真夜中に母語を煮る ひらいめぐみ

2026.2.28

05呼び名の魔力

 

 向かい側に座る友人の口から「カレシがさあ」という言葉が出てきて、どきりとした。学生時代の同級生で、久しぶりにお茶をしているときだった。
「連絡しても全然返してくれなくてさ。いつもこっちばっかり連絡してるから、もう疲れちゃって」
「うんうん」
「どう思う? もう別れたほうがいいと思う?」
「その、お付き合いしている人とはどのくらいなの? 付き合いはじめて」
「えー、まだ一か月、二か月……は経ってないか。一か月半くらい」
「まだ短いね」
「そうだよ。それなのにもうこんな雑な扱いされて、この先心配」
「付き合っている人とはどこで知り合ったんだっけ」
「あ、カレシ? 大学時代の友だちの紹介なんだ」
 カレシ。彼氏。いつ初めて耳にしたのか記憶が朧げだけど、たしか中学生ぐらいだっただろうか。学校の授業では教わっていない、悪い言葉、大人が使う難しい言葉を同級生たちはいつのまにか習得していて、「彼氏」や「彼女」もそのひとつだった。わたしも面識があるクラスメイトのことをあえて「彼氏」と呼ぶ同級生に戸惑い、「それってつまり〇〇くんのことだよね?」と確認せずにいられなかった。高校生になり、大学生になり、友だちが付き合う相手が見ず知らずの人間になっても、わたしがそのとき付き合っている人の話をするときですら、「彼氏」や「彼女」という言葉を使おうとすると、その想像だけで全身がぞわっとした。まどろっこしいと思いながら、毎回「付き合っている人」と表現した。

 若さゆえの感受性の強さなのかもしれない。よくわからないけれど、恋愛とか、そういうことに今は気恥ずかしさを感じる時期なのかもしれない。それですべて説明がつく。そう思い込むことにした。しかし、年齢を重ねれば重ねるほど、抵抗を感じる呼び名が増えていった。
 たとえばコンビニの「店長」もそのひとつだった。学生時代から大学を卒業した後の四年近く、コンビニでアルバイトをしていて、在籍中「店長」と呼ばれる人が二人いた。最初に入社したときに店長をしていたのはSさんだったが、途中から異動になり、代わりにKさんがやってきた。Sさんのことを同僚たちはみな「店長」と呼んでいるのに、わたしはなかなか「店長」と呼ぶことができず、最後まで苗字で呼んでいた。Kさんが店長になってからは、最初こそみんな「Kさん」と呼んでいたものの、徐々に「店長」呼びに変わっていき、数か月も経つと「Kさん」と苗字で呼ぶのはわたしだけになった。 店長と呼んだほうが 敬っている感じが出るのではないか、と不安に思ったこともある。苗字で呼ぶことで、むしろ馴れ馴れしさが出てしまってないだろうか。Kさんは実際、前任のSさんより年齢も近く、アルバイトのわたしに「ひらいちゃん、もう帰りたいよ」と愚痴をこぼすような、親しみやすい人だった。休憩時間や両替などでバックヤードに行く際、Kさんとの雑談のなかで、どきっとした一言がある。
「俺さ、『店長』って呼ばれるのあんまり好きじゃないんだよね」
 わたしはわたしの事情で「店長」と呼ぶことに抵抗があっただけで、「Kさん」と呼んでいたけれど、Kさんが「店長」と呼ばれることに対してどう感じているのか、考えたこともなかったな、と思った。たしかにKさんが「店長って呼んで」と言いはじめたわけではなく、誰かが自然にそう呼ぶようになったから、いつのまにか定着していったのだろう。Kさんから聞いた言葉を受けて、十代の頃からの「彼氏」と「彼女」の呼び方に対する違和感は、ここにつながっているのかもしれない、と気がついた。自分が「彼女」と呼ばれることが嫌なのが、関係しているのではないか。

 役割としての呼称をまったく使っていないわけではない。兄と弟のことはそれぞれ「あき」「すぐちゃん」とあだ名で呼んでいたけれど、両親のことは「お母さん」「お父さん」、祖父母のことも「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んでいる。感覚としては生まれた頃からそう呼んでいるから、兄弟のあだ名とほぼ同じだと思っていた。しかし、呼び名の効力は 生じていたようで、母には「お母さん」としての、父には「お父さん」としての、祖父母には「おじいちゃん」「おばあちゃん」としての役割を無意識に 期待していたのだと思う。特に母に対しては、日頃栄養バランスを気にしながら料理を作ってくれるので、てっきりどんなものも食べられるものと思い込んでいた。 「セロリは苦手なんだよねえ」と聞いたときは、今まで見えていた世界がひっくり返るような衝撃を受けた。母に苦手な食べものなんて、存在しないと思い込んでいたのだった。つい最近も、わたしたちが子どもの頃にジムに通っていたことがあると初めて聞かされた。母娘という関係に怠惰に寄りかかってしまうと、「お母さん」としての母だけじゃない、母にも私と同じように、一人の人間としての人生があるのだということを忘れてしまう。

 好きな小説のひとつに、瀬尾まいこさんの『幸福な食卓』がある。初めて手にしたのは中学校の図書室だった。タイトルの、やわらかい言葉の響きと裏腹に、冒頭は期待を裏切るような主人公・佐和子の父の一言からはじまる。

「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」


 それまであまり本を読むのが好きではなかったわたしは、出だしの台詞から「ええっ!!!」と驚き、心を摑まれた。つづけて、佐和子のお父さんは「とにかくこれからは父さんのこと、もっとフラットに見てくれていい」「今日から父さんじゃなく、弘さんとでも呼んでくれたらいいよ」と言う。佐和子のお父さんからは、役割としての「父さん」から降りたい、という思いが伝わってくると同時に、呼び名が持つ、役割としての効力の強さについて考えさせられた。呼び名ひとつで 父を降りられると思える、という描写は、呼び名がいかに役割としての重圧を強いているのかを裏付けている。

 エッセイでときどき登場する夫ののぞむくんは、読者の人たちからしたら、「夫」でいいだろう、と思われていることは重々承知している。それでも頑なに「のぞむくん」と表記するのは、「夫」というのは単に戸籍上の関係としての名称であって、ほかの人に自分とのぞむくんの関係を説明するためだけの便利な言葉であって、「夫」という役割を背負わせたいわけではないからだ。「夫」という言葉は、のぞむくん自身の説明にはならない。ほんとうなら、「夫の」ともつけたくない。「家族の」ならしっくりくるけれど、それこそはじめてエッセイを読んでくれる人からしたら、「家族ってどういうこと? 兄弟?」と引っかかってしまうだろう。
「彼氏」、「彼女」、「店長」に抵抗を感じた正体がもうひとつある。友だちから彼氏の話を聞いていて、話が嚙み合わないなと思ったら「あ、それは前の彼氏」と言われたとき、ああそうか、と納得した。「彼氏」は代替可能な存在なのだ。そのときに交際している人なら、誰でも「彼氏」と呼ぶことができる。「店長」もそうだ。SさんとKさんは、それぞれ唯一無二の存在だ。その二人を同じ呼び名で呼ぶことは、代替可能だと認めるようなことだと思えてならなかった。

 反対に、役割としての呼び名に救われたこともある。
 本を出版し、エッセイの仕事が継続的にもらえるようになってから、作家として評価されることに対して、一時期ひとりで勝手にプレッシャーを感じてしまっていた。書いたものすべてが世の中に出て、読める人全員から評価されるのだと思うと、こわくてたまらなかった。エッセイ以外にも、ふたつ仕事をしている。ひとつはインタビューをしたり、メールマガジンを書いたりするライターの仕事で、もうひとつは週に一回ほど出勤している倉庫のアルバイトだ。取材現場では「ライターさん」と呼ばれ、倉庫では「アルバイトさん」と呼ばれる。「『店長』って呼ばれるのあんまり好きじゃないんだよね」と言っていたKさんと同じく、最初は役割で呼ばれることに抵抗を感じていたけれど 、エッセイの仕事でプレッシャーを感じる時期は、大多数いるうちの一人として扱われる気楽さが、かえってありがたかった。
 祖父との血のつながりを知ったときもそうだ。わたしには祖父が三人いて、そのうちの「かんいちおじいちゃん」は、父方の祖母の再婚相手だった。大きくなってからそのことを知ったときに特段ショックを受けることがなかったのは、「おじいちゃん」と呼んでいたことがやはり大きかったのだと思う。かんいちおじいちゃんは、血がつながっていようといなかろうと、わたしのおじいちゃんだ。今もそう自信を持って言えるけれど、もし最初から「かんいちさん」と呼んでいたら、どうだろうか。「三人いるおじいちゃんの一人」とは思わなかったのではないか、という気がしている。

 人を紹介するとき、名前を呼ぶときには、なるべく慎重でありたい。呼び名の持つ効力の強さに、自覚的でいたい。コンビニの店長のKさんが「ひらいちゃんさ〜」と呼んでくれる響きは、いつも心地よくて、うれしかった。

(つづく)

バナーデザイン:藤田 泰実(SABOTENS)