よみがえるヒロインたち 小川公代

2022.7.12

02ネオリベラリズムに抗う ケア・フェミニズム

 

4.ケア・フェミニズムと『ハンガー・ゲーム』

 若い女性たちは、それぞれ個人化された存在として「消費市民権(consumer citizenship)」のなかに絡めとられている(『メディア文化とジェンダー政治学』、16頁)。『ハンガー・ゲーム』の16歳の「反抗的な」(rebellious)ヒロイン、カットニス・エヴァディーンは、ポストフェミニズムの時代に推奨される個人主義や異性愛的な欲望に徹底的に抗い、女性の解放への道筋を示しているともいえる。[18] アンドリア・ルースヴェンがケア・フェミニズムの観点から『ハンガー・ゲーム』を分析しているが、[19] 彼女によれば、カットニスは――みくりと同じように――「ケア」を全面に押し出すやり方でネオリベラリズムに対抗している。映画版『ハンガー・ゲーム』は、タイムズ紙が「ガール・パワー映画10選」のうちの一つとして選んでいる点でも、第三波フェミニズムに特徴的な物語であることがわかるだろう。[20]
 小説の舞台は、パネムという名の独裁国家と化した近未来アメリカで、資本主義を象徴するかのような名前がついた「キャピトル」(Capitol)が政治の中心である。キャピトル市民は貴族的特権を得ているが、農業地区・商業地区・工業地区・鉱業地区などに分かれている11の地区にいるほとんどの市民たちはキャピトルの人々に搾取され、貧困に喘いでいる。反乱の抑止を目的とした殺人サバイバル「ハンガー・ゲーム」が強制されているのだが、このゲームでは、キャピトルを囲む12の各地区から、12歳から18歳までの男女1名ずつ「贄」(tribute)が選出され、男女24人が互いに殺し合う。
 小説は贄が選ばれる「刈り入れ」の日の朝から始まる。父親を亡くした後、母親は精神的に不安定のせいで、カットニスと幼いプリムをケアすることができなかった。その代わりに、父親に狩猟を教わっていたカットニスが、違法だが動物を狩って、必需品を手に入れて家族を支えている。彼女のケア実践が女性的な家事(主に食べること)に限定されず、男性的な狩猟も包括されている点が、ケアの新しい解釈を提供していると言えるだろう。カットニスは、母と妹が最低限の生活ができるために必要なこと全般を担っているのみならず、妹のプリムが不運にも「刈り入れの日」に選ばれてしまったとき、彼女の代わりに贄に志願している。[21] カットニスは、狩猟で鍛えた弓矢の腕と持って生まれた鋭い勘を生かし、同じ地区から選ばれた少年ピータとともに戦いに参加する。
 カットニスが住む第十二地区で彼女がケアの対象とする人たちは主に妹、母親、友人のゲイルであるが、「彼女の主体性(agency)、変化を起こす能力は、他者をケアする力に内在している」(Ruthven, p.51)。ゲイルがカットニスに向けて発する言葉、「おれたちを分断しておくほうがキャピトルにとって都合がいいのさ」(『ハンガー・ゲーム』、29頁)は、まさに資本主義の象徴でもあるキャピトルの特徴を見事に捉えている。「贄たちは生存するために互いを殺し合う競合相手として見なければならないというキャピトルの原則に抗うのならば」、カットニスが「高めなければならない能力」はまさにこのケアする力なのである(Ruthven, p.51)。ルースヴェンが指摘するキャピトルの特徴は、今の新自由主義思想を象徴している。ソニア・セイヤー・フリッツによれば、カットニスの政治的アクティヴィズムと反逆行為は彼女の「他者の面倒を見ようとする衝動」を介して表象されている。[22]
 それによって小説は読者に何を伝えているのか。カットニスの「ケアの倫理」は、ポストフェミニズムと結びついたネオリベラリズムの個人主義の言説と消費文化に抵抗することの重要性を示しているのだ(Ruthven, p.52)。『ハンガー・ゲーム』の面白さはカットニスと商業資本主義に毒されたキャピトルの市民たちとの駆け引きである。12の地区を代表する贄たちがそれぞれ衣装を身に纏ってゲームの開会式に出席することになっているのだが、カットニスとピータの二人は第十二地区の主な産業である「炭坑」をモチーフにしなければならない。美しいもの、娯楽、あるいは(異性愛)ロマンスの物語でさえ貪欲に消費しようとするキャピトルの市民たちに向けて、カットニスたちは創意工夫してアピールする必要がある。注目を集めることができれば、支援者が増え、ゲームを有利に運ぶことができるからだ。そこで、スタイリストのシナたちは規範通りの「誘導される」消費者カットニス・ピータを演出するつもりはない。彼らは、記憶に刻まれるようなクリエイティヴな衣装作りに取りかかる。これまでは「贄は素っ裸にされ、炭塵を表す真っ黒なパウダーを全身に振りかけられていた」が、このありがちで趣味の悪いスタイルは「評判も悪かった」。シナが考案した衣装は、「石炭の採掘そのものではなく、石炭のほうに注目した」もので、カットニスもピータもチーム一丸となり、この開会式のスタイリング・プロジェクトに協力する。シナは、贄のカットニスとピータの二人が「石炭」になって人工の火を背負い、カットニスが「炎の少女」になる演出を提案するのである(『ハンガー・ゲーム』、116頁)。この演出は大成功をおさめ、「たたきつけるような音楽、歓声、感嘆の声に包まれ」た(同、121頁)。
 第三波フェミニズムにおける「美」「モテ」の問題は『ハンガー・ゲーム』ではどのように表現されているだろうか。開会式で観客の目を釘付けにしたカットニスは、ゲーム直前のインタビューでも観客の前でガーリーな魅力を演じている(パフォームする)。バトラーが主張したように、パフォーマティヴィティによって権力に対抗するということは、「「純粋な」対抗、同時代の権力諸関係の「超越」ではなく、必然的に純粋ではない資源から未来を彫琢する」ため困難な作業である。ポストフェミニスト時代に手に入る「資源」はすでに消費社会に流通している規範的なものばかりである。カットニスも、「足先まで隠れるロングドレス」と「ハイヒール」を身につけてインタビューに出るように言われるが、ハイヒールも歩きにくい上、反逆者である少女カットニスは観客に迎合して「過去の大切な思い出まで奪われたくない」と質問にどう答えればよいか悩んでいる。「せめてお世辞を言って観客を喜ばせてやれ」といった周りの助言に対して、カットニスは「苦痛」しか感じない(同、200〜201頁)。インタビューの時間が迫る中、シナが用意してくれた靴は以前「はかされたハイヒールに比べると、少なくとも五センチは低い」し、ドレスには開会式のときの炎が細工されていた。「わたしはかわいいとはいえない。美人でもない。でも、太陽のように輝いている」(同、205頁)。
 カットニスは「大切な思い出」の話も、「作り話」もしない代わりに、「かわいい」少女を演出することに成功している。「ここに来ていちばん感動したことは?」と尋ねられて、「子羊のシチュー」と答えた(同、215頁)。ドレスについて訊かれると、その「スカートをつまんで広げてみせた。「ほら、見て!」」といいながら、(シナの指示で)「くるりと回っ」て見せた。カットニスは「スカートをひらひらさせて、何度もくるくると回った」が、その後、彼女は「くすくす笑ってい」ることに気づく(同、217〜218頁)。カットニスの「かわいい」は完全に演技というわけでもなく、観客を喜ばせることを自然にやって見せた。「かわいい」を否定はせず、かといって観客に媚びすぎないカットニスは、「誘導される消費者」になることへの警戒心がある。
 ゲームが始まってみたら、腕っぷしの強い贄たちがホモソーシャルな集団をなし、弱者を次々と殺していく。「ハンガー・ゲームの序盤戦では、贄同士が同盟を結ぶことがよくある。強い者同士が徒党を組んで弱いものを狩り立てるのだ」(同、266頁)。ピータがその集団に属しているのを見て、裏切られたように感じたカットニスだったが、じっさいはそれも戦略であったことがのちに明らかになる。『ハンガー・ゲーム』は新自由主義の風潮を揶揄するが、この小説の究極のアンチテーゼは、異性愛主義、恋愛至上主義である。日本でもいたるところで“男女”の恋愛ばかりが取り上げられ、それがすべての人にとっての最重要事項であるかのように扱われている。それに対して、女同士の関係性はしばしば軽んじて扱われることが多い。はらだ有彩『女ともだち ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』は様々な物語を紐解くことで、この世界にある価値ある関係は男女間の恋愛だけではないことを明らかにしようしたが、『ハンガー・ゲーム』はまさにそのような物語である。カットニスがピータに対してまったく愛情がないわけではないが(彼を窮地から救ったのも単に同じチームだからというわけではない)、インタビューでピータが公然とカットニスへの愛を告白してから、少なくとも彼女の側では恋愛しているふりを続けている。それによって、必要な物資を「スポンサー」から手に入れ、チームで難関を乗り切るためである。
 カットニスがピータとの関係性に臆病であること、みくりと津崎がなかなか関係を発展させないことからは、異性愛主義への懐疑が見てとれる。『逃げ恥』に異性愛主義の側面があることはもちろん否めないが、それでもみくりと百合ちゃんとの連帯は異性愛と同等の価値があるように描かれているのは、やはり好感がもてる。カットニスは見るからに弱々しい年少のルーという少女と連帯することに躊躇しない。まさに「女同士」の繋がりを象徴しているが、二人の関係が白人同士でない点も重要であろう。ルーは「くっきりとしたこげ茶色の瞳になめらかな茶色の肌」(同、169 頁)と描写され、非白人のマイノリティである。白人のカットニスが身体的にも脆弱で、社会的弱者ともいえる彼女と進んで連帯することを選んだが、それは自分の利益のためだけではない(もちろん、ルーは薬草を集めることに長け、頭を使って逃げることが得意である)。ルーは序盤はなんとか生き残ることができたが、その小さい体で戦って生き残ることは困難であろうと考えたからである。すなわち、ルーとチームを組むことのリスクを負ってあえて、連帯するのである。まさに、前回論じたオースティンの『説得』のヒロイン、アン・エリオットのケアの価値がここに描かれている。

 


[18]  『ハンガー・ゲーム』は『ハンガー・ゲーム2 燃え広がる炎』(Catching Fire, 2009)と最終作『ハンガー・ゲーム3 マネシカケスの少女』(Mockingjay, 2010)とともに3部作をなしているが、ここでは第一巻だけの分析に留めたい。

[19] Andrea Ruthven, “The contemporary postfeminist dystopia: disruptions and hopeful gestures in Suzanne Collins' The Hunger Games,” Feminist Review, No. 116, dystopias and utopias (2017), p.50.

[20] Gary Susman “Girl Power 10: Terrific Teen Heroines in Movies: The Hunger Games” (July 28, 2013) https://entertainment.time.com/2013/07/29/girl-power-10-terrific-teen-heroines-in-movies/slide/the-hunger-games/

[21] スーザン・コリンズ『ハンガー・ゲーム』(上)河井直子訳(KADOKAWA、2012年)、43頁。

[22] Sonya Sawyer Fritz, “Girl power and girl activism in the fiction of Suzanne Collins, Scott Westerfield, and Moira Young,”in S.K. Day, M.A. Green-Barteet and A.L. Montz, eds. Female Rebellion in Young Adult Dystopian Fiction (Burlington: Ashgate Publishing, , 2014),p.28.