科学と民主主義 藤井達夫

2023.10.16

0202 人新世と民主主義

人新世の時代とは

これまで民主主義の牽引役であった西ヨーロッパやアメリカ、そして日本では、工業化社会からポスト工業化社会への転換が生じた。それらの国々で現在、代表制民主主義が行き詰まりを見せているのは、けっして偶然ではない。

とはいえ、この要因だけで代表制民主主義が現代に適合しなくなっていることを説明するのであれば、十分とはいえない。ポスト工業化とは異なる視点から、現代を見た場合、もう一つ別の理由が理解できる。それによれば、代表制民主主義は、かりにそれが機能するための条件を喪失していなくとも――言い換えれば、ポスト工業化社会への移行がなかったとしても――、上手くいかない。なぜなら、代表制民主主義はその制度上の仕組みそのものに、現代社会が抱える固有の問題に効果的に取り組むことを妨げる欠陥が存在するからである。

代表制度の下での民主主義は、単純化していえば、有権者が自らの選好を表明する選挙が定期的かつ頻繁に行われるという仕組み、その選挙によって選出された代表者が政策決定ならびにその執行を担うという仕組み、その過程で社会の様々な利益集団――業界団体や労働組合、女性、障害者団体など――が影響力を行使するという仕組みによって運用されている。それらを通して、「支配されることを避けるべく、自分たちで統治する」という政治の理想を実現しようとしてきた。しかし近年、この仕組みそのものの欠点が露になり始めている。それは、私たちの生きているこの時代が、これまでの時代とは比較不可能なまったく「新しい」時代に突入したことによる。新しい時代が突きつける課題に対して、これらの仕組みでは適切に対応できなくなっているのである。

現代の新しさを説明する際に、「人新世」という用語がしばしば用いられる。それは、地質学上の用語として誕生したものの、私たちの直面している事態が、もはや人類に関わるだけの問題でなく、地球環境全体のあり方を決定する出来事であることを含意する。人類が、その活動の痕跡を地層に認めることができるほど、地球環境全体に圧倒的な影響を及ぼしている点にこそ、「人新世」としての現代の新奇さがあるのだ。

この言葉が日本において広く知られるようになる上で、斉藤幸平『人新世の「資本論」』が一役買っていることに間違いない。そこでは人新世という用語によって示唆される現代の「新しさ」は、資本主義とその外部性との関係から説明されている。

資本主義では、その発展には必ず犠牲が伴う。グローバル・ノースと呼ばれる先進資本主義諸国では資源を膨大に使用することで、「経済成長」が追求され大量生産・大量消費型の「豊かな」生活が営まれている。しかし、そのような生活はグローバル・サウスと呼ばれる、発展途上国の貧困や環境破壊といった犠牲なしでは成り立たない。要するに、一部の資本主義諸国の繁栄、そこでの豊かな暮らしは、多くの犠牲に依存しているだけでなく、それを自分たちの暮らしの外部、すなわちグローバル・サウスという外部に転嫁し、不可視化することで可能となっているのである。

そうだとすれば、この外部が消滅し、収奪や搾取の外部化が不可能になった時、資本主義は行き詰まらざるを得ない。そして、現在、この外部が消えつつあるというのが『人新世の「資本論」』の基底となる筋立てだ。

経済成長を謳歌するグローバルノースの外部としてのグローバル・サウスはいかなる犠牲を強いられているのか。その国々において、まず、労働の搾取がある。そこでの安価な労働力によって生産された商品がグローバル・ノースにおける生活の豊かさを維持してきた。しかし、この安価な労働力という外部は現在、グローバル・サウスの国々の富裕化と共に、次第に消滅しつつある。さらに、グローバル・サウスにおいて収奪の対象となってきたのが自然である。資源という形で収奪されることもあれば、モノカルチャーによる環境破壊という形で収奪されることもある。この外部も現在、消尽しつつある。この帰結が、温暖化による気候変動などの環境破壊という形で現出しているのである。

有限な地球環境が資本主義の外部化を許容しえなくなったために、資本主義が根源的な危機に見舞われる時代。それが「人新世」だとされる[1]

こうした説明に説得力があることは確かだ[2]。極限まで資本主義化した私たちの生活の様式や社会制度、そして価値観が気候変動による地球環境の破壊の原因であるとしよう。そうであるなら、人新世としての現代を資本主義との関係から理解した上で、さらに、脱資本主義化した生活様式や価値観を探求するという道筋はきわめて論理的だと言える。とはいえ、この論考では、それらとは異なる観点から人新世と呼ばれる現代を理解しようと思う。そうした方が、人新世の時代の民主主義の問題により的確にアプローチできると思われるからだ。

人新世と呼ばれる現代において、人類は、これまでにない変容を経験をしつつある。このことを理解するには、人新世以前の人類がどのような存在であったかを確認することから始める必要がある。

人類がどのような存在であったのか、言い換えれば、他の生物にはない人類に固有の特徴がいかなるものであったのかについては、多様な指摘が可能であろう。例えば、古くはアリストテレスが人類を「ポリス的動物」と規定したことは有名だ[3]。アリストテレスによれば、ロゴスを有する人類は生来、当時ポリスと呼ばれた政治共同体において集団で生存する存在である。

こうした古典的な理解の一つに、自らの手で歴史を創造する、いわば「歴史的動物」としての人類という理解が存在する。自らの有限性を自覚する唯一の生物として、人類は、生物学的な誕生から死に至る時間の経過を「歴史」として認識し、その中で自らの存在意義を見出そうとしてきた。このような生物にとって、「歴史」として表象される時間の経過は、他の生物のようにただ与えられ、それに服従するしかない宿命ではない。それは、生きられた現実として、自ら創り出す対象となる。「歴史的動物」としての人類とは、まさに、自らの手で「歴史」を創造する生物に他ならない。歴史の教科書には「歴史」を創造した人類の営為が記述されており、その記述を読むことで、私たちは人類とはいかなる生物で、自分たちが誰なのかを知ることになる。

例えば、カール・マルクスは、人類を「歴史的動物」として捉えることで、次のように述べている。

 

人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする[4]

 

マルクスはヘーゲル流の観念論的な歴史の理解を批判して、歴史を諸個人の生活様式=生産の物質的諸条件から理解しようとした。上の引用に登場する人類は、歴史を創造する動物に他ならない。しかし、それだけではない。人類による歴史の創造は、所与の条件によって制約され、状況づけられていることがこの引用では示されている。

本論考では、人新世としての現代の新しさは、歴史を創造する際に私たちを制約し状況づけてきた条件が大きく変更され、破壊されようとしている点にあることを論じる。すなわち、人新生の時代は、歴史的動物として理解された人類を、これまでにない形で大きく変容させつつあるのだ。

歴史を創造する際、人類を制約する条件としてまず思い浮かぶのは、過去であろう。社会的な営みや制度が過去によって制約されるという問題は、現代の社会科学では「経路依存性」という用語によって説明されてきた。経路依存性とは、一般に、現在の制度や意思決定は、過去の出来事や意思決定、慣例によって制約されることを意味する。要するに、現在の私たちが、何らかの決定をしたり、制度を構築したりすることは、私たちが経験した特異な過去という条件によって常に拘束されているために、自由にはできないということだ。マルクスもこの点を強調している。

それでは、私たちの決定や行動を制約する条件は、これまでの経路以外に何があるだろうか。私たちは、過去に拘束されているだけでない。当然、現在にも制約されている。そうした現在が課す制約として決定的に重要なものが二つある。一つが自然と呼ばれる地球環境であり、もう一つが、私たちの身体である。「人間史全般の第一の前提は、いうまでもなく、生きた人間諸個人の生存である。‥‥。第一に確定されるべき構成要件は、これら諸個人の身体組織と、それによって与えられる身体以外の自然に対する関係である」[5]。自然と身体こそ、マルクスによれば人類の歴史の記述の出発点に他ならない。

制約条件としての身体と地球環境の重要性を説明するのは比較的容易だ。まず、地球環境に関して。そもそも地球環境は身体と共にある私たちの生存の基盤そのものだ。生物としての私たちは、この環境によりいっそう柔軟に適応することで現在の繁栄を築き上げた。また、変化に富む地球環境は、人類の生活様式や文化の多様性を育む直接的な要因となってきた。いずれにせよ、地球環境が私たちの生存を許容してきた限りにおいて、生物として絶滅を免れてきた事実は、6600万年前の恐竜の絶滅を挙げるまでもなく、否定し難い。

次に、私たちは身体を持つがゆえに、状況づけられた=現在に埋め込まれた存在になる。身体を媒介として、「いま」と「ここ」としての状況に拘束される。しかし、身体を持つことは、時間的および空間的に制約されていることを意味するだけではない。身体は私たちのできることとできないこととの境界を画定してくれる。また、私たちが望みうるものと望みえないもの、あるいは、望むべきものと望むべきでないものとの区別をつけることができるのも身体があるからだと言える。身体があるからこそ、私たちは地球の裏側へ瞬間移動はできないし、永遠に生きることもできない。

とはいえ、人類は、地球環境と身体とが課す制約をひたすら受動的に受け入れてきたわけではない。むしろ、それらの制約は人類にとって、介入し、操作し、乗り越えるべき対象であった。例えば、身体。それは状況づけられていることには変わりはないが、道具の使用によって、その能力の限界は飛躍的に拡張されてきたし、あるいは、医学的な介入および創薬によって、身体の抱える病や怪我といったトラブルを解決する手段を獲得してきた。さらに、地球環境に関していえば、人類が定住するようになって以来、それは常に支配と搾取の対象であった。その目的は、生活の安全と利便性を手に入れること、さらに、より多くの富を豊饒な自然から収奪することにあった。

様々な制約の下で、しかもその制約に抗いつつ、私たちは生活をし、歴史を創ってきた。このことは、現在も昔も変わらない。しかし、人新世と呼ばれる現代には、これまでの人類の歴史には見られることのなかった決定的な新しさがある。それは、制約を生み出す条件それ自体が人類の手によって変えられようとしている点にある。いわば、ゲームのルールがゲーム中のプレイヤーによって変えられようとしているのだ。もちろんゲームとは人類の生存を意味し、ルールとはその生存の制約条件を意味するわけだが、さらに詳しく説明する必要があるだろう。

地球環境という制約条件

まず、人新世という用語に直接関わる地球環境に関する問題である。すでに何度か言及したように、地球環境との関係から現代はいかなる時代であるかを説明するために作られた地質時代の新たな呼称が、人新世である。

放射性同位元素を用いた測定などによって特定される地質時代は、地球が誕生した46億年前からはじまる。恐竜が栄えたのは今から約2億年前に始まるジュラ紀であり、ホモ類の人類――ホモ・ハビリス――がこの地上に誕生するのが、約200万年前の更新世のことだ。ちなみに、私たちホモ・サピエンスが誕生するのは今から20万年前だといわれている。そして、氷河期が終わり、急速に地球が温暖化した1万年前に、完新世へと突入する。完新世のはじめにおいて、ホモ・サピエンスは、農耕牧畜生活へと移行することで人口を増大させ、種としての繁栄を極めていくことになる。

人新世という用語は、2000年のメキシコでの会議において大気化学学者のパウル・クルッツェンが取り上げたことで普及した。彼がそのような造語を用いたわけは、地球環境に対して地質学レベルで生じている人類の影響の甚大さを明示するためであった。

この地質学レベルでの影響とはいかなるものなのか。ここでは代表的な事例を三つ挙げておこう[6]

一つは、地球の温暖化だ。いわゆる温室効果ガスは、太陽光によって温められた地表が放出する熱を吸収し、さらに再放出することで大気を温める。その結果、気温が上昇する。これが地球温暖化のメカニズムだ。この温室効果ガスには、二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素、さらにフロン類があるが、それらは1950年代以降、急激に増加している[7]。もちろん、その主な原因は、産業革命以来人類が行ってきた多量のエネルギーを使う生産・消費活動にある。温室効果ガスの排出が現在のペースで進めば、今世紀の終わりには、おおよそ4℃から5℃の気温上昇が現実的なものとなるようだ。そうなれば、地球規模の気候変動ならびに環境変動が引き起こされる。それと同時に、食料不足、大規模な自然災害などが発生する。

二つ目の事例が、生態系の破壊による生物多様性の消失である。国連の評価によれば、現在、地質学的な見地からして異常なスピードで地球上の生物種が消滅している。化石記録から判明しているように、100年間で1万種あたり0・1種から1種の消滅というのが通常のスピードだ。これに対して、ここ100年では1万種あたり約100種もの生物が絶滅している。すなわち、絶滅の速度が最大1000倍近くに上昇したことになる[8]。こうした急速に進む生物多様性の消失の原因としてまず挙げられるのが、人為的に引き起こされた気候変動である。また、森林の農地化や宅地化もその原因の一つだ。海洋における生態系に目を向けるなら、漁業における乱獲や海洋の酸性化などによって生物多様性が喪失されている。人類の活動による気候変動が止む見込みはなく、また、80億人に達した世界人口のさらなる増加も2080年代まで続くことを考慮すれば――その時点で世界人口は104億人に達する――[9]、生物多様性の消失のスピードがさらに上昇することは確実であろう。

三つ目の事例が、リンや窒素、水といった炭素以外の物質の生物地球化学的循環における大規模な変動の発生である。生物地球化学的循環とは、地球上の物質が生物圏、大気圏、水圏、岩石圏などを経由して移動し、循環することを意味する。生物地球化学の地球上の循環でしばしば話題に上る化学物質が窒素である[10]。化学肥料の大量生産と食物生産への使用ならびに化石燃料の燃焼によって、膨大な量の窒素化合物が放出されてきた。生物地球化学的循環におけるこの人為的な窒素流動の量は自然の流動の二倍に達している[11]。この結果、人為的に湖沼や海洋の富栄養化と貧酸素化が引き起こされ、生態系は大きなダメージを受けている。また、この増大した窒素化合物は酸性雨や気候変動の原因と見なされてもいる。

人類の活動が及ぼした、これらの地質学レベルでの地球環境の影響について、例えば、温室効果ガスの排出量の甚だしさは、二酸化炭素換算濃度にするとおおよそ450ppmとなり、過去80万年で最高値となっている事態から容易に推測できる[12]。また、生物多様性の崩壊の深刻さは、地質時代上の「第六の大量絶滅時代」――これ以前の大量絶滅は、白亜紀末の恐竜の絶滅まで遡ることになる――とさえ呼ばれている。このように、現在の地球環境は、地質時代レベルでの変動を、地球の歴史において初めて人類というある特定の種の作為によって引き起こされているのである。

こうした近年の人類の活動に対する地球環境の耐久性とその限界を例示する指標として、プラネタリー・バウンダリーがしばしば参照される[13]。これは、九つの項目――気候変動、新規化学物質、成層圏オゾンの破壊、大気エアロゾルの負荷、海洋酸性化、生物地球化学的循環、淡水利用、土地利用変化、生物圏の一体性――のそれぞれに限界値を設定し、それを越えた場合、不可逆的で破滅的な変化が地球環境に生じることを提示する。2014年の時点ですでに地球環境の許容範囲を超過した項目として、気候変動、窒素とリンの生物地球化学的循環、土地利用変化、生物圏の一体性が存在するが、その中でも窒素とリンの循環、生物圏の一体性における種の絶滅の速度に関しては、もはや限界値をはるかに越えた高リスク状態となっており、不可避的な変化が高い確率で発生する状態と見なされている。また、気候変動や生物多様性の喪失は単独で地球の未来に対して決定的な役割を果たすとされるが、それらはすでに非常に危険な状態となっている[14]

プラネタリー・バウンダリーは、SDGs(持続可能な開発目標)にも影響を与え、日本でも政府の発行する「環境白書」に登場するように、今では、地球環境を考える上で必須の指標となっている[15]。しかし、プラネタリー・バウンダリーでは、人新世という用語が含意する次の二つの決定的に重要な点を見逃してしまう。

一つは、現代は人新世であると見なすことは、人類が繁栄を享受した完新世へもはや戻ることができないと認めることを意味する[16]。そうであるから、人新世における人類に課せられた課題は、過去の黄金時代に戻ろうと無駄な努力をするのではなく、地球環境がこれまでにない形の変動に直面する中で、人類が生き残るための新たな生存の様式を発明することにある。これに対して、プラネタリー・バウンダリーにおける関心は、完新世をいつまで継続できるかという点にある。それは、いわゆる「持続可能な成長」や「エコロジカルな近代化」という言葉の裏にある関心に等しい[17]。「成長」ならび「近代化」と同様に、プラネタリー・バウンダリーも完新世の地球環境を前提としているのである。

もう一つは、完新世に戻ることができない理由に関わる。現代を人新世として理解することは、完新世と現代では、何かが決定的に変わったということを認めることに他ならない。完新世と人新世とを隔てる断層線があるがゆえに、戻ることはできないのだ。しかしながら、プラネタリー・バウンダリーでは、この断層線がぼやけてしまう。ならば、何が決定的に変わったのか。それは、完新世において人類の繁栄を可能にした、地球環境の比較的安定した状態が人類の活動によって破壊され、人新世においては持続的に変動する状態に移行したということだ。いわゆるステイト・チェンジが生じたのだ。別の言い方をすれば、完新世の地球環境を安定させていた基準となる諸条件(baseline conditions)が人類の活動によって変更されてしまった結果、根源的に不安定で不確実で、不安全な状態へと地球環境が移行してしまった[18]。これが決定的な変化である。

完新世の地球環境が安定していたのは、基準となる諸条件が絶妙な均衡状態にあったからだ。この均衡状態がいかなるものであるかを理解する際に、プラネタリー・バウンダリーは確かに役に立つ。しかし、人類はその均衡の破壊に着手した。こうして、現代の地球環境は、変動し続ける、不安定で不確実で、不安全な状態に突入した。もはや、私たちは完新世の間に得られた科学的な知見を活用して、地球環境がもたらすリスクを計算したり予見したりすることは非常に困難であるし、また、テクノロジーを含めた諸制度によってそうしたリスクを管理したり保障したりすることもできないということだ。なぜなら、そうした知見や制度は、地球環境が安定している状況すなわち完新世を前提としているからだ。

プラネタリー・バウンダリーが提唱された『小さな地球の大きな世界』では、気候変動に関して、地球の平均気温が1・5℃上昇した場合、私たちの居住環境がどう変化し、農業生産がどう減少し、海面がどの程度上昇する、といった予測が現在の科学的な知見を用いてなされている。しかし、それだけでは、地球環境の変化が人類にもたらすリスクを正確に予見することにはならない。正確に予測したいなら、例えば、気温の上昇の影響に加えて、リンによる海洋の富栄養化と生物多様性の喪失、さらには、森林の農地化の影響が複合的に反応し合った場合に、いかなるリスクが生じるのかを計算できなければならない。さらに、人類の活動による影響を緩和することで地球環境を安定させてきた地球の「負のフィードバック」プロセスが、限界点を超えて、例えば、気候変動を促進するような「正のフィードバック」プロセスへと移行した場合を加味して、リスク計算ができなければならない[19]

しかし、これは極めて困難である。また、仮に、そのようなリスクが計算できたとして、そのリスクを誰がどのように管理し、それに失敗した場合の補償の請求先はどこなのかは、まったくの不明だ。完新世の時代の最終盤に登場した福祉国家であろうか、それともグローバルな保険会社であろうか。それらがこの任務を果たせないことも議論を待たない。人類は地球環境の安定性を可能にしていた基準的条件=状態を変更してしまった。その結果、恒常的に不安定化した地球環境は人類を不確実で不安全な状態へと陥れることになったのである。

身体という制約条件

次に指摘したいのが、私たちのできることとできないことを規定する身体という条件の改変だ。それは、現在、バイオサイエンス(bioscience)やバイオメディスン(biomedicine)の分野で執り行われている。

19世紀に始まる、解剖学と結びついた臨床医学を基盤にする近代医学および生命をめぐる科学の対象は、細胞から組織、器官そして四肢から構成される有機体としての身体であった。また、その主な目的は、病的状態からの健康状態への回復、すなわち治療であった。この場合、病的状態は、身体の標準的状態=正常な状態からの逸脱を意味する。したがって、治療とは、外科的および内科的介入を通して、この逸脱状態を正常な状態へと矯正することであった。身近な例でいえば、高血圧症。それは、心筋梗塞や脳卒中を引き起こす原因の一つとして知られている代表的な生活習慣病である。収縮期血圧140mmHgおよび拡張期血圧90mmHgという標準的状態を超過すると高血圧病であるとされる。この血圧の逸脱状態が続くと、降圧剤などの投薬によって、血圧の標準的状態を回復することが目指される。

ニコラス・ローズによれば、現在の生命科学の対象は、組織や器官だけではない。むしろその中心は分子のレベルへと移行している[20]。具体的には、ゲノムの塩基配列や神経伝達物質、酵素といった細胞よりも下位の物質へと移行した。また、こうしたレベルでの介入が可能になるにつれて、医学の目的も大きく変化していく。近代医学における治療という目的に加えて、感受性(susceptibility)とエンハンスメント=強化(enhancement)に照準を合わせた医学の登場である。

感受性とは、将来ある特定の疾患への罹りやすさ、ないし、罹る蓋然性を意味する。感受性に強く相関する疾病の一例はガンであろう。現代の最先端の医療では、例えば、ガンに対する個人の感受性をゲノムのスクリーニングによって割り出すことが可能だ。そうすることで、ガンを発症する以前に、将来、ガンになりうる確率を算出し、ガンのリスクに対して予防的な医学的介入を行う。これは、もはや治療ではない。そこでは、疾病を取り除き健康を回復することではなく、現時点で健康であるにも関わらず将来のリスクに備えて、予防することが目的となっている。

次に、エンハンスメントは、健康な状態を意味する標準的=正常な状態やその閾値そのものを変化させることで、生命力を強化することを狙いとしている。別の言い方をすれば、生物として人類に与えられてきた、できることとできないことの境界を科学とテクノロジーによる介入によって変更することを狙いとしている。分かりやすい例が着床前診断であろう。これは、重篤な遺伝病や染色体異常が原因で流産を繰り返すカップルのみを対象として、体外受精をした胚の染色体および遺伝子のスクリーニングを行い、異常のない胚を子宮に戻すことで、遺伝性の重篤な疾患が子供に伝わる可能性を排除することを狙った生殖医療である。現在日本では、制約はあるものの、それは不妊治療の一つとして利用可能となっている[21]。このテクノロジーが不妊治療に転用できるのは、流産の一つの原因として、胚の染色体異常があると考えられているからだ。着床前診断が不妊治療として利用されるなら、これは病の治療ではない。それは、エンハンスメントを狙いとした典型的な医療である。なぜなら、それは、生物としての女性が有する自然な妊娠能力のエンハンス=強化を目指しているからだ。薬剤の投与による認知力や集中力の強化、遺伝子操作による寿命の拡張、果てはデザイナーベイビーまで、エンハンスメントの医療は、経済成長を生み出す有望な投資対象であると同時に、高額な医療費を賄える裕福な人びとの希望の源になりつつある。

生命をめぐる最先端の科学およびテクノロジーが可能にするこれらの医療にフォーカスするなら、人類の身体は、ある決定的な変容を被りつつあることが理解できる。それは、自然によって与えられた有機体としての身体を統御する法を人類が自らの手で書き換えることによって生じる変容に他ならない。生物としての人類が有する身体の所与の標準的=正常な状態そのものを、例えば、DNAに記載された遺伝情報を編集・書き換えるというように、明確な意図の下、人為的に変更し、さらには強化しようとしている。

こうした主張に対して反論もあるだろう。現在を特別視し過ぎているのであって、分子レベルでの医学的介入が可能となる以前から、身体は人の手によって改造されてきた。例えば、臓器移植について考えてみればよい、というような反論だ。確かに、人は自分の生きている時代が常に新しく特権的であるという考えに陥りがちであり、この点については注意深くあるべきだ。しかし、現在私たちの身体をめぐって起きていることは、明らかにこれまでとは異なる事態だ。

臓器移植は臓器の機能が低下した患者の病状を回復し、寿命を延ばすことを狙った医療行為である。これも人為的な身体への介入だ。しかし、これと分子レベルでの医学的介入が可能にした感受性をめぐる医療やエンハンスメントの医療との間には明確な差異がある。というのは、臓器移植は、自然によって与えられた身体を統御する法を人類が自らの手で書き換える試みではないからだ。このことは、臓器移植を可能にしている製薬に着目すれば良く分かる。臓器移植によって移植された他人の臓器は、通常、免疫作用によって異物として認識され、移植臓器を排除しようとする拒絶反応が引き起こされる。このため、臓器移植を成功させるには、移植される個体の免疫作用を抑制する必要がある。そこで薬剤が、免疫抑制剤である。この免疫抑制剤の使用が意味するのは、臓器移植が所与の有機体の機序を規制する法を書き換える医療行為ではなく、その法を前提にし、それに従った医療行為であるということだ。なぜなら、免疫抑制剤は、免疫という有機的身体の法ないし仕組みが発動することを抑えこむことであって、その法を別のものに置き換えることではないからだ。

いずれにせよ、現代の分子レベルでの医学的介入は、身体を統御する法そのものを根本的に書き換えつつある。また、それによって人類は、身体によって課されてきた制約から自由になる可能性を手にしようとしている。

そもそも、現代に対して人新世という呼称が用いられるようになったのは、現代がこれまでとは全く異なる新たな時代であることを多くの人びとが自覚するようになったからである。もちろん、この異質さや新しさが具体的に何を指すのかについては様々な形で解釈が可能だ。そうだとしても、これまで論じてきたように、地球環境と身体という制約条件の人為的な書き換えにこそ、現代の新しさがあることに間違いない。人類は完新世の一万年の間、地球環境と身体に制約されながら、繁栄を築いてきた。しかしその一方で、人類はこれら二つの絶対的な制約から自由になろうとする欲望に絶えず駆り立てられてきた。この欲望のあくなき追求の果てに、人類は自らの手で、地球環境の安定性を生み出してきた基準――大気中のCOの濃度や生物種の多様性、窒素やリンの限定的な循環など――を変更し、自らの身体を有機的に統合してきた規範的状態を遺伝子のレベルで改変する段階に至った。このように理解された現在を人新世と呼ぶならば、本論考における最大の関心は、人新世が代表制民主主義に与える影響である。すでに指摘したように、代表制民主主義はそれ自体の仕組みが原因となって、人新世と理解される現代社会に不適合となりつつある。次の節では、その理由について明らかにする。

 

 

[1] 斎藤幸平(二〇二〇年)『人新世の「資本論」』集英社新書、第一章。

[2] 人新世を資本主義批判の視点から検討する議論は、しばしば見受けられる。例えば、資本capitalと人新世anthropoceneをかけて「資本新世capitalocene」という言葉さえある。これについては、以下を参照。Moore, J.W.(2016). Anthropocene or Capitalocene?: Nature, History, and the Crisis of Capitalism. PM Press.

[3] アリストテレス(一九六一年)『政治学』山本光雄訳、岩波文庫、三五頁。

[4] カール・マルクス(二〇〇八年)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』植村邦彦訳、平凡社ライブラリー、一六頁。

[5] カール・マルクス(二〇〇二年)『新編輯版 ドイチェ・イデオロギー』廣松渉編訳、小林晶人舗訳、岩波文庫、二五頁。

[6] これらの三つの事例については以下のテキストを参照。クリストフ・ボヌイユ、ジャン=バティスト・フレソズ(二〇一八年)『人新世とは何か〈地球と人類の時代〉の思想史』野坂しおり訳、青土社、第一章。

[7] 1950年代は、「人類活動の巨大な加速(Great Acceleration)と呼ばれている。

[8]https://www.env.go.jp/guide/info/ecojin_backnumber/issues/18-05/18-05d/tokusyu/2.html(2023年9月30日最終閲覧)

[9] https://www.unic.or.jp/news_press/info/44737/(2023年9月30日最終閲覧)

[10]https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h30/html/hj18010101.html(2023年9月30日最終閲覧)

[11] ボヌイユ、フレソズ(二〇一八年)、二三~二四頁。

[12] ヨハン・ロックストローム、マティアス・クリム(二〇一八年)『小さな地球の大きな世界――プラネタリー・バウンダリーと持続可能な開発』武内和彦、石井菜穂子監訳、丸善、三三頁。

[13] ヨハン・ロックストローム、マティアス・クルム(二〇一八年)、第二章。これに関連して、地球規模の転換を直接生じさせるプラネタリー・バウンダリーの「ビッグ・スリー」として、気候変動、成層圏オゾン層の破壊、海洋の酸性化が挙げられる。

[14] ロックストローム、クルム(二〇一八年)、七二頁。

[15]https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h30/html/hj18010000_2.html

[16] Dryzek, J.S. and Pichering J.(2019).The Politics of the Anthropocene. Oxford Universtiy Press, p.8.

[17] 「持続可能な成長」や「エコロジカルな近代化」については以下のテキストを参照。Dryzek J. S.(2022). The Politics of the Earth: Environmental discourses. Fourth Edtion. Oxford University Press, Ch.8. エコロジカルな近代化に対する的を射た批判としては以下を参照。Also cf. Fischer F.(2017).Climate Crisis and the Democratic Prospect: Participatory Governance in Sustainable Communities. Oxford University Press, ch.3.

[18] Dyzek, J.S. and Pichering J.(2019), p.9.

[19] ロックストローム、クルム(二〇一八年)、六三頁。

[20] ニコラス・ローズ(二〇一九年)『生そのものの政治学――二十一世紀の生物医学、権力、主体性』檜垣立哉他訳、法政大学出版局、第一章。

[21]http://fa.kyorin.co.jp/jsog/readPDF.php?file=74/7/074070749.pdf#page=30