よみがえるヒロインたち 小川公代

2022.7.12

02ネオリベラリズムに抗う ケア・フェミニズム

 

3.パワー・フェミニズムとしての『逃げ恥』

 ナオミ・ウォルフは『目には目を――新しい女性の力はどのように二一世紀を変革していくのか』において、「女性=犠牲者」とは正反対の意味を持つ「パワー・フェミニズム」という言葉を打ち立てた。田中は、この問題をわかりやすく解説している。


こんにちの若い女性たちは、広告に見られるセクシーさやエロティシズムを女性の身体性の搾取であるとみなすよりも、女性たちはいくつもある選択肢のなかから、セクシーな広告に出たり、女性性を強調するようなファッションに身を包んだり、自分の美貌を売り物にしてメディアの注目を集める目的でそのようにパフォーマンスすることを選んでいると考えるのだ。そして、そのように行動するのは、自分自身の野心や喜びのためでもあると感じるようになっている。(『メディア文化とジェンダーの政治学』、225頁)


 「自分の美貌を売り物にしてメディアの注目を集める目的でそのようにパフォーマンスすることを選」び、それを「自分自身の野心や喜びのため」だと感じている女性とは、まさに『逃げ恥』の百合ちゃん(=演者の石田ゆり)のイメージそのものである。彼女は、さらりとかっこいい女性なのではなく、「かっこよく生きなきゃ」と、本当はそんなに強くない分、努力してカバーする、あるいはパフォームしている女性でもある。[14] みくりは明らかに「かっこいい」タイプとは違い、「かわいい」の信奉者である。彼女の「かわいい」に関する主張は先述したとおりである。また、みくりが自分のケア労働を強みにする点は前回論じたギリガンの態度を彷彿とさせる。妄想の中で自分が家事労働党の政治家になるパフォーマンスを行う際にも、男社会で働く女性の「かっこよさ」がみくりが絶大なる信頼をおく「かわいさ」を凌駕しない。
 「かわいいものを否定しないとフェミニストにはなれないのだろうか」と田中東子が著書の「あとがき」に書いているように、この問題は一筋縄ではいかない、ある意味で女性たちにとっての永遠の課題であろう。この問いは、ジュディス・バトラーの「パフォーマティヴィティ」の概念を想起させる。バトラーが認めるように、行為遂行性(パフォーマティヴィティ)を実践する際に、自ら対抗しようとするものを超越することは困難であるからだ。とはいえ、それが「対抗しようとする権力諸関係はそのものに巻き込まれているが、結果として、その支配的諸形式には還元不可能なものである」。


こうした自らが対抗しようとするものに巻き込まれた関係を記述しており、このように権力=力が自分自身と反対に振り向くことは、権力=力のオルタナティヴな様態を生産し、ある種の政治的異議申し立てを確立するのであり、その異議申し立ては「純粋な」対抗、同時代の権力諸関係の「超越」ではなく、必然的に純粋ではない資源から未来を彫琢するという困難な作業なのである。[15]


 これまで議論してきた内容を踏まえると、「かわいい」という「純粋ではない資源」からいかに「未来を彫琢する」かということが今求められてもいるとも言える。田中によれば、「フェミニズムの闘争の場を形成している足元が根本的に変化」したため、近年は「解釈のための新しい文脈」が生まれている。若い女性たちは、男性社会に「傷つけられたと感じる」のではなく、「むしろそれが露出や自己アピールのための有効な手段のひとつ」、つまりエンパワメントとして肯定視する(同、226頁)。みくりの場合、ケア労働によって搾取されていると感じるのではなく、むしろそれが彼女の「自己アピール」の手段となり、「ガール・パワー」のように、エンパワメントに繋がっている。
 筆者は、第三波フェミニズムの基本姿勢と同じく、第二波的な狭義の「フェミニズム」の解釈では捉えきれないジェンダーの問題について考えてみたい。家庭内の(無償の)ケア労働は女性の自立を阻むかもしれないが、みくりの有償のケア労働には創意工夫が見られ、女性が長らく従事してきたケア実践をポジティヴに受けとめようとしている。また、百合ちゃんはキャリア・ウーマンだが、みくりの母親的なケアの役割をも担っている。階級、セクシュアリティ、人種、趣味や嗜好などの多様化が進んでいる以上、フェミニズムの諸問題を「女性」というカテゴリーに一括りにできない。さらには、消費社会やメディア文化が女性の生と複雑に絡まり合う社会では「女らしさ」――「ケア性」「性的魅力」「着飾り」――には複数の解釈が存在するだろう。
 メイクやハイヒールでさえ第三波フェミニズムの文脈においては女性をエンパワーするものでありうる。しかし、数ヶ月前に邦訳が刊行されたイ・ミンギュンの『脱コルセット 到来した想像』は、このような考え方に大きな揺さぶりをかけている。韓国の女真族の例を挙げながら、「社会が女性に求めるやさしげな、「女らしい」イメージを拒否する「抵抗のイメージを打ち出」すアイラインのメイクもまた主体性の一表現とも解釈されてきたが、[16] イ・ミンギュンは、メイクの美を身体を拘束する「コルセット」の一つとして比喩的に捉え、女性の「主体性」さえメディア文化に操作されている可能性も示唆する。確かに、「美しさ」や「性的魅力」としての「女らしさ」を追求することは、ジェンダー二元論的で保守的な性別役割の再生産になってしまう可能性を意味する。しかし、「ガール・パワー」などを含む第三波フェミニズムは「女らしさ」の肯定的追求を想定し、自由なセクシュアリティの発現と個性の表現に繋がる可能性を見出している。
 他方で、消費社会やメディアによって形成された「着飾りプレッシャー」や美しくなる強迫観念から解放されることを「脱コルセット」と呼ぶこのドラスティックな運動についても考察する価値はある。イ・ミンギュンは、「脱コルセット」を行い、自身が「消費主体」であったことに気づくハンビという女性のエピソードを具体例として綴っている。ハンビは、それまでは自分の着飾った姿が「とても輝いて見えて」いたが、最終的に「実はそれが女性をいつまでも貧乏にするんだな」と悟ったのだという(271頁)。メディアや社会に消費主体にされていたことを彼女に悟らせたのは、「貧乏したことがない人は知らないめちゃくちゃ冷たい本当に氷のような水」だった(同、272頁)。19歳から働き出したハンビが、通帳の残高がなくなっていたにもかかわらず、それでも服を買い続けたことによって「一ヶ月間冷水でシャワーを」する羽目にあう。
 「労働者が規定でハイヒール着用を強制される状況と、自ら楽しんでハイヒールを選ぶ状況が同じとはなり得ない」と留保しながらも(同、93頁)、「ハイヒール」を履いて美しくなれというメッセージが社会の隅々まで——貧困層を含むどの階層にも——発信される消費社会の根深い問題を突きつけている。
 それでは、今の商業資本主義社会に生きる女性たちにとって、相手をケアする、あるいは思いやる行為はどのような意味を持つだろうか。ケア労働が描かれる『逃げ恥』には、「女らしさ」「かわいさ」を家父長的イデオロギーを強化する単なる装置としてみなすべきでないというテーゼがある。この点が看過されてしまうと、「ケア」そのもの、あるいは他者を思いやることそれ自体が否定されてしまう。『逃げ恥』で注目すべきなのは、会社を解雇されたみくりが、あれほど嫌がっていたコップ洗いなどのケア労働を、津崎の家では嬉々として行っている点である。第三波フェミニズムの一つの重要な支流をなしているケア・フェミニズムの観点から解釈するなら、買い物、料理、洗濯、経費のやりくりなどに充実感さえ感じているみくりの主体性や創造性は重要であろう。それは、ケア労働の対価が賃金としてきちんと支払われるという点も斬新なアプローチだが、ケアを貶めない態度という点は革新的である。みくりにとって許容しがたいのは、「ケア」そのものではなく、女性/派遣社員ならケアを押しつけてもよいというマジョリティ男性の上から目線、あるいは非対称の関係性である。
 そして、なにより忘れてはならないのが、『逃げ恥』が、テレビドラマも「メディア文化」の一つであると強く意識させる演出をしていることだ。ドラマに登場しているみくりが、他番組に出演するという妄想を繰り広げるという一種のパロディはいずれもユーモアに溢れ、秀逸である。第一話では派遣社員の代表として『情熱大陸』に出演するみくりが面白おかしく演出されていたり、第五話では家事労働党ポスターで政治家を目指すみくりが映し出されたりしている。これは『逃げ恥』を見ている視聴者に番組の「視聴者(=消費者)」としての視点を意識させる効果がある。
 女性視聴者がメディアによって一つの固定化された女性像を押しつけられるのではなく、あくまでメディア(ドラマ)に映し出されている多様な――若干パロディ化されている――女性像を彼女たち自身が吟味する立場にあることが「ポストフェミニズム」的である。このような多様性へのコミットメントは、「女性の多様性を描きたい」と語っていた脚本家の野木亜紀子の言葉からも読み取れるだろう。『逃げ恥』スタッフには女性も多く、「「女性の声と眼」があったことで、男性の都合のいいように動くドラマではなくなった」という。[17] みくりは失業して津崎と契約結婚するが、未婚のキャリア・ウーマンである百合ちゃんは仕事での成功には満たされながらも、折に触れて満たされなさも吐露している。みくりの友人のやっさんは恋愛関係になった男性と結婚し子供を出産するが、夫に浮気をされてしまう。この友人の窮地によって、仕事を持たない専業主婦が(経済的に)いかに無力であるかが浮き彫りになる。女性たちはそれぞれの複雑な状況を抱えながら生きているが、野木のいう多様性をメディアに表象することの重要性を今一度考えるべきだろう。まさにオースティンばりの多種多様なヒロイン像を蘇らせるようとする女性たちの渾身の作品になったとも言える。

 

 

[14]  「今ひとりでいる子や、ひとりで生きるのが怖いっていう若い女の子達が、ほら、あの人がいるじゃない。結構楽しそうよ、って思えたら少しは安心できるでしょ。だから、わたしはかっこよく生きなきゃって思うのよ……。」という「百合ちゃん」の名言もある。

[15]  ジュディス・バトラー『問題=物質となる身体』佐藤嘉幸監訳、竹村和子、越智博美他訳(以文社、2021年)、330頁。

[16]  イ・ミンギョン『脱コルセット 到来した想像』生田美保、オ・ヨンア、小山内薗子、木下美絵、キム・セヨン、すんみ、朴慶姫 、尹怡景訳(タバブックス、2022年)、91頁。

[17]  海野さんの担当編集者の鎌倉ひなみさんの言葉。「「逃げ恥」×「タラレバ」担当編集者が教える「ヒットの秘密」 いま、女性漫画に求めれられていること」(聴き手:西森路代)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51249