沖縄 オトナの社会見学 R18 仲村清司・藤井誠二・普久原朝充

2015.9.24

01路地裏の三バカ男、那覇のディープスポットを彷徨う

 

 ところは沖縄、那覇市街。観光客で賑わう繁華街の裏路地に、あやしいおっさんの影が三つ。これを「路地裏の三バカ男」と呼ぶ。三バカたちは観光地化した沖縄の風景に飽き足らず、よりディープな沖縄の姿を求めて今日も街を彷徨い歩いていた。観光客でごった返す大通りを尻目に、三人が見つめるのは、路地裏に広がる戦後の風景だった。
 いつも見慣れた景色も、知っているはずの街角も、少し視点をずらしてみれば、あっというまに姿を変える。沖縄の古層と戦後の歩みが幾重にも折り重なった、ディープ沖縄ツーリズムにようこそ。

左から藤井誠二、仲村清司、普久原朝充。 撮影:岡留安則

那覇の路地裏は秘境でいっぱい

 

仲村 那覇で暮らして一九年目になりますが、移り住んだ頃に比べるとあちこちが再開発され、街はずいぶんリトル東京化しました。でも反面、開発から免れたところもかなり残っていて、意外にも街の中心部は昭和の面影を残したところが多いのです。とくに牧志や壺屋などは路地で成立した街であることがわかりますね。藤井さんもこちらで半移住生活をしてからずいぶん経ちますよね。そのあたりの実感は?

藤井 那覇に「半移住」して十年くらい経ちますけど、この町は路地が醍醐味ですね。でも、最初は路地に入っていいのだろうかととまどいましたよ。なんか余所さまの家に勝手に入っている感じがして。でも、そうじゃないんですね。いまは路地があると体が勝手に吸い込まれるように、その先に何があるのかわからないけど、ずんずん歩いて行ってしまうようになっちゃった。で、歩いて行くといきなり民家の庭先に出たり、見知った通りに出たりして驚かされます。
 ぼくは子どもの頃から、路地を見ると勝手に体がそっちへ吸い込まれていってしまう体質というか。猫が狭いところに入り込んでいってしまうように。そういう体質の持ち主としては那覇はぴったりなんです。

仲村 実はぼくが書いた『島猫と歩く那覇スージぐゎー』(双葉社)や『猫力』(アスコム)を片手に街歩きをしている観光客もいるんですよ。那覇の国際通りをはさんで両サイドのエリアですが、そこには野良猫たちが闊歩する路地が縦横無尽に走っています。スージぐゎー(路地裏)はどんなところもありますが、那覇の路地が町のもう一つの「貌(かお)」と言えますね。

藤井 ぼくは最初、映画監督の中江裕司さんに「いちばん好きなスージぐゎーなんだ」と言われて、国際通りの郵便局の脇にある路地を入り、いまのドンキホーテが入っているビルの脇を抜ける道を教えてもらった。いまは駐車場になってしまったけど、スージぐゎーを歩いていて急にひらけたところに出て、アパートが建っていて、おばあさんが猫たちに餌をやっている光景に出くわしました。何か冥界に迷い込んだ感じでした。

仲村 那覇は昭和一九年一〇月一〇日のいわゆる「十・十空襲」と翌年の沖縄戦で街が壊滅しました。戦後の出発点になった場所は比較的被害の少なかった壺屋から神里原(かんざとばる)にかけてです。そこから自然発生的に闇市が牧志方面(現在の国際通り方面)に広がっていきました。つまり、戦後の復興期に急ごしらえでできた街なので、路地が入り組んだ住宅や商店が四方八方に無秩序に密集している。だから、那覇は中心街ほど路地が多いんです。

普久原 補足すると、沖縄にはおおまかに二種類のスージぐゎーがあるんですよ。壺屋のいしまち通りのように戦前の情緒を残した古い路地もありますが、その他のほとんどは戦後の住宅密集によって形成された路地です。後者の路地は沖縄本島だけに見られるのですが、それは戦後、米軍が「割当土地制度」を実施したことに起因します。

戦前の面影を残す古い路地。緑に囲まれたくねるような道が特徴

戦後に形成された路地。戦後のどさくさ感が漂い味わい深い

藤井 ぼくが迷い込んでいたのは後者の方ってことだね。ところで、「割当土地制度」って?

普久原 戦後の沖縄では米軍に基地用地として多くの土地を接収されてしまったので、民間収容所からの移動が自由になった後も旧居住地へ帰れない人々が数多くいました。そこで応急措置的な対応として市長村長や米軍地区隊長の権限で必要な土地を割当てて、無償で使用させたんです。那覇も当初は米軍が接収していて、その後の数度に渡る解放にともなって割当土地制度が使われました。

藤井 無償で?

普久原 戦後の混乱期でしたから、当初は地主も断ることができなかったんです。だから、戦前は田畑しかないまとまった面積の区画のはずだった場所が、戦後は細切れにされ無秩序な小区画の敷地になってしまったんです。闇市が興って、土地の利用価値が上がりだしてから疎開先から戻ってきた地主とのトラブルなどが絶えなくなったので、居住者の権利を優先し期限を設けた「みなし貸借契約」があったものとすることにしたようですね。

藤井 いまでも知り合いが新築しようとして土地を取得しようとすると、必ずと言っていいほど土地の境界線をめぐってトラブルになり、訴訟になってるケースをよく聞くなあ。

普久原 その後、期限が訪れる度にトラブルになって、期限延長を繰り返し、復帰後は通常の土地の貸借契約として扱われるようになりました。街歩きをしていると、その地域に関係のない別の地域の地名がつけられた公民館を見かけたりしますが、それは旧居住地に帰れなかった集落の人々がその地域に割当てられたということのようです。そういうところにも戦後史を感じますね。

仲村 なかでも今日歩いた旧国際通り郵便局の脇から入る路地は那覇でも第一級の秘境というべき「名路」です。ここは地元の人も知らない路地で、裏道の奥には戦後の昭和の風景がどーんと広がっています。

藤井 「名路」っていいですね。確かに、なんだか昭和三〇年代にタイムスリップしたような場所でした。国際通りに面したライオンズマンションの真裏が亀甲墓になっていたなんて知らなかった。住んでいる人は気にしないのかな。

仲村 国際通りは戦前は農道のような一本道で、牧志と首里を結ぶために敷設された道路なんです。当時は広大な畑と湿地が広がる寂しいところで、墓地群も点在していました。ところが、戦後は急速に商業地が広がり、建物や商業ビルが墓場を囲う壁のようにして建設されたんですね。でも、表通りからは墓がまったく見えないので、繁華街のど真ん中なのに、いつのまにか忘れられた場所になってしまったわけです。

現在の国際通り。那覇の繁華街として連日観光客で賑わう

普久原 牧志公設市場や平和通りのような表通りから一本横道にそれて路地を進んでいくとところどころに住宅がまだまだ残っていますね。浮島通りは若者向けの服飾関連のおしゃれな店が増えていましたが、最近はカフェやワインバーなどが立ちならびだしています。

仲村 意外と見落としがちだけど、浮島通りは敗戦直後から営業している老舗の畳屋や建具屋、金物屋もあるんです。敗戦直後には職人の街として出発したからです。当時流行した店の屋号を木彫で浮き彫りにした意匠看板をかけている薬局もありましたが、いまや珍しいコンドームの自販機も店の前に設置されていましたね。

日本の近代文化遺産「コンドームの自販機」。「Happy Family Life」の心遣いも素敵だ

藤井 チューインガムの自販機もあんな感じでしたよね。現代の青少年はあの自販機が何なのかわかっているのかな。コンドームの自販機には深夜、人通りがなくなってから買いに行ってましたが、ばったり友人と出くわしたことがありました。もちろん、彼も同じ目的で深夜に来たんだけど、いまはそんな経験してる若い子は少ないだろうなあ。

仲村 そうだよね、もはや時代の遺物だからなあ。ぼくは高校時代、使う相手もいないのに、こっそり夜陰にまぎれて買ったことがあるなあ。童貞には装着の仕方がわかんないだよね。ずいぶん悩んだ覚えがある(笑)。

藤井 あはは。あれは目の前に相手がいて初めて装着可能になるものですから。

仲村 いまは理研といえばSTAP細胞を思い浮かべるけど、ぼくらの子どもの頃は理研といえば岡本理研ゴムでした。岡本理研はあの方面のブランドでしたよね。

 

那覇はニャハと読むべきなのだ

 

藤井 ところで、仲村さんはあの界隈の野良猫に全部名前をつけていましたが、どうしてですか?

仲村 ぼくは人間の顔や体つきをしていますが、本当は猫なんです(笑)。なので、実は尻尾も生えていますし、猫語も解することもできる。仲間の猫とは挨拶もしますので、やはり本来の名前で呼び合わないとね。

普久原 え!?  猫には生まれたときから名前がついているということですか?

仲村 そうだよ。知らなかったの?  牧志と壺屋をつなぐ天ぷら坂は我喜屋一家と言って、女親分の牧志節子が一家を統率しているし、客分に神里原出身の伊達男、小政もいます。ぼくの愛猫の「向田さん」も含めて、沖縄の猫をぼくは島猫と呼んでいます。もちろんそんな品種はないのですが、島猫にはそれとわかる特徴があります。

仲村氏の愛猫「向田さん」の麗しきお姿

藤井 ほう。ゴーヤーを食べるとか。

仲村 まあ、スパムは日本一よく食べているでしょうが、特徴は身体構造にあって、耳が大きく、尻尾が長い。これは亜熱帯や熱帯など暑い地域に見られる共通の特徴です。つまり、暑い地域は体内に熱がたまりやすい。猫には発汗機能がありません。なので、耳や尻尾などの突起物を大きくして熱の放散効率を高めているんですね。熱帯に生息するシャム系の猫もそんな感じです。

藤井 ということはオスの突起物のペニスは大きいほど暑さに強いってこと?  仲村さんは猫だから実感できるんじゃないの(笑)。

仲村 うーん、理屈ではそうなるけど、どうだろうなあ。ぼくはアレを出してほっつき歩かないからなあ。

普久原 考え込まないでくださいよ。どんどん話がダメな方向に展開してますよ(笑)。今日見た黒猫もそうでしたけど、あれはキムリック系の長毛種ですよね。沖縄はシャムやティファニー(シャンティリー)、ペルシャ種などの外来の長毛種との混血が多いような気がします。

仲村 鋭いことに気づいたね。普久原君は猫を語る資格がありますね。実はこれには諸説あって、戦後、沖縄を統治した米軍が飼っていた外来種と地元の猫が混血したというもの。もう一つは移民した人のペットとの混血説です。沖縄は海外移民が日本一多い地域ですが、戦後は逆に南米などに移民した人たちの帰還も多かった。その人たちが持ち込んだ外来種と混血したという説ですね。実は向田さんも首まわりの毛がふさふさしています。ほら、混血は美女が多いでしょ。向田さんも長毛種の血が入っているかも。

 

那覇の本屋さん探訪

 

藤井 市場本通りと言えば、公設市場の正面に日本一狭い古書店として有名になった『トクフク堂』がいまは二代目になり、古本屋の『ウララ』になっています。ウララについては『市場の中の古本屋』(宇田智子著・ボーダーインク)に詳しいですが、元ジュンク堂のかたがやっておられますから、寄ってみるのもいいです。ぼくは初代店長が友人だったので、よく本を買いました。

仲村 『ウララ』はぼくの著書を正面に置いてくれているんですよ。店主の宇田さん、いい人ですよね。ちょっぴりクールで。実はここだけの話、ぼくは宇田さんの隠れファンなんです。

藤井 別に隠れなくてもいいじゃないですか。何か隠れなければならない事情でもあるんですか(笑)。実はぼくも宇田さんファンです。

仲村 ファンの心理から言うと照れるんですよね。正面からご尊顔を拝見するとアガってしまうんです(笑)。なので、いつも隠れるようにして市場の入口からそっと見る……。

藤井 店には入らないのですか。

仲村 恥ずかしくて、とても。

普久原 本当に身を隠してどうするんですか(笑)。本来は「隠れファン」って、ファンであることを周囲に公言できない人を指すんですよ。ご当人の前で隠れる必要ありませんから(笑)。

藤井 那覇は素敵な古本屋が他にもあって、市場通りからは離れますが、秋田から移住されていたご夫妻が若狭でやっている『ちはや書房』もいいですね。他にも松尾の新天地市場付近に『言事堂(ことことどう)』もあります。独自のセレクトで、棚を見上げていると思わず見とれてしまって、時間が経つのを忘れてしまいますね。書店と言えば、浮島通りにある絵本専門店の『えほんや ホッコリエ』もいいです。空間の雰囲気がすばらしいし、その横にあるカフェ『プラヌラ』で買った本を読むというのも、那覇でのいい時間の過ごし方なんじゃないでしょうか。『プラヌラ』もブックカフェでインテリアがすばらしい。那覇ではぼくはいちばん落ち着く喫茶店だなあ。

仲村 買った本が読める、原稿が書ける落ち着いたカフェも那覇には多いですよね。たとえば、安里には『古民家Cafe茶ぁーやー』という沖縄独特の赤瓦の古民家スタイルのカフェがあります。ここは店の裏側には遺跡のような古いお墓があって、空間的にほとんど失せてしまった昔の那覇の地形や歴史を感じさせてくれます。

藤井 仲村さんは猫カフェの方がいいんじゃないですか?(笑)

仲村 那覇は野良猫が多いからわざわざカフェに行く必要がないんです。それに浮島通りには猫が店番しているブティックがあったり、市場近辺では猫店長がいる泡盛の店もありますよ。平和通りの『池原タオル店』には猫の番組や雑誌でひっぱりだこの「みーたん」という茶トラの猫もいます。沖縄は猫が堂々と商店街の真ん中を歩いていますが、島の人たちは人だけでなく、猫に対する人情も厚い気がします。森南海子さんが『猫は魔術師』(竹書房)というエッセイ集に、沖縄の猫について、「猫が違うのではない。そこに住む人が違う」と記していますが、けだし名言ですね。ただ、最近はあいつぐ再開発で猫の居場所がどんどんなくなっています。

普久原 子どもや高齢者などの交通弱者の目線で街を考えることはありましたが、猫目線で街を考えたことはいままでなかったですね。仲村さんは前に幹線道路ができると野良猫がいなくなると言っていましたが、猫目線から気づかされることもいろいろありました。

 

禁断の花園・桜坂のゲイバー、オカマスナック

 

普久原 最近知ったのですが、桜坂と言えばゲイバーやオカマスナックが多くなりましたね。

仲村 かろうじて体を張って頑張っているジャンルですね。「禁断の花園」と言われたオカマスナックの『守礼』も健在です。何を隠そう、ぼくはその花園に入れ込んだ時期があって、背徳を重ねるように通ったことがありました。その頃は「あら〜男がきたわよ。お化け屋敷へようこそ」と言って、化け者のようなホステスさんが迎えてくれたものです。四〇年以上に渡ってダシが受け継がれているというおでんも食べ放題。「私の足より太い豚足もシャブリ放題だわ」とか言われてね。湿っぽさがなくて、大人の会話も絶妙で、いつも明るくて元気をもらった店です。

藤井 桜坂の裏路地を仲村さんに案内してもらいましたが、夜の桜坂は那覇唯一のゲイタウン、東京で言えば新宿二丁目になりますね。数十軒ありますが、ノンケの人も入れる、いわゆる観光バーとかミックスバーと言われる店も何軒かあります。でも外見からだとわからないので、地元の飲み屋の人に聞いていったらわかります。実はゲイバーマップがあって、桜坂近辺でしか見れないのだけど、それを見ると、ゲイオンリーか、ノンケもいいか、男もいいか、レズビアンか、みたいな情報が書いてあってそこから選べます。ぼくはそこで教えてもらった店の一軒の『マロンの大冒険』という店で飲んだけど楽しかったなあ。男子はみなかっこいいし。

普久原 そのゲイバーマップ見せてもらって、その店舗数の多さに「こんなことになってたのか」と驚いてしまいました(笑)。でも、そういう街があることが重要だとも思っているんです。リチャード・フロリダという米国の社会学者がクリエイティビティの高い人材が集中する都市の成長性の高さを分析されていますが、その著作ではそういう人材が集まりやすい地域かどうかを示す指標の一つとして「ゲイ指数」というモノサシを設定していますね。LGBTの人でも住みやすい場所かどうか。そこから地域の成長の要となる住民の寛容度や多様性の高さを読み取ることができるというわけです。米国での研究結果なので、そのまま日本に適用できる話ではありませんが、桜坂のような場所があることは大事なことですね

桜坂の飲み屋街。怪しげなネオンが輝く

藤井 マロンにはふくちゃんと行ったんだけどゲイカップルだと完全に思われてたね。ぼくは日本最大のゲイタウン新宿二丁目で毎晩のように飲む期間が十年ぐらいありました。また、ぼくの生まれ育った名古屋の新栄という風俗街の一角がかつてはゲイバーが集中してて、そこの朝まで続くカラオケが原因で──屋根裏部屋みたいなところにぼくの部屋があって、その部屋とゲイバーが隣接していた──小学生のときに眠れなかった思い出がある。朝、小学校に行くときに女性にしか見えない男性が立ちションしてて、母親に「なんで女の人が立ちションしてるの?」って聞いた覚えがあるぐらいですから、そういう街にいるとなんか落ち着くんですね。ふくちゃんはゲイバー初デビューだったけど、カラオケを歌いまくり、なんとか盛り上がろうとしていたのがおもしろかったなあ。

バーでカラオケに興じる仲村氏と藤井氏。これぞ大人の社交術

仲村 桜坂はゲイの登竜門ですね(笑)。

普久原 少女時代の振り付けまでこなして歌っている常連客がいてすごかったですね。ぼくのカラオケはイマイチだったので、ぜひ、ゲイを学びたかったですね(笑)。

藤井 そっちの「ゲイ」じゃないでしょ(笑)。

 

 

(第1回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2015年10月22日(木)掲載