犬(きみ)がいるから 村井理子

2019.9.19

46ぼくはここにいる

 

 湖の色が灰色に変わり、山から冷たく、強い風が吹くようになった。私が住む滋賀県北部の季節の移り変わりは、都会のそれよりもずっとわかりやすいはずだ。朝、窓を開けた瞬間に入り込んでくる風のにおいで、長い冬の到来を知る。窓に映る湖の色で水温の変化を悟る。湖に向かい合うようにして広がっている比良山系を見れば、木々の色が所々変化してきているのがわかる。比叡山のあたりはこれから紅葉狩りの観光客で大いに賑わうことだろう。私は紅葉狩りより栗拾いがいいけどね、あと、あのあたりの漬物はうまいね……などと、どうでもいいことを考えている飼い主の横で、暇そうにぼんやり座っているのが、わが家の名犬ハリー号である。相変わらず、毎日寝てばかりだ。

 今年の夏は意識して運動量を増やしたことが功を奏したのか、かつて「歩く姿は黒毛和牛、横たわったら恵方巻き」と言われた巨体も、ますますぐっと引き締まり、全盛期の長州力(ご存じですか)を彷彿とさせる筋肉質の立派な犬となった。見た目はいかついことこのうえないが、性格は、子犬の頃からずっと変わらず、穏やかで、優しい。最高にスイートな犬である。まるで大きなマシュマロみたい。いや、黒いからマシュマロっていうか、なんて言ったらいいんだろう、黒くて大きくて重い……サンドバッグ? なんでもいいが、とにかく大きくて優しい、最高の犬だ(2019年後半も褒め称えます)。

 私はといえば、いつも通りバタバタと動き回り、せっせと仕事を片付けているうちに、あっという間に夏休みが終わりを迎えていた。今振り返ってみても、3分ぐらいしか夏を満喫していない。息子たちにも、夏の思い出を作ってあげることができなかった。どこに出かけるでもなく、何か特別なことをするでもなく、ただただ必死に毎日を過ごしてしまった。大反省である。いつもは友達でぎゅうぎゅう詰めになっていた子ども部屋も、ふと気付けば誰も遊びに来なくなっているではないか。「誰も遊びに来ないんだね」と息子に聞くと、「もう中学生やで。毎日来るわけないやん」とつれない返事だ。

 子どもの世界は、驚くほど変化が早い。小学生のときに連日遊びに来ていた子どもたちが、ほとんどやってこなくなったのは、クラス替えなどで交友関係が変わったことが理由らしい。「へ~、あんなに毎日来たのに~?」と、母は寂しく思うばかりだ。しかし、そんな私の感傷も、彼らからすれば「?」なのだということは理解しているつもりである。私自身、幼い頃、友達のお母さんに馴れ馴れしくされるたびに居心地の悪さを感じていた。無神経にズケズケとなにやら言われる(髪切った? 背、伸びた? 勉強やってる?)ことを、嫌だなと思っていた。そして今、自分もそうなりつつある。

 ふとした場所で息子の友達とすれ違い、今までの調子で声をかけ、目をそらされ、素通りされることがあっても、小さく「了解」と言うだけに留めるのが賢明である。とても素直でかわいかった子が、久しぶりに見たらずいぶん大きくなり、なにやら髪が少し茶色くなり、伸ばした前髪で目の表情が見えなくなって、お、おう……という微妙な気分になったとしても、そのまま何ごともなかったかのように通り過ぎるのだ。子どもたちに「あの子、元気なの? 悩みでもあるの?」なんて、絶対に聞いてはいけない。「ハァ?」と返されるのが関の山だ。だから、心のなかでそっと唱えるのだ、「みな、無事に成長しますように」と。それだけで充分である。

 しかし不思議なもので、そんな思春期ど真ん中の子どもたちも、ハリーに会うとあの頃の表情を取り戻す。私のことは死ぬほど無視しても、散歩中のハリーを見るやいなや、満面の笑みで手を振ってくる(ハリーに)。むっととした表情で斜に構えている男子も、真っ黒い姿を見つけると、はにかんでうれしそうにしている。私のことは空気のように扱っても、彼らにとってハリーは確かにそこにいる。それでいい、それでいいのだ。彼らにとってハリーがひと目みたら心がほっとするような存在であるなら、飼い主としてこれ以上うれしいことはない。いつでもあの大きな体を触ってほしい。ハリーはブラックホールのように悩みをすべて吸い込んでしまうのだから。ハリーはいつでもここにいるよ。

 ハリーは私にとっても同じような存在だ。何があっても、いつでもそばにいてくれる。気づけば横に座っている。なんてありがたくて、かわいいのだろう。ハリーのような存在が、これから先も、子どもたちの近くにいつもいてくれますように。

 

 

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うっかり食べ過ぎて近江牛みたいに太った「イケワン」ハリー。
丸くなって眠るさまは、まさに恵方巻。
愛されバディを取り戻すその日まで、理子さんは今日も奮闘!

 

この連載は月2更新でお届けします。
次回は9月30日(月)掲載です。