犬(きみ)がいるから 村井理子

2020.6.30

59薬の時間

 

 わが家の愛犬ハリーは人間の言葉をたくさん覚えている。驚くほどのイケワンのうえ、性格も穏やかで、人間の言葉を理解するほど賢いのだから、もうこれ以上望むものはひとつもないが、あえて言えば、もう少しダイエットを……。いやいや、そんなことを言いたかったのではなく、ハリーは本当に人間の言葉をよく理解する犬なのだ。それも、彼は単語だけではなく、人間が交わす会話、そして場の雰囲気を読み、的確に行動することができる。この点においては、息子たちよりも優れていると言っていい。


 ハリーはほぼ一年中、そして連日、湖で泳いでいる。真冬は、雪が降っていてもお構いなしで泳ぎまくる。風があまり強くなく、気温もそれほど高くない今の時期は、ハリーにとって、最も安全に楽しく泳げる時期だから、最近では朝晩2回も泳いでいる。しかし、湿度が高い梅雨の気候が原因なのか、ちょっとしたトラブルが増える時期でもある。肌トラブル、そして、目と耳だ。
 ラブラドールは目が弱い(目やにが出やすい)犬種だそうだけれど、ハリーも例外ではない。普段からこまめに拭いてやる必要がある犬だが、この季節に湖で泳がせると、目がかゆいのか、前脚で少し擦るような仕草をしたり、目を赤くしていることがある。もちろんすぐに獣医のもとに行き、目薬をもらう。「泳がせました? え、毎日? それは、ねえ……」と、獣医さんのセリフはほとんど決まっている。
 目だけではない。垂れ耳のペットを飼っている方であれば一度は経験されているだろうが、彼らの耳はすぐに感染症を起こす。ハリーも耳が弱く、泳いだあとにかゆそうにしていることが多い。もちろんすぐに獣医のもとに連れて行く。「あー、湖でしょ? しばらく泳がないようにしないとねえ……」と、しばらく泳がないようになんて無理な話だと薄々気づきながらも獣医は言う。
 そして最後に、肌である。肌っていっても、絨毯のように黒い毛がびっしりと生えているハリーなのだが、地肌(ちなみに色白です)の部分がかゆくなって、ぼろぼろと剥けてくるときがある。これももちろんすぐに獣医に見せる。薬用シャンプーをもらう。獣医はもう、泳がせるなとは言わない。
 そして、薬を与えるのは私の役目だ。ハリーが目薬や点耳薬が嫌いなのは、冷たいから(冷蔵庫に保管しますよね?)だと気づいた私は、薬は冷蔵庫から出してしばらく置いて、常温にしてから投与するようになった。しかし、関西でもトップクラスで賢いかもしれないハリーは、私が冷蔵庫の上段にある、小物を収納するスペースに手を伸ばした瞬間、悟るのだ。俺は今から目に妙な液体を入れられるのだと。そして、逃げる。
 一心不乱に逃げ惑う。玄関のドアの前に追いつめると、耳を垂れて観念した様子になる。ごめんねと言いながら、目薬を投与して、必ずおやつを与える。それも、特別サービスでハリーが大好きな干し芋にしている。薬の時間が嫌いになってもらっては困るからだ。
 それなのにハリーは、私が「あ、耳の薬の時間だったわ」などとうっかり口にしようものなら、その「耳」という単語に反応して、走って逃げるようになった。試しに、何の脈略もないところで、「耳」と言ってみると、ぐわっと立ち上がって、鋭い視線でこちらを睨み、踵を返して息子たちの部屋に避難していく。もう20回ぐらいテストしたから確かだ。ハリーは、「耳」、「目」、「病院」、「シャンプー」という単語をしっかりと覚え、それを不吉なことが起きる前のアラームだと思っている。私が冷蔵庫の上段に手を伸ばすと、「来た!」とばかりに走り出す。私が手にしたのがわさびのチューブであっても、とりあえず逃げるのだ。
 薬を与えるという嫌われ役を買って出たせいで、最近、ハリーは私から少し距離を置くようになった。私が仕事をしていると近くにいるのはいままで通りだが、少し離れた場所からじっとりとした視線を投げてくる。ハリーのためを思っての行動が原因で避けられてしまうなんて皮肉すぎる。
 でも、かわいいからいいや。

 

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うっかり食べ過ぎて近江牛みたいに太った「イケワン」ハリー。
丸くなって眠るさまは、まさに恵方巻。
愛されバディを取り戻すその日まで、理子さんは今日も奮闘!

 

この連載は基本的に月2更新でお届けします。
次回は7月15日(水)掲載を予定しています。