犬(きみ)がいるから 村井理子

2019.11.15

50大人の階段


 ここ最近忙しい日々が続いている。週末の東京出張や大阪出張も増えているが、平日にPTAの会合で家を出たり、義両親の通院に付き添ったり、相も変わらずバタバタと動き回っている日々だ。家族の生活が円滑に進むよう動かなければならない主婦の仕事は、決して少なくない。体調がいいのがせめてもの救いだが、そろそろ数週間ほどどこかに消え失せたい気分になってしまう。いやいや、そんなことを言っている場合ではない。仕事が溜まっているではないか(各方面に配慮)!




 気がつけば季節はすっかり冬に突入したようで、そろそろ山に初雪が降るかもしれない。連日、強くて、とびきり冷たい突風が吹き荒れている。庭木の葉はすっかり枯れた。湖の色が、深いねずみ色に変わった。今年もあっという間に月日は流れ、宅配サービスのお兄さんがおせち料理のパンフレットをどっさり置いていくような時期になった。ああ、あっけないものだよな、人生なんてと、一人で遠い目をしている。
 こんな日々が続いているものだから、ハリーを短時間ではあるが、家で留守番させる機会が増えている。子犬の頃を考えたら、嘘みたいな話だ。あの頃のハリーは、とんでもない寂しがり屋だった。家族の姿が見えないと、途端にパニック状態になった。家族以外で心を許していたのは、唯一、しつけ教室のトレーナーさんで、どこかに行こうと思ったら短時間であっても彼女に預けないと、大変なことになっていたのだ(家を荒らす、遠吠えをしまくってご近所さんを怯えさせる)。
 しかし、ハリーはあの頃のハリーではなくなった。実は最近になって、彼は分離不安を見事克服したのだ。このままでは、人間の暮らしも犬の暮らしも窮屈になると、私にしては珍しく、根気強くハリーと訓練を重ねた成果が出たのだ。
 手順はこうだ。財布やケータイを入れたバックと車のキーを持ち、ハリーに私が出かけることを知らせる。ハリーは、車のキーの出すわずかな音を聞きつけて、どこにいても、シュタッ! っと目の前に現れ、キリッとした顔でじっとこちらを見る。その顔は明らかに「僕も行きますが?」と言っている。その瞬間を狙って、「ハリー、玄関!」と、明るく声をかける。するとハリーは魚雷のように玄関に吹っ飛んでいく。その後ろ姿からは、「ヨッシャー!!!」というかけ声が聞こえてきそうである。
 そこで私もハリーを追いかける。ドタドタ走って彼に追いつき、がちっとドアの前に座って待っているハリーの大きな背中に「待て」と声をかける。その大きさはまるで、アイルランドのモハーの断崖である(わかりにくい喩えだな)。「ハリー、ちょっとだけ行ってくるよ。すぐに戻るから」と私は努めて穏やかに話しかける。そしてまさにその瞬間、ハリーの口の中にお気に入りのジャーキーをほんの少しだけねじ込むのだ。ハリーは急いでジャーキーを食べつつ、玄関から少し下がり、再び、シュタッ! と正しい姿勢で座る。それを確認し、私は悠然と玄関ドアを開け、鍵をかけて、車で家を出る。そして三十分ほどで雑事を片付け、再び家に戻るのだ。
 家に戻ると、ハリーは全く同じ場所で私を待っている。なぜかというと、私が戻れば、再びお気に入りのジャーキーがもらえるからだ。私は大人しく待っていたハリーを盛大に褒め称える。ハリー、お前は世界一のイケワンだ、お前こそが私の命、そして希望。お前は本当に賢くていい犬だ、ああ、神様、こんなにも素晴らしいプレゼントを私に下さってありがとう、命バンザイ……。
 褒め称えられつつ、二度目のジャーキーを頬張るハリーは、自分が留守番をしていたなどとは考えていないはずだ。ただただ、二個目のジャーキーが口に入る瞬間を待っているのだ。この方法で少しずつ時間を延ばしていき、今では数時間であれば問題なく留守番ができるようになっている。必要なのは、わずかなおやつだけだ。ハリーが何時間でもその場に座っているかどうかは、ハリーにしかわからない。ただ、玄関を開けると、ハリーは必ずそこにいる。私が部屋に戻って自分のベッドを触ると、ほかほかに暖かいことが多いから、途中で休憩はしているかもしれない。
 鼻息荒く、この見事な成果を発表する私に、次男が「それってジャーキーにつられてるだけじゃん!」と言った。私は即座に「ああそうだよ」と答えた。そして、「人間だってそうじゃない? 無償の愛とか言うけどさ、そこにわずかでも見返りがあってこそ、人間は譲歩できるし、誰かに優しくすることだってできるんだよ。人生は夢物語ばかりじゃないさ。見返りを求めてはいけないのか? いや、そんなことはないはずだ! いいんだよ、それで。愛があれば、いいんだよ。理想を追い求めすぎてはいけない。期待は少しぐらいがちょうどいいんだから」と、流れるように言う私を、次男は見てもいなかった。もちろん聞いてもいなかった。私の横にいた夫が、「いつも通り、大きな話になってんな~」と言った。大きいのは私の話ではない。ハリーのハートである。


 

 

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うっかり食べ過ぎて近江牛みたいに太った「イケワン」ハリー。
丸くなって眠るさまは、まさに恵方巻。
愛されバディを取り戻すその日まで、理子さんは今日も奮闘!

 

この連載は月2更新でお届けします。
次回は11月30日(土)掲載です。