よみがえるヒロインたち 小川公代

2022.7.12

02ネオリベラリズムに抗う ケア・フェミニズム

 

2ポストフェミニズム」――フェミニズムは終わったのか

 市場が国家を飲み込むほどの現代の商業資本主義社会のなかで、女性たちは伝統的な組織化されたフェミニズムの運動から、組織化されない、より個人化された存在へと散り散りにされていった。筆者があえて「ポストフェミニズム」という言葉を用いるのには理由がある。それは、一般的に用いられている「ポストフェミニズム」という概念が、消費活動を通して公共圏への参加を実感するような女性たちと結びつけられるからである。「ポストフェミニスト」というのは、アンチフェミニストとは異なるが、「フェミニズム」が終わった、あるいは無効化されたというニュアンスを帯びることが多く、実際には「フェミニズム」をめぐる対話が継続して行われている。ケア・フェミニズムもそのうちの一つの試みである。竹村和子が主張するとおり、フェミニズムはまだ継続しているという意味のポストが強調されなければならない。
 「フェミニズム」が終わったとする言説パターンは、マスメディアに登場し、女性向けのドラマや映画といったポップカルチャーによく見られるようになった。20213月の報道ステーションのCMもそのパターンをよく表している。このCMでは、若い女性がカメラ目線で次の言葉を発する。


リモートに慣れちゃってたらさ、ひさびさに会社行くと変な感じしちゃった。会社の先輩、産休あけて赤ちゃん連れてきてたんだけど、もうすっごいかわいくって。どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかっ てスローガン的にかかげてる時点で、何それ。 時代遅れって感じ。


 この発言には、「ポストフェミニスト」的な言説パターンが効果的に組み込まれている。ジェンダー平等は達成され(ジェンダー平等=「時代遅れって感じ」)、性別にかかわらず活躍できるという信念(会社の先輩、産休開けて赤ちゃん連れてきてた)である。当然、SNS上ではこのCMをめぐって論争が巻き起こった。「フェミニズム」はまだ終わっていないし、女性は引き続き、ケアの担い手を期待されているからだ。
 日本のようなホモソーシャルな社会においてはミソジニーは瀰漫しており、ハラスメントやドメスティック・ヴァイオレンスなど、ジェンダー非対称な権力の濫用を通じて様々な暴力(身体的なものや言葉の暴力)が存在している。今年416日、早稲田大学の社会人向け講座である「デジタル時代のマーケティング総合講座」にて、講義担当をしていた当時牛丼チェーン「吉野家」の常務取締役企画本部長であった伊東正明氏が講義した際に発せられた言葉が物議を醸した。


田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢、生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、絶対に(牛丼を)食べない。[10]


 男性中心の考え方が女性にある特定のイメージを押しつけようとするとき、そこにはミソジニー(女性嫌悪や女性蔑視)が働いている。『逃げ恥』のみくりも都会に出てきた若い女性たちの一人である。彼女たちは主体性に欠け、容易に誘導できるというこのような思い込みは、女性に対する尊厳を著しく損なうミソジニー的な態度である。この伊東氏の発言を受けて、吉野家HDは「同氏は人権・ジェンダー問題の観点から到底許容することが出来ない職務上著しく不適任な言動があったため」、同氏を役員から解任した。[11]
 上野千鶴子は、イヴ・K・セジウィックの理論を下敷きとしながら、「ミソジニーという概念を手に入れると、なぜ「女好き」の男がその実、女を軽蔑しているのか、あるいは逆に、なぜ男が自分より劣った女を欲望するのか、がよくわかる」と語る。つまり、男にとっての異性愛秩序は「男が性的主体であることを証明するための装置」であり、その装置のもとでは、「男と女とは対等な対にならない」と主張する。「男は性的欲望の主体、女は性的欲望の客体の位置を占め、この関係は男女のあいだで非対称である」(『女ぎらい』、285頁)。[12] 伊東氏の女性差別的な態度もさることながら、彼のマーケティングスタイルも時代錯誤であると大坂祐希枝は指摘する。大坂によれば、彼の発言のなかには「大衆をうまく誘導すれば売上があがる」という発想がある。かつてはこのような作戦はうまくいったのかもしれないが、女性消費者のニーズを無視して自分たちに都合のよいテイストに塗り替えたい、あるいは塗り替えることができるという確信を持ってしまうピグマリオン的マッチョ願望が駆動させるマーケティング戦略の時代は終焉を迎えつつあるのだろう。一方向的に消費者を「誘導」するのが「古いマーケティングスタイル」であるとすれば、現代のデジタル時代において求められるのは、「エンドユーザーとの双方向コミュニケーション」である。[13]
 果たして女性たちは「モテ」「かわいい」のために「消費」に走る誘導されやすい存在なのだろうか。「消費者」とは、すなわちメディアによって「押しつけられる生成物」によって成型されるわけではない(『メディア文化とジェンダーの政治学』、113頁)。田中は、ミシェル・ド・セルトーが用いる「戦略」と「戦術」の比喩を援用しながら、消費者たちが必ずしもメディア生産者が送り手として占拠する「特定の空間・領域」や「戦略」によって支配されているわけではなく、自身の持つ「戦術」によって「メディアが提供する資源をかすめとり、それらを組み合わせることでなんとか自分の意味を創りだしていく」ことを強調する。田中はこれを「消費者の行う奇略」と呼んでいる(同、108頁)。競争の場で闘う女性アスリートたちの「肌の露出や容姿」は必ずしも「男性観戦者のまなざしの対象」としてではなく、「美しさと強さ」や「美しさと賢さ」の表明でもありうる(同、226〜227頁)。

 


[10]  リチャード・サトウ「吉野家「生娘シャブ漬け戦略」で露呈した “マーケティング業界”のお寒い事情」(文春オンライン、2022年、4月23日)
https://bunshun.jp/articles/-/53746

[11]  2022年4月18日付で伊東氏は執行役員および株式会社吉野家取締役から解任されている。


[12]  女性を排除する男性同士のホモソーシャルな絆は、他方でホモエロティシズムを抑圧した上に成り立っている。そのため、ホモソーシャル的な絆は同性愛者をも排除する性質をもち、この点でミソジニー、そしてホモフォビア(同性愛者差別)も複雑に絡み合ってくる。

[13] 大坂祐希枝「吉野家「生娘シャブ漬け」発言から透けて見える「時代錯誤な旧来型マーケティング」の限界」(現代ビジネス、2022年4月28日)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/94775