犬(きみ)がいるから 村井理子

2019.5.15

41心破れて


 私としたことが、気疲れでボロボロだ。ここ数ヶ月は、小学生から中学生となった息子たちの進学・入学準備に翻弄され続けた日々だった。それだけならここまで疲労することもなかったかもしれないが、わが家には小さな事件を次々と起こすハリーがいる。まだ若犬だから当然だと言われてしまうのを覚悟で素直に書くが、ハリーは私が思っている以上に、まだ子犬なのだろう。
 子犬が子犬として振る舞うことは、これっぽっちも悪くない。確かにハリーの場合は見た目とのギャップが甚だしいが、威圧感のあるルックスで振る舞いが幼いのは、彼の愛らしい特徴であるとも言える。この境地に達するまでにほぼ二年六ヶ月の月日が流れたわけだが、それ自体が問題ではないのであって、結局、次々と発生する行事に四苦八苦している私が、いろいろな意味で等身大のハリーを受け止め切れなかったのが敗因である。


 心労がピークに達したのは、卒業式、入学式、そしてはじめての授業参観が終了し、家庭訪問がはじまった頃だった。ふと、「先生がわが家に来る時にハリーがいたら、大変なことになるのでは? これは危機的状況?」と気づいたのだ。ここで賢明な読者のみなさんはお気づきでしょう。「村井はいつも先の読みが甘い」と。
 私だってそう思う。少し考えてみればわかることではないか。いつもギリギリになって慌てふためき、挙げ句の果てに「心が疲れた」と、さも自分以外に要因があるかのように書き始めるが、そうなる前にやれることが山ほどあるだろうという話である。でも、わかっていてもそうなってしまうのが私という人間であって、年齢の割に行動が幼稚なのはハリーとお揃いだ。
 家庭訪問の日程が早かった長男の担任の先生には、連絡帳で「大きな犬がいます」と、“犬”の部分を赤いマジックで強調してお伝えしていた。当然、お世話になっているドッグスクールに預かってもらえばそれで完璧なのだが、曜日によってはこちらの希望通りにならないことは仕方がないし、ハリーにも来客に慣れてもらう必要があるのだ。いつまでもこういったシチュエーションから逃げてばかりはいられない。だからこそ、あえてハリーとともに難局を突破しようと試みた(やめておくべきだった)。
 ハリーを一目見た先生は、明らかに動揺していた。当然だ。私は猫好きでもあるけれど、猫がハリーほどの大きさだったら動揺するだろうし、釣り上げられた大魚のように跳ね回って歓迎する姿を間近に見たら、申し訳ないが走って逃げるだろう。結局、ハリーは先生と話をしたリビングからは離れた部屋に閉じ込めたのだが、最初から最後まで、時折響いてくる「ドーン!」という大きな衝突音に私は戦々恐々とし、先生には「お母さん、わんちゃんが暴れているようですが……?」と気を遣わせてしまった。その日の夜は泣きそうだった。
 次男の担任の先生が家庭訪問に来た時までには、完全にギブアップモードだった私は、玄関前に停めたクーラーを効かせた車内でハリーを待たせた。ハリーは車中でじっと大人しく座っていたが、横を通り過ぎる先生を大きな黒い目でギロリと睨むことは忘れなかった。後日、次男が先生に「犬は大丈夫でしたか」と聞くと、「車のなかにいても圧がすごかった」と言っていたそうだ。圧……! ハリーはまさに、圧の高い犬だ。
 家庭訪問の後もバタバタとした日常は続き、ハリーをドッグスクールで預かっていただく機会も増えた。先生や犬仲間とすっかり打ち解けているハリーにとっては、楽しい時間だったと思う(先生によると、走り回る仲間たちを尻目にハリーは常に寝ているらしいが)。いつまでも「ハリーの過剰すぎる歓迎問題」から逃げてはいけないと、飼い主としては思っている。しかしながら、私の悲壮な決意は今回もあっさりと粉砕されてしまった。
 普段はとても大人しいハリーは、日常が戻れば私になんのストレスも与えない最高のペットだ。私にとって、これ以上ないほどかわいい存在であることに変わりはない。こうして書いている今も、私の足元にサンドバッグのような姿で静かに寝ている。確かに見た目はサンドバッグだが、とても愛らしい。
 つまり、私の心を時折疲れさせるのが彼であるならば、私の心を癒やすのも彼なのである。大型犬飼育の現実は結局のところ、こんなことの繰り返しなのかもしれない。ずっしり重いハリーの頭を撫でながら、そう考えている。



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この連載は月2更新でお届けします。
次回は5月30日(木)掲載です。