沖縄 オトナの社会見学 R18 仲村清司・藤井誠二・普久原朝充

2016.1.28

05金武(きん)・辺野古――金武で豚の血にまみれ、辺野古の特飲街を歩く

 

 沖縄の三バカたちによるディープ沖縄ツアーもいよいよ第5回目。
 今回は金武町と現在基地「移設」問題で揺れる辺野古の旧特飲街を歩きます。いつも見慣れた景色も、知っているはずの街角も、少し視点をずらしてみれば、あっというまに姿を変える。沖縄の古層と戦後の歩みが幾重にも折り重なった、ディープ沖縄ツーリズム!

 

金武はタコライスではなく、チーイリチャーだ

 

普久原 まず金武というと一般的には名物はタコライスということになってますが、チーイリチャー(豚肉と野菜を豚の血で炒めた料理)を出す久松食堂からスタートするべきでしょう。

仲村 タコライス屋は金武の特飲街に何軒かあって元祖争いしています。でも、どことは言わないけど、あまりおいしいと思ったことがないんですよね。とあるタコライス屋で、藤井さんが食べていたミートソーススパゲッティはひどいもんだったし。量も多すぎて。それに比べるとチーイリチャーはうまい! 特筆すべき金武の名物と言えますね。

藤井 僕がまだ『三ツ星人生ホルモン』(双葉社)を出版する前だったら、久松食堂のチーイリチャーは絶対に扱っていたんだけどなあ。中には血管をホルモン料理として出す店もありましたが、「血もホルモン(内臓)だ」ということにまで思い及んでなかった。

仲村 「血も内臓だ」というのはいいですね。

普久原 「金武町といえばタコライス」というイメージが漠然とありましたけれど、「金武町といえばチーイリチャー」に「宗旨替え」をしないといけないと痛感しました。そのぐらい久松食堂のチーイリチャーには衝撃を受けました。

藤井 久松食堂のメニューの数は八品ぐらいしかなかったですね。

仲村 控えめだよね。「当店オススメ」という文句をチーイリチャーに添えてもよさそうなのに、メニューだけを眺めると埋没している。この奥ゆかしい感じも好感が持てるね。

普久原 物静かで、遠慮深い。仲村さんこそ見習ってほしい佇まいです。

仲村 たしかに、能ある血は爪を隠すんだね。ところで、メニューにあった「おかず」というのは何かと思って、店の人に聞いたんだけど、どうやら野菜そばの上に載っていた炒め物のことらしい。それにしてもチーイリチャーをライスに添えて出されたのは意外だったな。通常は、ライスとチーイリチャーは別々に出すからね。

普久原 久松食堂のチーイリチャーは、見た目はもう、カレーライスでしたよ。

G01_久松食堂

金武町にある久松食堂の外観。仲村氏が吸い寄せられている。

IMG_2967

久松食堂のチーイリチャー。まるでカレーライスのような驚きの見た目。

仲村 しかも、テーブルに置いてあるハバネロを加えるとメキシコ料理になるよね。沖縄人は伝統食のチーイリチャーもチャンプルー文化に溶解させてしまったのかもしれない。

普久 県内で一番チーイリチャーを食べているのはやっぱり金武町民みたいですね。二〇一五年一二月一八日の「琉球新報」によれば、久松食堂とチーイリチャー弁当を売っている菜々(さいさい)との間の通りを「チーイリチャー街道」と宣言する提言がされているらしいです。

藤井 「チーイリチャー街道」というのはいい名前だね。僕は、ここ数年のうちで久々に、沖縄に通っていて本当によかったと素直に感じられる味でした。それも、どこから見ても神保町の共栄堂のスマトラカレー系にしか見えない姿でしたからね。自慢しようと弟にメールで写真を送ったところ、「まさか、上に盛られているのは刻んだ生ニンニクじゃないだろうな?」と返事がきた。「そのまさかだよ」と返したら、「反則だ。劇的にうまいに決まっている」という恨みの言葉が届きましたからね(笑)。レバーなどの中身(内臓)も使っているのかと思って、お店の人にレシピを少し聞いてみたら、中身は使っていませんでした。豚の三枚肉を小口切りして、ニンジンとキャベツで煮て、豚の血を和えて炒めていました。

仲村 店内に貼られた新聞記事を読んだけど、いまは二代目らしいね。「常連客が食べた後に『おやじの味に劣らない』と言ってくれたのがうれしい」と書かれていたし、チーイリチャーを使った新メニューも考えているとあった。

普久原 僕は、これまでチーイリチャーの臭みが苦手だったんですけど、久松食堂のチーイリチャーはまったく臭みがなくて、ほんとに驚きましたね。あれなら僕でも抵抗なくおいしく食べられます。

藤井 新メニューはかなり期待したいところですね。仲村さんならどうします? チーイリチャーパスタとか、チーイリチャー焼きうどんとか。

仲村 パスタにするのはおいしいかもね。アミーゴ・デ・ブラッドとか名称を変えてメキシカンっぽくすると、料理名に抵抗を持っている人が減って売れるんじゃないかと思うけどね。

藤井 たしかにこの「チーイリチャー」という名前で損しているんじゃないかと思うんだよね。「エスパーナ・チーイリチャー」とかに変えれば……。

普久原 なんか余計にわかりにくくなってますよ。

藤井 カレー粉を入れて……って、それじゃただのカレーか(笑)。もしくは、ライスをタイ米にしたら……。

普久原 それだと、よりカレーライスに近づきますね。タイカレー的な。

仲村 でも、カレー粉入れるとおいしいと思うよ。ドライカレーの食感に似てるなぁと食べながら思ったからね。

普久原 ニンニクを福神漬に変えるともはや違いがわからないでしょうね。

仲村 チーイリチャーはすごくおいしかったんだけど、そこから、広がったり発展していかないところが沖縄らしいとも思った。

普久原 なんだかんだで保守的ということなんですね。たしかに、売り方やアピールの仕方を含めて工夫したらもっと売れそうな味でした。

藤井 盛り方を工夫すれば「カフェめし」に見えないこともないですよね。お皿も「カフェめし」っぽいデザインだったし。ただ、お昼のランチとしては……。

普久原 その場合、残念ですが、まずニンニクを諦めないといけませんね。ハバネロや香草などのスパイスを推す感じになるのかもしれません。

藤井 でも、ニンニクがないと物足りない。久松食堂はチーイリチャーだけでなく、オムライスもすごくおいしかった。量もたっぷりで五五〇円(当時)。ちょっとした洋食屋にも負けない味でした。オムライスとチーイリチャーが同居しているというのはすごい。

仲村 そういえば、久松食堂に外国人客が来るかどうか聞きそびれちゃった。キャンプハンセンの第二ゲートから近かったし、ハバネロを常備している点などを考慮すると、可能性はあるよね。それから、店内の壁に額縁に納められた「豚肉血炒」という書道作品がありましたね。僕は書道もやっていたから、一画目の点の力の入れ具合のよさがわかる。「血炒」という字は、中国に行ったときにもよく見かけます。

藤井 そういえば韓国にも「ソンジクッ」という牛の血のスープがあるんですよ。二日酔いに効くと言われています。僕も何度か朝に食べにいきました。

普久原 ここもライターのカベルナリア吉田さんが『沖縄ディープインパクト食堂』(アスペクト)の中でばっちり紹介しています。なんと自転車で沖縄をまわっているという強靱な方です。「やっぱりカベルナリア吉田さんは自転車で来店されているんですか?」と尋ねたら、店員さんが「カベルナリアさんがこちら来店するときは、バスを利用されることが多いですよ」と教えてくれました(笑)。さすがにここまではつらいんですね。かなり親しそうな感じでしたね。

藤井 お遍路もバスや自転車利用よりも徒歩が尊ばれますから、仲村さんがカベさんを乗り越えるには……。

仲村 今度、ウォーキングで行きます!

普久原 さすがに那覇からだと相当な距離がありますよ(笑)。

 

移民の父と闘牛場跡の社交街

 

普久原 でも、久松食堂は店の印象としてはちょっと地味なので、よさが伝わりにくいのが残念ですね。名前の由来を見ると、すごく地元愛があることがわかります。

藤井 沖縄県における海外集団移民を推し進めた教育家で、「移民の父」とも呼ばれる当山久三の「久」と、元琉球政府主席の松岡政保の「松」という金武町出身の有力者からそれぞれ一字取ったみたいだね。実は松岡邸は那覇の僕の仕事場の目の前にあります。

普久原 久松食堂のすぐ裏手側の金武町庁舎の隣に当山久三の記念像もありましたから、運命的な何かがあったのかもしれません。その記念像の後ろにある当山久三記念館は、戦前の一九三五年に建てられたもので、築八〇年になろうとする建物なんですよ。二〇一三年、取り壊しの決定が出たことに対して地元から保存運動が起こり、その翌年の二月に存続する方針が決まったところでした。
 いかに当山久三が町民に親しまれているかを感じるエピソードだと思いました。銅像の方も一九三一年(昭和六年)建立です。太平洋戦争時、金属回収のため撤去されたのですが、一九六一年に再建されました。再建者の一人松岡政保の夫人良子は当山の姪だそうです。

藤井 そういえば、久松食堂の隣にはうしなー社交街の入口があるよね。入口に大きなアーチ状の看板がある。古びたスナックが何軒かあります。営業しているのかな。

仲村 その看板、前にも見かけたんだけど、そのときはこれは「ウチナー(沖縄)」の間違いじゃないかという話になったんだ。でも、今日歩いて初めてわかったけど「闘牛場」の意味だったんだね。

G02_当山久三記念像

移民の父・当山久三と移住の父・仲村清司氏は未来を指し示す。

G04_ウシナー社交街

久松食堂の隣にはうしなー社交街の入口が見える。

普久原 もともとヤンバル(沖縄本島北部)は闘牛の盛んなところですが、「うしなー」は現在の牛納社交街の一帯を指す地名です。うしなーは沖縄方言で「闘牛場」を意味しています。明治の末頃から闘牛場があったようで、戦後は催し物会場にも利用されていたようです。昭和三六年に地形が平らに整備されて、現在のような社交街になったみたいですね。

仲村 かつて、そこに闘牛場があったことが名前からわかるようになっているんだね。途中で休憩させてもらったうしなー通りのカフェcasa naturaの方は、街歩きしていることを伝えたら、わざわざ分厚い金武町と並里区の史誌数冊を二階から運んで見せてくれました。

藤井 「うしなー」の名前の由来となった闘牛場の場所は、お店の人も知らなかったね。出してもらった古い地図で探してもわからなかった。丸い円形状のスペースがすぐ近くにあったから、ひょっとしたらそこかも。こういう街歩きをしながら、街の名前の由来や歴史を地元の人に聞いてまた歩くというのが醍醐味ですね。

 

辺野古集落を歩く

 

藤井 さて、金武町から辺野古にやって来ました。それにしても、辺野古の特飲街の壁はよい味わいしてますね。古い建物の壁マニアとしてはたまらないものがあります。

普久原 建築写真っぽく正面から歪みなく撮るとさらにかっこよさが映えますから。

藤井 辺野古というとどうしても、キャンプシュワブの金網のある浜が報道で映されるから、そのイメージが強いですよね。「新基地が建設されようとしている闘争と分断の浜」というイメージです。でも辺野古の街はずっとキャンプシュワブと「共存」してきたから、街の中心部に行くとかつてバーだった建物がたくさん残ってます。

DSCN2279

辺野古キャンプシュワブの金網の様子。

G15_辺野古社交街壁写真02

辺野古社交場にあるかつてのバーの建物跡。

仲村 一九六五年の米軍の辺野古計画のときに反対運動をした人が、辺野古の崖下の旧集落に住んでいたんだよね。その子息はいまや容認派になってしまったけど、復帰前はまた別の展開がありました。

普久原 建築家の真喜志好一さんが、以前(一九六〇年代)も辺野古の海岸を埋め立てる基地計画があったという話をされていましたが、そのときの反対運動の歴史もあるわけですね。

仲村 この話は、三上智恵さんのドキュメンタリー映画『標的の村』にも出てきます。今日歩いてみてわかったのは、この一体が本来の旧辺野古集落だったんだということです。

普久原 やはり神アサギ(守護神を招いて祭祀をおこなう場所)を中心として集落を形成していたのでしょう。崖上側の特飲街は一九五七年に区画整理されたと入口の看板に書かれていたので、那覇市などの特飲街に比べるとやや後発の新しい街ですね。
 辺野古の特飲街側は、もともと日本本土に駐留していた海兵隊が地元の反対運動で追い出されるように沖縄に来た際に形成されています。その折にも現在のような誘致運動が起こっていた。様々な事情があったとはいえ、歴史をくり返しているのではないかと、いまの特飲街の姿を見ながら不安を感じたりはしますね。

仲村 神アサギやフクギ並木周辺は、古くからの漁村の風景なんだよ。

藤井 旧集落と特飲街などの配置の読み解きは重要ですね。

仲村 基地埋め立てを巡って問題になっている海側を見るのも重要ですが、こういう地元の人々の生活空間の成り立ちも見た方がいいと思う。反対運動ももちろん大事だけれど、たぶん、辺野古以外から駆けつけて運動されている人たちは、集落側をほとんど歩いていないと思います。地元の人は別にしてね。辺野古の海だけでなくて、こういう街の伝統的な風景も含めて、どう残していけるかを考えることがこれからは大事だと思います。それが語り継がれていけばむやみな再開発はできない。環境保全を実行していくときの大事な鉄則です。

藤井 辺野古の特飲街はそのタイムトリップしたかのような雰囲気から、多くの映画のロケ地として使われてきたんです。有名なところでは中江裕司監督の『ホテルハイビスカス』ですね。ホテルハイビスカスという架空の民宿を実際の建物を使ってつくって、そこを舞台にした。交番の前の二階建ての建物がそうなんですが、いまは何も使われていないようです。実はよく見ると入口のガラスの部分に「ホテルハイビスカス」と書かれたものが残っています。
「映画のセットみたいな街」ということでもあるんでしょうね。ロケ地としてうまく残して使う方法はないのかなと思うけれど、いま基地工事がはじまるのと同時に建設会社関係の事務所がどんどんつくられはじめていて、少しずつ雰囲気が変わりつつあります。前にバーをやっていた女性に話を聞いたら、たとえば「フラミンゴ」というバーの建物はこのあたりのランドマーク的なスポットなのですが、オーナー一族とは連絡が取れなくなってしまっているそうです。
 崔洋一監督の『友よ静かに瞑れ』(前作・北方謙三)も一部のセット(娼館)をのぞいて全編が辺野古ロケです。主演の藤竜也が「イタリアンレストラン」でハンバーガー食って、地元の人に絡まれるシーンとかもあります。藤竜也が町中を走り回ってますね。一九八五年公開なので、現在よりも建物が残っていて、かつての町並みがよくわかります。僕は沖縄ロケの映画は当時の街の風景の資料として観てしまうなあ。

G18_ホテルハイビスカス

映画『ホテルハイビスカス』のモデルとなった建物。

G19_辺野古バー「フラミンゴ」

辺野古のバー「フラミンゴ」の跡地。

仲村 町並みと言えば、辺野古の問題は海の埋め立てだけではなく、その当該の土地の風景にも顕著にあらわれていることがよくわかるなあ。つまり、お金が落ちている家とそうでない家……。もっと言えば儲かっている土建関係と寂れていく一方の飲食店。土建屋さんの家は新築したばかりの豪勢な造りで、ヤマト式の瓦が葺かれたいわば御殿だもの。

普久原 逆に飲食店は営業しているのかどうかもわからない店が多くありますね。一口にアメとムチと言うけれど、アメの落ち方にも多寡がありすぎて、街の風景にも露骨にあらわれていますね。

藤井 よく住民同士の分断と言われるけど、街を歩くと、辺野古はもうここまでやられてしまったのかと、暗澹たる気分になってきます。

仲村 しかも、今年は選挙イヤーで、重要な選挙が続く。オール沖縄は一敗もできない厳しい年になるけど、安倍政権は選挙結果をうまく誇大喧伝して、沖縄は一枚岩でないことを強調してくるはずです。新基地建設問題は今年が正念場になることは間違いない。

普久原 メディアが辺野古の機動隊の暴力的な過剰警備をだんだん内地に伝えなくなっていますね。

仲村 そう、オスプレイの違反飛行も日常茶飯事になっているのにまったく伝わっていない。実は僕の住んでいる那覇の自宅はオスプレイの飛行コースになっているって知ってた?

藤井 ええ? そうなんですか?

仲村 それも、事故率の高いヘリモードで頻繁に飛行している。周辺は住宅密集地帯で、病院通りと呼ばれるほど医療施設がたくさんあるでしょ。だから、世界一危険なのは普天間だけではないんだね。那覇や名護も含め、沖縄全体が常時危険に晒されていると知るべきなんです。普天間を返還するために辺野古を半永久的な危険な基地にするような選択はできませんよ。

藤井 危険性の除去は移設ではなく、基地の閉鎖によってこそできるということを忘れちゃダメだね。

 

備瀬集落にフクギを見に行く

 

仲村 辺野古の旧集落内には小規模ながらも美しいフクギの並木道がありますね。フクギというのは本当に成長に時間がかかる樹木なので、ここまで育ったフクギの並木はとても貴重なんです。辺野古でフクギの並木道を見たら、ちょっと足を伸ばして、本部町の備瀬集落に行ってみましょう。備瀬のフクギ並木は観光地としてとても有名です。

普久原 備瀬のフクギ並木の風景は映画ロケ地としても誘致しているほどの観光資源です。ちなみに、美ら海水族館からも近いので観光客にお勧めしている場所だったりします。
 備瀬集落と言うと僕ら建築系の人たちの間では住まい方の類型の一つとして紹介されることが多いですね。塀を巡らせるかわりにフクギを植えることで、夏の直射日光を防ぎながら涼しい海風を通す工夫が見られますし、台風対策にもなります。それを地域単位で維持している場所ですから。

仲村 フクギの葉は厚いので風を切る役割を果たしています。台風の暴風もこの厚い葉のおかげで威力を削がれるんです。家を風から守るための先人の知恵は美意識と機能美が生かされていますね。ものすごい発想だと思いますよ。

藤井 備瀬集落のフクギ並木は長年、沖縄通いを続けていても行ったことなかった。

普久原 ある意味、フクギって沖縄では嫌われている木でもあるんですよね。地面に落ちた葉や実の掃除が大変だから。特に地面がアスファルト敷きの場合、潰れた実がこびりついて強い匂いを放つので嫌がられますね。
 備瀬は地域としてそういう不便さも受け入れつつ良好な環境を守っている場所だと思います。あと、写真好きの方なら、夕方ではなく朝方に訪れることをお勧めします。フクギ並木のトンネルから海が見えるショットが逆光にならずに美しく撮れますよ。

仲村 いかにもCDジャケットなどに使われそうなシーンだよね。

G21_フクギ並木のトンネル

備瀬のフクギ並木のトンネル。美しい絵になる風景だ。

普久原 備瀬集落のフクギ並木は一七世紀の琉球王朝時代の高官・蔡温の政策によって形成されたものだということを『これが沖縄の生きる道』(亜紀書房)の仲村さんの話で初めて知りました。当時の村の人々の知恵で自然発生的に形成したのかと思っていましたが、上からの政策だったということで驚きました。

仲村 木の伐採を制限するために国有林化した杣山(そまやま)政策と同じなんだよね。

普久原 備瀬集落で会ったおばあさんたちはいろいろなことを教えてくれて、ガジュマルの根元に祀られていた石についても話してくれましたね。土地測量の基点として使われていた石だったようで子軸石(ニージクイシ)と呼んでいました。本来は道の真ん中にあったそうですが、自動車通行などで支障が出るようになったので寄せてしまったようです。沖縄には伊能忠敬より前に近代測量技術によって作成された「琉球国之図」がありますけれど、もしかしたら、その際に検地で使われていた印部石(しるびいし)だったかもしれませんね。他にも北の岬にある竜宮神の話をしてくれました。備瀬の竜宮は沖縄の七竜宮の一つにも入っているそうです。

仲村 辺野古にも竜宮神の拝所があったね。

普久原 『辺野古誌』(発行:辺野古区事務所)を読んだ限りでは、辺野古の竜宮神は戦後に設置されているらしくて比較的新しかったですね。

藤井 仲村さん、あそこで会ったおばあさんたちから育てているニラを大量にもらって、素手でニラを掴んだまま、ずっと街歩きすることになりましたね。さっきから仲村さんからずっとニラの臭いがしてる(笑)。

仲村 おばあの親切でよくパパイヤやバナナなどを分けてくれるけれど、ニラは初めて。僕もすごく臭くて大変なんだよ(笑)。

G23_ニラを持った仲村さん

おばあにニラをもらう仲村氏。臭いのためかどこか虚ろな表情だ。

普久原 若い頃に本土での生活経験のあるご年配の方の話は、訛りが少なくて聞き取りやすいですね。もう一方のおばあさんは、大阪生まれのウチナーンチュ二世でした。

仲村 じゃあ、僕の先輩だ。僕も大阪生まれだから。

藤井 並木のトンネル向こうに海と伊江島が見えるね。夕暮れは、備瀬の海岸はのんびりしていていいですねー。地元の方が犬を散歩してたりして。しばらく佇んでいたい気持ちになりました。
 昨年(二〇一三年)、母親を連れて伊江島タッチューに上ったんですよ。標高はそれほどないのですが、それでもけっこう、息が切れた。「もう上るのやめよう、誠ちゃん」と途中で何度も言われた。

仲村 「誠ちゃん」と呼ばれているのですか!

普久原 友人の家に電話掛けたときとか、家族内の呼び名を聞いてショックを受けるときがありますね(笑)。

藤井 「誠ちゃん」でショック受けないでよ。ちゃんと母親の背中を押して、岩肌を這うように登っていく急階段を登りきり、頂上を制覇しましたよ。

仲村 伊江島の南側にある水納島もよく見えるなぁ。あの島も、集落は基本的に北側に偏っている。

普久原 やはり水源の場所と関係があったりしますか? 伊江島も北側の崖下に湧き水がありましたよね。

仲村 その湧き水を泡盛の醸造にも使っているよね。水があることが集落を形成する条件だから。それで畑ができるかどうか決まる。八重山には湧き水のない島もあるから、田植えのできる島と田無し島があるんだよ。小浜島は山があるから水を涵養できるんだけど、竹富島は水が確保できなかったりするし、黒島の表土は一メートルもない。

普久原 表土が薄すぎると保水能力も期待できませんね。

仲村 だから、栽培できる農作物も限られるんだよ。それなのに、琉球王府時代は稲作をして米を納めるように強いられた(人頭税)ので、黒島の人たちは西表島に渡って開拓しようとしてマラリア被害に遭って全滅するなどの悲惨な歴史もあります。

普久原 戦前の西表炭鉱も悲惨な話が多いですよね。今でこそ、八重山はリゾートの明るい印象が強いのですが、歴史的には暗いイメージがありますね。

藤井 仲村さん、猫を発見しましたよ!

仲村 おお、ゴロニャン♪ いい子だ、いい子だ。ゴロニャン!

普久原 あのー、仲村さん。先ほどのおばあさんから頂いたニラの香りのせいで避けられてますけど。

G23_ニラを持った仲村さん(猫に嫌がられる)

ニラの異臭により猫ちゃんにそっぽを向かれる仲村氏。完全にガン無視だ。

 

 

 

(第5回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年2月29日(月)掲載