科学と民主主義 藤井達夫

2023.12.4

0303 人新世と代表制民主主義の近視眼的性格

現代は人類のこれまでの歴史から決定的に(=地質学レベルで)断絶している。過去との比較から把握可能となる現代の特異性を明示するために、人新世という呼称が作られたことはすでに論じた。他方で、現代の民主主義について検討するためにフォーカスすべきなのが、現在の過去に対する関係ではなく、現在の未来に対する関係である。これまでに指摘した人新世としての現代は、過去との関係においてその絶対的な断絶ゆえに特異なだけでなく、未来との関係においても特異だと言える。それは、現代ならではの問題が未来に対して有する極めて長期的で計り知れない影響に見ることができる。

もちろん、現代社会は、引き続き、完新世の時代から持ち越された問題を抱えている。それらの解決が約束されているわけでも、また、そのための道筋が明確なわけでも決してない。ロシアのウクライナ侵攻といった戦争と平和の問題もそうだし、新型コロナウイルスのパンデミックといった感染症の問題もそうだ。その規模や速度は別として、人類が絶えず経験してきたことだ。日本の国内に目を向けても同様である。治安の問題、貧困問題、労働問題、人口問題、ジェンダーに関連したアイデンティティの問題など、完新世の時代からの争点が目白押しだ。

しかし、その一方で、気候変動をはじめとする地球環境の破壊や分子レベルでのバイオテクノロジーを用いた身体への医学的介入といった人新世ならではの問題も存在する。地球環境に関して言えば、その破壊の影響は地質学レベルのタイムスケールで、人類のみならず全生態系に及ぶ。身体に関して言えば、いったん遺伝子を操作すれば、改変された遺伝子は生殖行為を通して受け継がれ、人類がこの地上に存続する限り残り続ける。また、遺伝子操作の副産物として、個人や種全体に対してどのようなリスクをもたらすかについては、まったくの未知である。いずれにせよ、これらの影響を誰が受けるのかだけは、はっきりしている。それは、私たちから時間的に遠く離れた、見知らぬ他人たちである。

CO2などの温室効果ガスの排出量をどの程度、どのように管理するのか。胎児の遺伝子を操作して、どのような能力や性質を強化・改良するのか。これらの問題に関して現在の私たちが行う決定は、明日や数年後、あるいは数十年後ではなく、何百年、何千年あるいは何万年先の、私たち自身ではなく、また私たちに何らの繋がりを持ちえない、遠く離れた見知らぬ他人たちに対して予測不可能な影響、おそらくは多大な不利益を及ぼす可能性がある。実は、時間的に遠く隔てられた見知らぬ他人の利益や不利益に関わる問題に直面した時、代表制民主主義はその制度に由来する脆弱性を露見させる。

代表制民主主義の脆弱性は、その現在中心主義(presentism)あるいは短期志向(short-termism)いった用語から引き出すことができる。これらはまったく同一の意味を持つわけではないが、明らかに代表制民主主義の一つの特徴を的確に指示している[1]。それは、代表制民主主義の下では、未来の利害関心よりも現在の利害関心が優先されがちであること、さらに、自分たちの利害関心が他人の利害関心よりも重視されがちであることだ。ここでは、こうした特徴を代表制民主主義の近視眼的性格と呼ぶことにする。

代表制民主主義は近視眼的性格の強い政治制度であるという指摘に対して、直感からして違和感はないだろう。とはいえ、これまで、そうした性格は否定的に評価されてきたわけではない。むしろ、それは、完新世の工業化社会においては、代表制民主主義の強みないし魅力として見なされてきた。この点は、しっかりと押さえておく必要がある。

例えば、選挙で選ばれた政治家から構成される政府が有権者の多数派によって表明されるその時々の利害関心や意見に敏感に反応し、それを実現しようとすることは、民主主義的には望ましいこととして理解されてきた。というのも、世論の支配こそ民主主義の本質だという伝統的な理解はいまだに根強いからだ。あるいは、自分たちの利害関心の実現を目指す諸集団の競争として民主主義を理解する多元主義的見解からすると、他人ではなく自分の利害関心をひたすら追求することは、自然なこととして理解されてきた。この自然の傾向をうまく活かし、権力の均衡状態を作り出すことで、権力の集中から生じる暴政を予防するというアイデアが、自由主義的で多元主義的な民主主義理論の根底に存在してきた。

しかしながら、完新世の時代において好意的に評価されえた近視眼的性格は、人新世としての現代において致命的な脆弱性ないし欠陥として現れる。すでに指摘したように、人新世の時代を特徴づける問題は、私たちから時間的に遠く離れた、見知らぬ他人たちに悲劇的な影響を及ぼす可能性が大いにある。そうした問題に対して、代表制民主主義はその近視眼的性格ゆえに適切に対処できない。

もちろん、それの何が問題なのかという指摘もあるだろう。遠い未来の自分たちと明確な繋がりのない他人の利害関心に配慮する必要などないという立場の人もいるはずだ[2]。そのような立場からすれば、未来の他人は、現在そもそも存在していないので、彼らの利害関心を知りようがない。また、遠い未来の他人よりも、現在の身近な最も恵まれない人びとに対して配慮することが正義に適っている。確かに、そのような主張にも説得力があるよう見える。

しかしながら、その一方で、民主主義には、何らかの政治的決定に拘束される人は誰であっても、その決定に対して同意を求められたり、意見を表明できたりしなければならないという根本的な要請が存在する[3]。この民主主義的要請は、自己統治という民主主義の核心的な理念から生じる。その要請の対象は未来の他人にも当てはまる。それゆえに、代表制民主主義において遠い未来の他人の利害関心を無視することを正当化するのはきわめて困難だ。未来の他人は、私たちの決定に影響を受けるのであるから、彼らはその決定過程に参与できなくてはならない。とはいえ未来の他人は、今、この場所には存在しない。私たちはどのようにして、この難問に向き合えばよいのだろうか。

すでに述べたように、この近視眼的性格は代表制民主主義という制度のあり方そのものに由来する。代表制民主主義の中心的なアクターと見なされる有権者と政治家は共に近視眼的性格を生み出す要因として機能する[4]。それぞれを少し詳しく見てみよう。

まず、有権者だ。もちろん、すべての有権者が未来のことをまったく考慮しないというわけではない。むしろ、自分や家族、あるいは友人などの身近な人間関係に関わる近い未来は、少なからず、有権者の投票行動に影響を及ぼすことは大いにあり得るだろう。しかし、数十年あるいは数百年先の、しかも他人の利害関心であればどうだろうか。それよりも、現在あるいは数年先の自分たちの利害関心を重視して有権者が投票する傾向にあることは、私たちの直感と非常にしっくりくる。実際、デニス・トンプソンはこの傾向を自然なものとして説明している[5]

この自然さは、多くの心理学や行動経済学の研究によって裏付けされている。それによれば、投票する際に私たちが現在の自分たちに関わる利害を優先しがちなのは、私たちには認知レベルでのバイアスがあるからだ[6]。例えば、何かを決定する際に、不確実な事柄よりも確実な事柄を重視しがちという確実性のバイアスがある。また、抽象的な問題よりも具体的な問題に対して反応しやすく、行動も起こしやすいという具体性のバイアスもある。見知らぬ他人よりも、自分や家族、あるいは自分たちが属する集団の利害に対してより敏感であり、より多くの注意を向けるという親密性のバイアスがあることも明らかだ。これらのバイアスによって、私たちの投票行動は、遠い未来の他人の利害関心を軽視しがちになるのである。

また、政治家が、短期的な動機づけで行動するのも直感的に納得がゆく。政治家の行動を動機づけているのは、選挙で勝利をすることだ。落選すれば、政治家でさえなくなってしまうのであるから、当然であろう。短期間で繰り返しやってくる選挙で勝利するには、それなりの成果が必要だ。しばしば、選挙では新人よりも現職の方が当選しやすい理由はここにある。要するに、政治家は、選挙で勝利するべく分かりやすい成果を求めがちであるため、結果が出るまでに時間を要する課題に取り組むことを避ける傾向にある。自分の任期の内に結果が出るはずもなく、しかも、自分の選挙区の有権者に直接、影響を及ぼすか定かでない、何十年あるいは何百年というタイムスケールの政治課題は、ほとんどの政治家にとって、何の旨味もないのである。

ここでは多くを触れないが、政策決定過程に大きな影響を及ぼす利益集団も代表制民主主義の近視眼的性格の要因として見なすことができる[7]。例えば、現代の企業は、市場原理に従って利益の最大化を目指すことで、株主に対して魅力的な投資先であり続けようとする。そうである以上、企業による政府へのロビイングが政策に対して短期的な影響を及ぼしがちになることは明らかだ。

いずれにせよ、これまでの議論において大切なことは、次の二つの点にある。未来よりも現在を優先しがちであるという代表制民主主義の近視眼的性格は、完新世の工業化社会を前提として確立された現行制度のあり方そのものから生じるということ。したがって、代表制民主主義の現在の仕組みのままでは、人新世としての現代が抱える固有な問題に対して適切に対応することができないということである。

ここまで、どのようにして代表制民主主義が現代において不適合になっているのかについて、ポスト工業化および人新世というキーワードを手掛かりに説明をしてきた。そこで、次に問うべきは、機能不全に陥った代表制民主主義をどうするかという課題だ。もちろんこのまま放置するという選択もあるだろうが、それならわざわざ議論を重ねる必要はないであろう。そこで、選択肢は次の二つだ。一つは、代表制民主主義を放棄して、まったく別の政治体制を採用するという選択肢。この場合、中国をモデルとする権威主義体制が有力な候補としてしばしば言及される。もう一つは、代表制民主主義の現在の仕組みを刷新するという選択肢だ。この論考では、最後の選択肢について探求しようと思う。その際の手がかりは先に言及した難問、すなわち、今、ここに存在しない未来の他人をどのように代表するのかという難問にある。

 

[1] 代表制民主主義の近視眼的性格については、以下のテキストを参照。Thompson, D.F.(2010) . Representing Future Generations: Political Presentism and Democratic Trusteeship. In Critical Review of International Social and Political Philosophy Vol.13,No.1,March. Routledge. Caney, S.(2016).Political Institutions for the Future: A Fivefold Package. In I. González-Ricoy and A. Gosseries(Eds.), Institutions for Future Generations, Oxford University Press. Mackenzie, M.K.(2016).Institutional Design and Sources of Short-Termism. In I. González-Ricoy and A. Gosseries(Eds.), Institutions for Future Generations, Oxford University Press.  Mackenzie, M.K.(2021). Future Publics: Democracy, Deliberation, and Future-Regarding Collective Action. Oxford University Press. Smith,G.(2021).Can Democracy Safeguard the Future. Policy Press.

[2] Thompson(2010).pp.20-22.

[3] ジョン・スチュアート・ミル(一九九七年)『代議制統治論』水田洋訳、岩波文庫、二一七~二一八頁。

[4] MacKenzie(2016).pp.26-27.

[5] Thompson(2010). p.18.

[6] MacKenzie(2021). pp.91-98.

[7] MacKenzie(2016). pp.28-29.