ここは沖縄、宜野湾市。普天間基地の辺野古「移設」問題で揺れる中、ここにも怪しいおっさんたちの影がひょっこり。在日米軍施設の七四%が集中する沖縄の現実を見据えつつ、三人が向かうのは基地周辺のかつての歓楽街だった。沖縄の街歩きは観光地ではなくアンダーグラウンドを往け! 「基地の街」の過去と現在が交差する、ディープ沖縄観光ツアー。
普天間飛行場の絶景ポイントはどこか
藤井 普天間基地を見学するスポットはいくつかありますが、直下に飛行場を見下ろすことができる「嘉数高台公園」は外せないでしょう。国道五八号を走っていても、中部から北部に向かうと両側に米軍基地や米軍住宅、通信基地などが次々にあらわれて、その真ん中を走ることもあるから、いやおうなく沖縄に米軍基地が集中しているのがわかります。沖縄は日本の国土の六%なのに、在日米軍施設の七四%があるのを実感します。
ただ、横から見るとどこからどこまでがどの基地かよくわかないんですね。それに道路からは軍用車両ぐらいしか見えないし。その点、嘉数高台公園は基地のきわきわまで住宅が密集している基地の全体が見渡せます。世界で最も危険と言われるゆえんですね。オスプレイが配備されてからは、頻繁に離発着するところが見えます。
仲村 嘉数高台公園の入口に「普天間飛行場ちんすこう」というお土産を売っている移動販売車もありますね(2015年6月で閉店)。名物同士をくっつけたお菓子です。実にしたたかというか、たくましいというか。こういう商売もあるんだなあ。普天間飛行場は反基地派にとっては素通りできないポイント。屋台が出てもおかしくないわけだ。
基地は振興策とリンクしていると言うけど、基地と観光産業もリンクしていますね。ここには中北部ランキングでグランプリをとった「3丁目の島そば屋」という沖縄そばの店もあって、実は僕のお気に入りの店なんです。でもね、「ここまで食べにきて基地を見学しないのか」と言われそうで、素通りするのはいわく言いがたい背徳感も感じますね。
普久原 なにも背徳感まで感じなくても……とは思いますが、確かに反戦ツアーのようなダークツーリズムにはある種の倫理性が求められるので窮屈そうな印象がありますね。沖縄観光においても、米軍基地のない宮古・八重山の方が純粋にリゾートだけを満喫できて好ましいと考える観光客も多いかもしれません。
僕が嘉数高台に上ったのは、小中学生時に授業の一環で訪れて以来です。当時は普天間基地返還の話題はなかったので、基地の見渡せるスポットというよりは多くの死傷者を出した激戦地として教わりました。
藤井 普天間というと嘉数高台に上って普天間基地を見下ろすのが、定番の観光コースです。反戦学習ツアー系等では必ず来るところですね。タクシーのドライバーさんが観光客を数人乗せてきて、現地で解説しているのをいつも見ます。
仲村 さすが「基地の中に島がある」と言われるだけあって、沖縄のタクシーの運転手さんは観光案内だけでなくて、基地案内もできるんですね。
藤井 解説を聞きながら「ひどいわ、それ!」って二、三人で来ていた観光客の年配女性が漏らしている声が印象的でした。
仲村 うーん、三文芝居じみたセリフだなあ。感情的に即応するのはよくないね。こういう場合はしばし呆然として声も出ないというか、そういう演出がほしい。ここは「犠牲のシステム」をいやおうなく見せつけられる場所なんだから。いかにも基地を沖縄に押しつけている本土の加害者として、しばし腕組みして黙りこくるという動作を踏んだ上で、発言してほしいなあ。
普久原 それだと、ほとんど演技指導ですよ(笑)。
仲村 タクシーも空港で商売ができそうですね。「お客さん反戦派? いま人気があるのは『普天間コース』と『辺野古コース』。オプションで『嘉手納の安保の丘』をつけることもできるよ。道中はオジサンが「沖縄を返せ」という反戦ソングを唄って聞かせるからさ」なんてね(笑)。
普久原 あざとい(笑)。
仲村 まあ、それは冗談にしても、僕も昔基地問題のツアーを組んで人を案内したことがあるから、頼まれれば「反戦食堂」で昼食付きというプランをつくれる自信がありますよ。
真面目な話をすると「ひどいわ」「差別だ」だけでは、安保法制で立憲主義を破壊した現在の政権はびくともしません。「普天間基地をめぐる問題はひどいから、このひどい状況に荷担しないよう私はこうします」という思考の掘り下げが必要ですね。ここはなんといっても、日本の安全保障のいびつさが物理的かつ可視的に見える場所だから。
普久原 いち個人として何ができるか自問すると悩ましい限りです。沖縄で街歩きをしながらその場所の来歴を探ると、復帰前の米軍占領下時代の影響や、日本本土との関係性などを背景とした逸話に遭遇することが多々あります。この街歩きを通して日本や世界がどのように映るのかをより多くの人に知ってもらうことも、第一歩かもしれませんね。
藤井 そうですね。辺野古の新基地建設では国が代執行の手続きに入り、民主的な手続きで示された沖縄の「民意」については踏みにじるという姿勢があきらかになっていますが、その日本政府の凶暴さは基地の周りを見ているだけでは身をもって感じることは、内地から旅行で来た人には難しいと思う。この普天間基地を撤去するかわりにつくられようとしている辺野古にも足をのばして、反対運動を続ける人たちの姿も目に焼き付けてほしいと思います。感じ方は人によって違うと思うけれど、それでやっと米軍基地を抱える沖縄のリアリティの一端を感じられるのではないでしょうか。
それにしても意外なのは、嘉数高台公園の展望台に結構いたのは、オスプレイ目当ての航空マニアで、オスプレイが離陸すると、すごい望遠レンズをつけた一眼レフカメラを一斉に構えてパシャパシャやっていたことです。
仲村 嘉手納の道の駅の屋上が絶景ポイントになっていて、戦闘機マニアが多いところです。今日歩いた新開地のあたりもオスプレイが真上を飛ぶコースなんですよね。前に来たときは二時間で三回も見ましたよ。
普久原 普天間飛行場周辺を歩いていると時折、低空飛行している海兵隊機を見かけます。那覇に住んでいるとわからないのですが、定期的に大音量に晒されると気分が落ち着きませんね。
仲村 やはり中部は基地の重圧感を感じますね。僕の妻は昔コザに住んでいたので、嘉手納に飛んでいる空軍機と普天間の海兵隊の飛行機は、音の質が違うと言っていました。嘉手納では空気を裂くような爆音がするけど、普天間は重低音でずっしりした音なんだそうです。普天間はヘリコプター部隊が主体ですからね。とりわけオスプレイは重低音が特徴で、教室の窓が震動するくらい不快な音を出します。
実は僕の住んでいる那覇の天久方面も時期によってオスプレイの進入コースになっているみたいで、夕方になるとあの重低音が聞こえてきます。住宅地の上を飛ばないという取り決めは完全に反古にされています。コザや嘉手納では電話に出たときに「ごめんね。いま、米軍機が飛んでいるから……」と前置きすることも多いみたい。
普久原 芸人の小波津正光さんによる「お笑い米軍基地」にそういうネタがありました。
藤井 「あなたの病名は……」って医者が患者に病状を告知する深刻な場面なのに、飛行機の爆音で掻き消されちゃって肝心の内容がわからないという(笑)。
嘉数高台公園を見るツアーの流れには、佐喜眞美術館も入っています。初めて沖縄に来た二〇代のときに友人と行きました。丸木位里・丸木俊夫妻の「沖縄戦の図」の迫力はやはり感じるべきですよね。あと、ここは返還地の跡に建てたものですから普天間基地が一望できます。ジュルジュ・ルオーのコレクションも見れます。
仲村 「沖縄戦の図」は東京で生活をしていた頃、完成した直後に丸木美術館で見ました。丸木夫妻は沖縄戦を体験した人たちに徹底した取材を重ねてあの絵を描き上げたんですね。だから、当時の着物や欠けた茶碗とか日用品もていねいに再現されている。当時は「こんなことは現場にいた人間しか知らない。本当にヤマトンチュが描いたの」という声もあったようです。戦争体験の語り継ぎは必ずしも地元の人でなくてもできるということですね。沖縄戦の図だけでなく、夫妻が描いたアウシュビッツ、原爆、南京大虐殺の図もその一つの例だと思います。
売買春街「真栄原新町」の幻影を見に行く
藤井 嘉数高台に登って普天間飛行場を眺めるような定型的なコースだけではなく、基地に付随する町も歩いてほしい。「基地の街」の現在の姿を昼も夜も見た方がいろいろなものを感じられると思うんです。反戦ツアーの後は那覇に戻って民謡クラブや沖縄料理屋で泡盛を呑むというのもいいけれど、そのまま基地の町に滞在するということを勧めたい。
普久原 反戦ツアーで訪れる観光客も、投資だと思ってついでに地元で楽しんでほしいですね。要は、基地の街で米兵よりある種意味のあるお金を落とせばいいんですよ。そういうことも「運動」の一環になるんじゃないのかとふと思ったんですけどね。
藤井 嘉数高台から普天間基地を見ると手前の方に見える一帯がもともと売買春街だった真栄原新町です。二〇一〇年前後から盛り上がった「浄化」市民運動で街は壊滅しました。賑わっていた頃の街の実態や戦後史については、拙著『沖縄アンダーグラウンド』(講談社より2016年春に刊行予定)を読んでいただきたいのですが、一九五〇年代に米兵相手にできた「特殊飲食街」で、占領していた米国のいろいろな規制やプレッシャーをかいくぐるかたちで沖縄の人たちや、観光客相手に切り換えてしぶとく生き残ってきた街です。
近年、インターネットや風俗雑誌で取り上げられ、沖縄の「夜の名所」になってしまい、地元市民から「沖縄の恥」という声がこの数年で急速に高まり、警察や行政等が連動するかたちで取りつぶしにかかったのです。「ちょんの間」と呼ばれる売買春の店舗はそのまま残っていますが、だんだんとアパートなどに改築されつつあります。この「跡地」は歩いてみてほしい。とはいえ、売買春店はもちろん居酒屋等あいている店は一軒もありません。『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)の取材のときに、九〇歳ぐらいの姉妹が二人で切り盛りしているおでん屋が街の一角にあって、夜に取材に行くと、たまにのぞきましたがなくなりました。看板だけ残ってます。
仲村 沖縄は戦史や戦後史はよく語られますが、戦中戦後をそこで暮らした人々の暮らしがわかりにくいですね。僕も『本音で語る沖縄史』(新潮社)を書きましたが、史料収集をする中で痛切に感じたのは、生活史があまり見当たらないことでした。本土の焼け跡闇市や売春街で暮らす人々は小説や映画、ドラマになっているので、リアルにその様子が頭に浮かんできますが、沖縄はそこを描いた作品が少ないので、当時どんなものを食べて飲んでいたのか、大人たちはどこで遊んだのか、居酒屋みたいなものがあったのかどうか、あったとすれば外装や内装はどんなふうだったのか、その光景すら浮かんできません。
その点で言えば真栄原新町はつい最近まで建物が残っていたので、街そのものが戦後史を語るオープンスタジオのようでした。が、その貴重な目に見える戦争遺跡も発掘されることなく壊されようとしている。もったいないですね。この点、沖縄は歴史の語り継ぎに失敗しているように思えます。底辺で生きる人たちの文学が生まれにくい理由もそれが大きく関係しているのではないでしょうか。
藤井 街の商売が壊滅した後、この街で働いていた女性たちが店舗にそのまま住んでいて、僕はずいぶん取材させてもらったんだけど、いまはそういう人も出て行ってしまいました。本当に寂しい街というか、路地というか、人間の生気がとつぜん消え去ってしまった感じになりました。いるのは猫たちだけです。売春をしていた女性たちが餌をやっていた猫たちです。普久原くんは歩いてみてどう思った?
普久原 街路としては面白い場所ですね。軒の低い長屋形式の平屋が多くて、街路に対して掃き出し窓が整然と並ぶような構成です。用途地域制限等にもよりますが、通常、沖縄の市街地は一階をピロティ(吹き放ち)にするなどして駐車場を確保して、二~三階建ての構成が多いので街路を散歩していても窮屈に感じられる上ちょっとつまらないんですね。
だから昼間の真栄原新町を歩いていて、久しぶりに空が近く感じられましたし、整然とした出入り口にリズムすら感じます。意外とこんな空間構成の場所を歩いたことがなかったなぁ……と思ったんです。売春という目的に最適化された結果、創り出された空間なのでしょうけれど、別の用途に転用するなどこの構成を活かした別の在り方があるんじゃないかと想像してしまいますね。
藤井 さすが建築家、見ているところが全然違うなぁ(笑)。でも、今後、この街をどうしていくかは大きな課題ですね。真栄原新町は普天間基地返還後の土地開発計画によると幹線道路とつなげるために、なくなることがかなり以前から予定されています。僕は前に伊波洋一・前宜野湾市長にインタビューしたことがあるんですが、彼は真栄原新町は普天間基地に付随した負の遺産としてとらえていて、「浄化」運動の先頭にも立っていました。彼は嘉数の出身で、幼い頃からこの街がどんなところかは知っていたそうです。しかし、普天間の辺野古移設に対して県民の反対がこれだけ高いと、この街もしばらくはゴーストタウンのまま放置されるような状態が続くと思われます。
普久原 浄化運動後にゴーストタウン化した街の活性化策として、防衛省の高率補助事業で交流施設を建設する計画がニュースになっていましたね。交流施設は施設稼働率が低く維持コストも決して安くない施設です。これからの人口減少社会に対応することを考えた場合、必ずしも新築がよいとは限りません。新たな建物は設けずに既存の民間レンタルスペースなどの活用を促して、その利用に対して補助金等を充てるなどの方策に切り換えた方がよい場合もあります。
場所が場所ですから点として施設を設けてもゴーストタウン化した周囲との対比は避けられません。面的な計画が望ましいと思うのですが、どの程度の見通しを持っているのかが問題になりますね。やはり当事者の立場になると、「補助事業の機会を逃したら現状のままだ」という気持ちになるのだろうか、といつも考えさせられてしまいます。
仲村 沖縄は長年の振興策で、街のつくり替えや再開発が止められない島になってしまいました。首里城の地下にある沖縄戦を指揮した第32軍の司令部壕も埋める計画がもちあがりましたが、戦跡だけでなく、住民の生きた現実がうかがい知ることのできる負の遺産も遺すべきです。想像力の糧となるものをどんどん失っているのが現実です。
キャバレー跡地からヤクザの抗争に思いを馳せる
藤井 真栄原新町を歩いたら、「ブックスじのん」も外すわけにいかないですね。歩いて一〇分もかかりません。沖縄は県産本をあつかう古本屋さんが充実していますが、これほどの規模のところは他にありません。僕は資料収集等で「ブックスじのん」さんには本当にお世話になってます。物書きで「じのん」の店長・天久さんの博識にお世話になっていない人はいないんじゃないかな。ノンフィクション作家の佐野眞一さんも「ここに行けばないと思っていた本がある」と紹介してますが、いわゆる沖縄県産本から自費出版のような雑誌、市町村史、沖縄企業の社史から名簿類、行政の資料まで、もう小宇宙と言っていい。
普久原 店名の「じのん」は、所在地である「宜野湾」の方言名からつけているそうです。宜野湾(ぎのわん)を、方言では「じのーん」と伸ばして発音するのが正しい表現らしいですね。沖縄は難読地名が多すぎて、正直言って地元の人でも読めない地名が沢山あります。「保栄茂」と書いて「びん」と読むなど、キラキラネーム以上の難易度ですよ(笑)。
仲村 天久さんは本の生き字引ですね。こういう本がほしいと相談すれば、即座に、答えてくれます。まさにモノカキにとって処方箋のような存在です。沖縄は年刊三〇〇点もの新刊が出ている出版王国ですが、その凄味はここに来れば実感できます。図書館よりも利用価値が高い古本屋さんですね。
藤井 では、じのんのある真栄原交差点から大謝名方面へ行きましょう。実はこの道の左手に、沖縄暴力団抗争の長い歴史の中でターニングポイントになった事件が起きた「ユートピア」という大きなキャバレーがあったんですが、いまはまったく痕跡はありません。
当時、沖縄ヤクザが内地の山口組の進出に対抗するために大同団結をおこなって「旭琉会」の前身となる組織をつくったのですが、上原一家が大幹部の新城喜史と反目して脱退、殺し合いを繰り広げます。そこに事件が起きました。一九七四年に起きた、宜野湾市真栄原のクラブ「ユートピア」で飲んでいた新城喜史が射殺された事件です。新城喜史は「ミンタミ(目ん玉)」と呼ばれる沖縄のヤクザ史上で最も恐れられた一人です。
普久原 藤井さんと何度か付近の人に聞き込みしましたが、事件を覚えている人が見つからなかったですね。仕方なく当時の新聞と地図を探してから場所を特定しましたが、「ユートピア」のあった場所は、現在、パチンコ店になっていました。
藤井 当初は、ユートピアがあった場所が見つからずに通り過ぎてしまって国道五八号線の隣にある大謝名特飲街周辺を歩きまわってたんだよね。当時の大謝名交差点は三叉路で、突き当たりの宇地泊にはキャンプ・ブーンが、その北側の真志喜にはキャンプ・マーシーが本土復帰後しばらくまであって、大謝名特飲街も賑わっていたようです。思っていたより細い路地だったので、大通りからは目立たなくて注意して探さないと見過ごしてしまうような場所だったのですが、通り入口にはちゃんとゲート跡が残っていたね。「ユートピア」があったのは、真栄原特飲街と大謝名特飲街を結ぶ道路のちょうど中間ぐらいの場所だった。
普久原 事件のあったユートピア周辺の様子について一九七四年一〇月二五日付の琉球新報に記事があります。真向かいの住民に取材されていますが、「暴力団による乱射事件と知り、ぶっそうな世の中になったものだ。一ヵ月前斜め向かいの給油所に爆弾が仕掛けられたとの怪情報があった。その際は付近住民は怖くなって避難騒動までしたばかりだ。以前は静かなところだったが、同クラブができた後は車の往来も激しくそうぞうしくなった。夜もおちおち寝てもおられない。いやですね」と語っています。実はこの周辺は元米国軍人軍属向け住宅地(通称:外人住宅)だったんですね。いまでも大通り沿いに当時の外人住宅形式の平屋建ての建物が残っています。
近くに真栄原交番が建っているのですが、当時の地図にはないんですよ。事件の影響で建ったのかどうか想像すると面白いですね。このユートピアでのヤンバル派幹部射殺事件に関しては『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社)で佐野眞一さんがミンタミージョーを撃ったヒットマンにインタビューされています。戦果アギヤー(戦後の沖縄で米軍物資を盗み「戦果を上げる」行為のこと)から始まった沖縄ヤクザの勃興や、本土復帰を機会に再発した島内抗争、そしてヒットマンとなった彼がフィリピン人とのハーフだったということにも、占領下の沖縄の状況が象徴されていますよね。実は先ほどの新聞記事に事件直後に自首してきたヒットマンの当時の住所が掲載されているのですが、大山の「米琉ハウス」なんです。
藤井 住所まで掲載するって時代を感じるね。米琉ハウスというのは何なの?
普久原 外人住宅群の宅地開発を主に手懸けていた会社が「米琉住宅株式会社」なんですよ。簡単に説明すると、沖縄では米軍基地内の住宅供給不足を補うために基地外に民間による軍属向け賃貸住宅を供給していたのですが、地元民向けよりも高い賃料が期待できたこともあって一九五〇年代後半から一九六〇年代前半にかけて建設ブームがありました。基本的な形式としては、コンクリートブロック造によるフラットルーフ(陸屋根)の平屋建て、一棟あたりの床面積が二五坪から三〇坪程度で、隣棟間隔が家賃評価に関わっていたためゆとりのある庭を設けているのが特徴です。最盛期には一万二千戸以上もあったと言われています。
藤井 嘉数高台から町を見渡しているときにも外人住宅が見えたね。現在では庭付きの平屋は希少な上に、家賃も手頃ということでオシャレにリフォームして住みこなしている例を、雑誌の特集などで見かけるよ。
普久原 港川外人住宅地も地域単位でコンバージョンして「港川ステイツサイドタウン」という名称で、古着・雑貨屋、カフェなどのオシャレなお店が並んでいますね。観光としても歴史性を味わいつつショッピングを楽しみたい人には最適かと思います。沖縄に限らず東京の立川市や福生市、福岡の春日市などに元Dependent House(占領軍扶養家族住宅)が残っていてリフォームしながら使っている例もあるようです。庭付きの平屋というのは、当時としても贅沢なつくりなので、時代を経ても淘汰されずに住みこなされ続けています。そこから学べることは多いですね。
藤井 港川外人住宅は浦添のマンションが建ち並ぶ中に忽然とあらわれる感じですね。中は沖縄そば屋、古着屋、パン屋、カフェなどが数十軒あって、歩いて、のぞいて、コーヒー飲んでとかしていると日がな過ごせます。昔の間取りとか、風呂場とか洗面所とかそのままだから、当時の外人住宅の生活感がそのまま残ってます。ああいう再利用の仕方はいいと思う。
仲村 元「過激派」の僕は新左翼の党派抗争については詳しいんだけど、二人はこういうジャンルになると博覧強記だなあ(笑)。でも互いに誰も聞いてくれない話題ですね……。
(第3回・了)
この連載は月1更新でお届けします。
次回2015年12月24日(木)掲載