』四二巻。

[8] ガーストルは、アメリカの文脈でこの点について論じている。Gerstle, G.(2022). The Rise and Fall of the Neoliberal Order: America and the World in the Free Market Era. Oxford University Press, p.29.

[9] 経済学者の吉川洋が指摘するように、第二次世界大戦後の日本の高度経済成長の前提には、冷戦の開始によるアメリカの占領政策の転換があった。当初、「懲罰的」な意図をもった占領政策は、冷戦の勃発によって、東アジアの反共の砦として、日本の経済の再建が最優先とされた。この点については、以下のテキストを参照。吉川洋(二〇一二年)『高度成長――日本を変えた六〇〇〇日』、中公文庫、一三〇~一三三頁。

[10] Mitchell(2011), pp.142-143.

[11] Rose,N.(1999). Powers of Freedom: Reframing Political Thought. Cambridge University Press, pp.127-128.

[12] Gerstle(2022).pp.22-23.

[13] Gerstle(2022).p.45.「ニュー・ディールの秩序」は、ガーストルの用語である。

[14] Rose(1999), pp.119-133. ニコラス・ローズは社会保険や社会事業のはじまりを「社会的なものの視点からの統合」として論じでいる。

[15] Mitchell(2011), pp.192-193. ミッチェルの指摘によれば、石炭に比べ石油を産出し、輸送し、利用するにはより多くの専門的な技能を有するエンジニアが必要であった。

[16] Rose(1999), pp.133-134.ローズによれば、専門家の介入と規制化によって作られようとしたのが「社会的市民」であった。

[17] 参加民主主義に関する古典的なテキストとして、ここでは以下の二つの古典的テキストを挙げておく。C.ぺイトマン(一九七七年)『参加と民主主義理論』、寄本勝美訳、早稲田大学出版会。C.B.マクファーソン(一九七八年)『民主主義は生き残れるか』、田口冨久治訳、岩波新書。

[18] 後に参照するアン・フィリップスは九〇年代の半ばにこの転換を「理念や意見の政治」から「存在の政治」として論じている。Phillips, A.(1995). The Politics of Presence: The Political Representation of Gender, Ethnicity, and Race. Oxford University Press, ch.1.

[19] I.M.ヤング(二〇二〇年)『正義と差異の政治』、飯田文雄、苅田真司、田村哲樹監訳、法政大学出版局。

[20] 例えば、その動向は「配分の政治」から「承認の政治」への転換として理論化されることになった。その代表的なテキストとしては、以下を挙げておく。N.フレイザー、A.ホネット(二〇一二年)『再配分か承認か?―― 政治・哲学論争』、加藤泰史監訳、法政大学出版局。

[21] 民主主義の過剰については、以下のテキストを参照。S.ハンチントン、M.クロジエ、綿貫譲治(一九七六年)『民主主義の統治能力』、綿貫譲治監訳、サイマル出版会。