市場原理が社会を支配する
冷戦期の西側諸国の工業化を推進してきたニュー・ディールの秩序の「行き詰まり」と、そのただ中で沸き上がった民主主義の「過剰」。こうした状況を解決するべく呼び起こされたのが新自由主義であった[1]。したがって、ポスト工業化社会の統治という観点からすると、新自由主義には二つの課題が与えられていたわけだ。すなわち、ニュー・ディールの秩序の行き詰まりの打開と、行き過ぎた民主主義の抑制である。
新自由主義によるニュー・ディールの秩序の清算の方法は、よく知られている。ニュー・ディールの秩序を形成し維持するための大原則は政府による規制と介入であった。それらを緩和もしくは撤廃すること。これが、「行き詰まり」を打開するための新自由主義の主要な戦術であった。例えば、金融市場や労働市場に対する政府による規制を緩和し、その介入を可能な限り抑制すること。ただ、新自由主義は、市場が孕むリスクを管理するための規制を標的にし、それを取り払う戦術によってニュー・ディールの秩序を清算しようとしただけではない。その最終的な狙いは、自由な競争こそが望ましい秩序を形成するという統治の構想にもとづいて、ポスト・ニュー・ディールの世界を構築することであった
競争の秩序形成機能はしばしば市場原理と呼ばれる。新自由主義と十八世紀および十九世紀の自由主義との違いを正確に把握するには、この市場原理について注意深く検討する必要がある。新自由主義にとって市場は競争の場であって、古典的な経済的自由主義を確立したアダム・スミスにとってそうであったような交換の場ではない。スミスにとって、交換は人類の自然な営みであるから、国家が市場に介入する必要はないし、してはならない。ここから、市場は自由放任の場となる。これに対して、競争は人間にとって生来的な営みでも、自然発生的な活動でもない。それは、作為的に創造され、促され、調整され、管理されなければならない。ゆえに、市場を競争の場とする新自由主義にとって、市場は統治する権力が積極的に介入し保護する場となる[2]。ここから、「小さな政府」をモットーにした新自由主義の統治において、行使される権力そのものは強化されたという一見矛盾した事態が説明可能となる。
ポスト・ニュー・ディールにおける新自由主義の統治において決定的に重要なのが、この競争としての市場原理が経済の領域のみならず、教育から社会保障などのセイフティネットにまで導入されることになったことだ。例えば、社会保障制度に市場原理が導入された結果、ニュー・ディールの秩序では個々人が遭遇する失業や病、加齢といったリスクは国家の責任の下、様々な規制によって集合的に管理されていたのに対して、ポスト・ニュー・ディールにおける新自由主義の統治ではそうしたリスクは個々人が競争を通して独力で対処すべきものとして再構想されていった[3]。
激烈な競争と個人主義化
ニュー・ディールの秩序の清算と比較するなら、新自由主義における民主主義の過剰への対応は、いくぶん複雑な様相を呈した。
まず、新自由主義の下で、労働者を主体とするミドルクラスは持つ者と持たざる者へと分断された。結果として、この事態は民主主義を弱体化する効果を持つことになった。というのも、それはミドルクラスという工業化社会における民主主義の担い手の解体を意味したからだ。別の言い方をすれば、ヨーロッパを中心にした戦後の工業化社会における民主主義は、ミドルクラスが担い手となった《社会的なもの》を権力基盤とする民主主義――一般に、これは社会民主主義と呼ばれた――であったが、新自由主義がミドルクラスの分断をとおして破壊したのがこの《社会的なもの》であり、したがって社会民主主義であった[4]。いずれにせよ、新自由主義によって統治されたポスト工業化社会の民主主義はかつての黄金期における担い手と基盤を喪失することになったのである。
また、この分断と共に、新自由主義の下では個人主義化が深まりを見せた。自由主義というイデオロギーの系譜上にある新自由主義は自由を重視する。しかし、自由の理解も様々である。新自由主義においては、数ある自由概念の中でも、市場における選択の自由が特権視された[5]。この選択の自由こそ、ポスト工業化社会において実現されるべき最高の善ないし価値だというわけだ。自由主義にはお馴染みの自由の理解ではあるが、ただ、ここで注意すべきは、新自由主義にとって、この選択の自由は、事実上、競争を前提としているという点だ。選択の自由というイデオロギーが支配的になるのに伴って、個人主義化がいっそう進むことになった[6]。それはなぜか。
新自由主義の選択の自由は実際のところ、市場における無慈悲な競争の果ての勝者となってはじめて獲得し行使されうるものである。このため、それは、基本的にはホッブズの描いた「万人の万人に対する闘争状態」に行き着くことになる。闘争状態に置かれた個々人は生存をかけた敵対者同士であることから、人びとは不安と不信の中で相互に孤立せざるを得ない。また、そのような環境において他人はしばしば、自己の選択を妨害する障害と見なされ、包摂の対象ではなく排除の対象となる。こうして個人化が加速することになる。
ポスト工業化社会における民主主義にとって、個人主義化の進行が問題を孕むことはいうまでもない。まず、選択の自由というイデオロギーが社会に広く浸透することで、民主主義に対する理解は矮小化されることになった。というのは、元来、民主主義は、他人の恣意的な意思の下に置かれることがないという「非支配」という自由概念を基礎に据え、市民間の熟議と協働にもとづく集団的な自己統治によってそれを実現しようとする政治を意味した。しかし、こうした政治は、新自由主義からすれば、個人の自由を抑圧する全体主義と変わらない。他人たちをそもそも自己の選択の障害であると見なすがゆえに、この理解が導き出される。次に、個人主義化の進展は、持つ者と持たざる者との分断された社会において、特に後者の集団をさらに複雑に分断することになった[7]。これらの個人主義化や分断はある目的のために市民が団結して行動することを難しくさせる。選挙だけに留まらない政治参加を理想として代表制度の改革を求めた民主主義の新しい機運が鎮静化してしまった結果、ポスト工業化の中で形骸化しつつあった代表制民主主義は延命されることになったのである。
アイデンティティの政治の私事化
しかしながら、ポスト工業化社会において民主主義の深化を求めるすべての動向が新自由主義と衝突したわけではない。実は、アイデンティティの政治と新自由主義とは、思いの外、親和的であった。その親和性は双方がよって立つ自由概念に着目することではっきりと見えてくる。その自由概念とは、選択の自由である。アイデンティティの政治は、元来、民主主義の原初的な理念である自己統治を実現する上で不可欠な、市民の包摂性と市民間の対等性を求める民主主義的な運動であったといえる。包摂性とは、政治的な決定に影響を受ける者は、市民としてその決定に参加できなければならないという規範であり、対等性とは、その決定においてすべての市民が対等な影響力を行使できなければならないという規範である[8]。ところが、新自由主義の秩序の下で進んだ脱民主主義化の中で、アイデンティティの政治は大きな変容を被ることとなった。それは、民主主義を深化させる運動という性格を次第に弱めていく一方で、セクシュアリティや人種、民族といったアイデンティティの選択において個人の自由の拡大を求める運動という性格を強めることとなった。この傾向が意味しているのは、アイデンティティの政治の私事化である。その結果、個人の選択を構造的に制約したり妨げたりする可能性のある社会的あるいは経済的不平等の問題への関心や取り組みが薄れていった。いずれにせよ、私事化されたアイデンティティの政治は、市場における個人の選択の自由をもっとも重要な価値とする新自由主義の秩序にそれほどの軋轢もなく包含されることとなったのである[9]。
新自由主義がニュー・ディールの秩序に代わる新たな秩序としてヘゲモニーを握る一九九〇年代以降だ。その当時のヨーロッパそしてアメリカにおいて、アイデンティティの政治と新自由主義が結合した「革新的新自由主義」が誕生した。それはポスト工業化社会の左派陣営の主要な一角を形成することになる[10]。ここにおいて、新自由主義はついに右派のみならず左派の統治の構想の核にまでなったのである。
この革新的新自由主義とはどのようなものであるのか。ここでは二つの特徴を指摘しておこう。一つは、セクシュアリティや人種、民族における多様性の尊重である。これは、アイデンティティをめぐって保守勢力から自分たちを峻別する革新勢力の重要なイデオロギーに他ならない。もう一つの特徴は、出自などの生まれながらの属性でなく個人の能力を社会的選別の基準とするメリトクラシーである。競争に打ち勝つ能力およびそれを証明する業績のある者のみが、選択の自由を享受することができるというわけだ。ここに見られるメリトクラティックなエリート主義は、新自由主義の統治の時代の民主主義を特徴づける主要な要素である。それは後に、ポピュリストによる格好の攻撃対象となることになる。
エリートによる統治の復活
工業化社会からポスト工業化社会への転換において、西側諸国が採用した新自由主義の下での民主主義はこのようなものであった。これまでの議論で繰り返してきたように、この転換によって、代表制民主主義が機能するための、社会的・経済的・文化的な条件が喪失されていった。これを背景として、ポスト・ニュー・ディールの秩序形成を担った新自由主義は代表制民主主義を民主主義的な側面において骨抜きにし、代表制度という側面では延命させたといえるであろう。
前者に関して、新自由主義が、イデオロギーの面において民主主義に敵対的であることに議論の余地はない[11]。新自由主義の理論家たちは、ハイエクにせよ、フリードマンにせよ、オルド派の思想家たちにせよ、民主主義を反自由主義的であるとして一蹴する。例えば、民主主義は近代において、人民主権論を根本原理として復活した。しかし、ハイエクにとってそれは、唾棄すべき概念であった。また、これらのイデオローグはさておき、一九九〇年代以降、グローバルなスタンダードとなった新自由主義の統治の下で、行政に民間企業の経営方法を積極的に導入しようとしたニュー・パブリック・マネージメントが一世を風靡した。それと共に、市民による共同の統治という理想は専門家による「ガバナンス」に置き換えられ、非支配という民主主義的な自由のために不可欠な市民間の熟議や協働は、政治権力を行使する代表者側の情報公開と説明責任、透明性が確保されれば、もはや不必要なものと見なされるようなっていった。
こうした背景の下で、代表制度は本来の姿を取り戻すことになった。すなわち、エリートによる統治という反民主主義的な姿だ[12]。工業化社会において大衆化した民主主義は、選挙権の拡大という政治的平等の形式的な拡張と大衆政党を媒介にした有権者による代表者のコントロールとによって、代表制度のエリート主義的性格を薄めようとしてきた[13]。その試みは、ある程度、うまくいったといえるであろう。しかし、すでに論じたように、ポスト工業化社会への転換をとおして、代表制民主主義の機能不全は公然となり、代表制度を民主主義の制度とする擬制は現実味を喪失し、民主主義的正統性は毀損されていった。確かに、一九六〇年代の後半以降、より多くの民主主義を求める様々な運動が噴出した。それは、代表制度の下で傷つけられた民主主義の正統性を選挙とは別の仕方で補足し強化しようとする運動でもあった。しかし、新自由主義の統治の下、こうした運動が行き詰まりを見せる中で、民主主義的な規制から解き放たれた代表制度がその本性を露にしたとしても、何らの不思議はない[14]。
一九八〇年前後のイギリスとアメリカを皮切りに、西側の民主主義諸国の統治に新自由主義が導入され、冷戦後の九〇年代のアメリカの民主党とヨーロッパ諸国の左派政党がそれを継承する。これによって、新自由主義はグローバルなヘゲモニーを獲得する。いわゆるこの「新自由主義の秩序」の時代にエリート主義の性格を強めた代表制民主主義は、結果として、二つの方向からの反発に突き上げられることになった[15]。
一つが、ポスト・トゥルースの広がりの中での、下からの反発である。ポスト・トゥルースとは、事実よりも、個人の信条や価値観に訴えかける情報に基づいて、世論形成や政治行動がなされる状況を意味するが、これは多くの民主主義諸国において、民主主義のポピュリズム化として観察されている。その代表的な事例が、アメリカにおけるトランプ政権の誕生であった。もう一つが、民主主義からのエリートの離反という、上からの反発である。これらの帰結についてはもう少し詳しく見てみよう。
[1] ここでの新自由主義の理解は、「行為の導き」による「統治」というミシェル・フーコーの議論にもとづいている。このタイプの新自由主義に関する論考として最も優れているのが、すでに参照したニコラス・ローズのテキストである。特に、Rose(1999), ch.1を参照。
[2] M.フーコー(二〇〇八年)『生政治の誕生――コレージュ・ド・フランス講義1978-1979年度』、慎改康之訳、筑摩書房、一四四~一四九頁。ここでフーコーは、特にオルド自由主義にフォーカスしながら、市場ならびにその本質である競争が統治の作用をとおして産出されるという、市場-構築主義的な議論を展開している。
[3] 新自由主義の統治の特徴は、ここで述べた規制の緩和や撤廃にあるだけではない。ここでは、ポスト工業化社会の民主主義を理解する上で必要な以下の二点を挙げておく。一つが、「ネオ・ビクトリア風」という様相で現れた、自立と依存をめぐる道徳主義である。日本では、自己責任論の広がりや生活保護受給者へのバッシングという形で現れた。もう一つが、国家や社会に依存しない自己責任的な主体形成のための多種多様なテクニックである。それらの多くは労働者を起業家化する試みの中で発明されていった。
[4] 《社会的なもの》および《社会的》民主主義についてのコンパクトな説明として、拙著を挙げておく。藤井(二〇二一年)、第五章。また、上記のテキストと同様な民主主義の理解を提示しているものとして、ロベール・カステルの議論を参照のこと。R.カステル(二〇一五年)『社会喪失の時代――プレカリテの社会学』、北垣徹訳、明石書店。
[5] 新自由主義の数あるイデオロギーの内、もっとも世俗化され普及したものがフリードマンの議論であろう。ここでは、彼のもっとも有名な次のテキストを挙げておく。M.フリードマン(二〇〇八年)『資本主義と自由』、村井章子訳、日経BPクラシックス。
[6] 個人主義化の浸透は、伝統的な経済学や政治学が前提とするホモ・エコノミクスの合理的選択理論、あるいは、ポスト・モダニズムの消費社会論などの言説においてはっきりと確認できる。後者に関しては、一例として以下のテキストを参照。Z.バウマン(二〇〇八年)『新しい貧困――労働、消費主義、ニュープア』、伊藤茂訳、青土社、第二章。
[7] アンダークラスについての最も手ごろな論考はガルブレイスのものであろう。Galbraith, J. K.(1992). The Functional Underclass, in The American Philosophical Society, Vol. 136, No. 3, The American Philosophical Society.
[8] 民主主義の理念を実現するには、包摂性と対等性に加えて、相互正当化(熟議)という規範が不可欠である。相互正当化については、以下のテキストを参照。Forst, R.(2014). Justice, Democracy and the Right to Justification: Rainer Forst in Dialogue, Bloomsbury, ch.1.
[9] ガーストルは、新自由主義の秩序とアイデンティティの政治の両立可能性をアメリカの事例において指摘している。Gerstle(2022), pp.148-149, pp.183-184.
[10] 「革新的新自由主義」については、ナンシー・フレイザーの簡易なテキストを参照。Fraser, N.(2019). The Old Is Dying and the New Cannot Be Born. Verso, pp.11-15.
[11] W.ブラウン(二〇二二年)『新自由主義の廃墟で――真実の終わりと民主主義の未来――』、河野真太郎訳、人文書院、八五-九〇頁。
[12] J.ランシエール(二〇〇八年)『民主主義への憎悪』、松葉祥一訳、インスクリプト、七四頁。
[13] 藤井(二〇一九年)、一二七~一三三頁。
[14] もちろん、現代の代表制度を支配する少数のエリートとは、十九世紀における地元の「名望家」ではない。それは、新自由主義が統治するポスト工業化社会において爆発的に増殖した高学歴のマネージャー(経営者あるいは管理職)である。
[15] ブラウン(二〇二二年)、一一三~一一四頁。ブラウンによれば、現在民主主義は上からと下からの反対と、右派からと左派からの反対に晒されているが、本論考では、前者を中心に取り上げる。