犬(きみ)がいるから 村井理子

2019.1.30

35変わりないよ

 

 先日、ファシリティードッグ(病院などの施設で勤務する犬)の「ベイリー」と、ベイリーとともに六年にわたって闘病を続けた「ゆいちゃん」の交流を描いたドキュメンタリー番組を視聴した。ゆいちゃんは、ベイリーとふれあうことで安らぎと勇気を得て、つらく、長かった治療を、そして大きな手術を乗り越えることができた。ベイリーは、穏やかな表情でゆいちゃんに寄り添い、見守り続けた。今までそうしてベイリーが励ましてきた子どもは三千人を超えるという。そんなベイリーだが、去年の年末、ファシリティードッグを引退したそうだ。お別れの会でゆいちゃんが言った「ベイリーがそばにいてくれると、入院中のつらいことも忘れさせてくれました」という言葉に感動して、年齢とともにゆるみがちになった涙腺があっという間に大崩壊した。どうかゆいちゃんがこれからも元気で、幸せな人生を送ってくれますように。そしてベイリーが、穏やかな老後を過ごしてくれますようにと祈らずにはいられなかった。
 その日の夜、ベッドに入ってからもなかなか眠りにつくことができなかった。ハリーはいつも通り、私の足のあたりに上半身をずっしりと乗せて、いびきをかいて寝ていた。それにしてもベイリーのあの優しいまなざしはなんて美しかったのだろう。凜としていて、控え目だけれど、大きな愛が伝わってくる。とても丁寧で穏やかな仕草は、さすが訓練を重ねているだけある。病気をしている子どもはもちろん、どんな子だって、ベイリーのような存在が必要に違いない。親や周囲の大人から与えられる愛情はもちろんのこと、包み込むように穏やかで無垢な愛を惜しみなく与えてくれる存在と、一人でも多くの子どもが巡り会えますようにと願わずにいられない。そんなことを考えるうちに、いつの間にか眠りについていた。


 夜中、土嚢の下敷きになる夢で起きた。ハリーが重いのだ。両手で力の限り押したけど、一ミリも動かなかった。熟睡できず、何度も体の向きを変えつつなんとか寝て、翌朝、頭痛とともに目覚めた。目の前にはハリーのでっかい顔があった。足元にいたはずのハリーが、夜中、どんどんせりあがってきて、結局、私と顔を並べて寝ていたのだ。それも、私のまくらを半分使っている。目の前に大きくて黒い鼻があり、そこからひっきりなしに大量の空気が、ズゴー! ズゴー!と出たり入ったりしている。思いっきり揺すっても、全然起きない。仕方がないので、布団をかぶって二度寝を決め込んだ。大きな体でベッドの半分を占領しつつ、鼻から激しく空気を出し入れしているハリーの横で、再び思いを巡らせた。
 なんだか最近、ずっと気持ちがモヤモヤしていた。もう一月も終わりだってさと、自分のなかのもう一人の自分が言っている。私は一体何をやっているのだろう、毎日同じことばかりで退屈で仕方がないと、文句ばかりが湧いてくる。ただ淡々と過ぎていく時間のなかで、何かを成し遂げるでもなく、毎日判で押したように同じことを繰り返しているじゃないか。家族を送り出し、部屋を片付け、少し仕事をしたらあっという間に昼だ。昼食は残り物でさっと済ませるから、まるでときめかない。そして再び仕事をし始めれば、ちょうど調子が出たあたりで子どもたちが帰宅し、そこから夜まで家事&家事……。私は、一体なにをしているんだろう。私はこれからどうしたらいいのだろう。なにこれ、まさかアイデンティティクライシス? と、二度寝しつつ狼狽えた。
 しかし、相変わらず呆れるほど熟睡しているハリーを至近距離から見つめていたら、はっと気がついたのだ。私が毎日、ひとつだけ成し遂げていることがあるじゃないか。毎日毎日、すごく面倒くさくてつらいけれど、100%健康的で、やればやるほど運気がアップする気がするし、気分がいいし、誰かのためになることがある。そう、ハリーの散歩だけは休まず行っているではないか! それってすごくないですか!! 心のなかで、まるでフレディ・マーキュリーのように拳を突き上げた。


 最近忘れてしまっていた。あまりにも当然のようにそこにいるから、その存在をうっかり当たり前のものとして受け取ってしまっていた。私にはハリーがいる。ハリーが私の暮らしを支えてくれている。ハリーはベイリーのように病院には来てくれなかったけれど、私が長い間家を留守にしていた時、私の息子たちの側にいてくれた。
 ああ、ハリーよ。ベランダの板を剥がしても、私の革のブーツを引き裂いても、買い物袋からキャベツを盗んでも、君を許そうと思う。ベッドの中でハリーのでっかい顔を両手で挟み、じっと見つめて私は悟ったのだ。凪(なぎ)の日常を退屈と思えることこそが、感謝すべき幸運なのだと。

 

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この連載は月2更新でお届けします。
次回は2月15日(金)掲載です。