沖縄 オトナの社会見学 R18 仲村清司・藤井誠二・普久原朝充

2015.12.24

04コザ(沖縄市)――特飲街、米兵どもが夢の跡

 

 旅慣れして普通の観光ではもうもの足らない。そんなあなたに、三人のおっさんたちが、よりディープな観光を指南いたします。沖縄の「三バカ男」による一歩進んだツーリズムガイド「沖縄 オトナの社会見学 R18」。
 三人の次なる目的地は、かつて「基地の街」として歓楽街がひしめいていたコザ(現・沖縄市)。隆盛を極めた歓楽街の現在の姿を見つめる中で、三バカたちの脳裏にふと浮かんだのは、こんな句だった・・・・・・「特飲街、米兵どもが夢のあと」。
 誰もが知る風景も、いつか歩いた街角も、視点をずらせば姿を変える。沖縄の街角から戦後史の闇へとダイブする、哀愁のセンチメンタル・ジャーニーのはじまりはじまり。

 

コザの玄関口に向かう

 

藤井 コザ(沖縄市)に初めてきたのは一九九〇年代の半ばぐらいで、「デイゴホテル」に泊まりました。いまは建物は新しくなっていますが、米軍御用達のホテルで一九六六年につくられました。夜、チェックインして、部屋の調度品や雰囲気でここは那覇とはぜんぜん違うと思った。
 ここのホテルマンの故・宮城悟さん(両親がホテルを開業)の書いた『哀愁のB級ホテル』(燦葉出版社)を読むと一九七二年頃が黄金期だったみたいです。ベトナムから米軍が撤退するということで米兵の緊張が一気にとけて、夫婦や家族で移動することが増え、米軍家族向け住宅の空き家待ちの米軍家族が連日宿泊したそうです。往時の「アメリカ世」(アメリカ統治時代)をしのぶためにも『哀愁のB級ホテル』を読みながら、いまのデイゴホテルに泊まるのもいいかもしれません。ホテルでは民謡クラブなど、その日のイベント情報も教えてくれます。

仲村 「デイゴホテル」は「上質のB級」が売り文句のホテルで、ベッドやバスタブはアメリカ仕様。思えばコザフリークたちの定宿的存在だったね。なにをかくそう、僕もコザの熱狂的信者で、二〇〇〇年前後の沖縄ブームの頃は週末になるとコザに出かけていたんですよ。
 コザと北中城村(きたなかぐすくそん)の市境はライカム交差点あたりだけど、僕にとってのコザの始発点は国道330号線をさらに北上したところにある、諸見百軒通りあたりからです。

藤井 米兵相手の店が林立しているあたりですね。

仲村 そう。いまはすっかり寂れているけど、当時は「リマレストラン」やディスコ「ピラミッド」のネオンがギラギラしてましたね。米軍関係者の車両であるYナンバーの車も諸見百軒通りから多くなるし、酔っぱらった米兵が奇声をあげたりして、那覇とはまったく異なる雰囲気のアメリカタウンでした。

藤井 もともと百軒ぐらい、飲み屋やバーなどがずらりと並んでいたんですね。僕がこの通りに初めてきたのは二〇年以上前ですが、まだ数十軒が営業していたと思います。いまは一〇軒あるかないかの寂れた通りになってしまいました。
 かつてアメリカ占領時代にオフリミッツ(米兵の立入禁止措置)を受けた地域名を調べていたら、ここの名前が出てきましたから、当時、相当米兵御用達の店が軒を連ねていたのでしょう。夜に来てどこかのスナックにでも入って昔のことを聞いてみるといいかもしれませんね。

諸見百軒通り

現在の諸見百軒通り。かつては賑やかだった通りもいまは寂しげな表情を見せるばかりだ。

往時の面影を残すバーやスナックの様子

往時の面影を残すバーやスナックの建物。看板に記された「おもかげ」「古都」という言葉が皮肉だ。

普久原 一九五六年九月二八日付の沖縄タイムス「盛り場の実態」記事にも「コザの表玄関は諸見大通りである。戦後中部の盛り場はどこもそうだが、軍用道路に沿ってアッという間に膨張したというのが実情、とりわけ諸見大通りはその代表的な繁華街といえる(……)三万坪の商店街、奥行きはないが、道に面して長く延びているこの通りは、近く外人商社まで会員に含むという大規模な組織にまで発展、中部随一の幅の広さを見せている」と書かれていますね。
 文中の「諸見大通り」というのは、厳密には百軒通りに平行して通っている国道330号線のことです。復帰前までは軍道5号線、現在は「サンサン通り」と呼ばれていますね。

仲村 ここでの「外人商社」というのは一九五四年にオープンした「プラザハウスショッピングセンター」のことだろうね。

普久原 先ほどの記事には「外人商社プラザハウスやロジャースなども通り会に含む話し合いを進めており……」ともあるので、間違いないですね。どこからどこまでがコザを指しているのか地元の方同士でもよく意見が異なりますけれど、僕はプラザハウスあたりからコザに来たという意識になりますね。一般的にショッピングモールは自動車交通を前提として郊外に建てるのが主ですから、建設当時のプラザハウスもコザの境界という位置づけだったんじゃないかと思います。当時、車を利用できる人も限られていたので、主に米国人向けだったのでしょう。

仲村 おそらく、日本初のショッピングモールだよね。本土で最初のショッピングセンターは一九六四年にオープンした「ダイエー庄内店」(現・ダイエーグルメシティ庄内店)か、公式には一九六九年に東京都世田谷区にオープンした玉川高島屋ショッピングセンターという二つの説があるね。

藤井 昨年(二〇一〇年)、その日本初のショッピングモールから交差点を挿んですぐ隣にイオングループが、沖縄最大のリゾート型ショッピングモールを建設したということにも歴史の因果みたいなものを感じますね。もともとは米軍専用ゴルフ場だった泡瀬ゴルフ場跡地です。それも、「イオンモール沖縄ライカム」という名称なんですよ。着工時の仮称は「イオンモール北中城」だったみたいですが、ご存じのように、「ライカム(Rycom)」とは、かつて北中城村比嘉地区に置かれていた琉球米軍司令部(Ryukyu Command headquarters)の略です。国道330号には「ライカム交差点」がありますし、「ライカム坂」もあります。

仲村 それにしても「イオンモール沖縄ライカム」という名前がねぇ……。かつての琉球米軍司令部の名前をつけるとは。僕は『これが沖縄の生きる道』(亜紀書房)で宮台真司さんと沖縄のショッピングモール化については議論をしたけれど、基地返還跡地をイオン帝国が占拠したようにしか見えないよね。

普久原 「帝国」って……(笑)。でも、沖縄市だけでなく北谷や具志川なども含めてイオングループは近隣に相当な影響を及ぼしそうですね。

ああ

ライカム交差点と「イオン帝国沖縄総司令部」ならぬ「イオンモール沖縄ライカム」の様子

あああああ

「イオンモール沖縄ライカム」の内部。

藤井 「イオンモール沖縄ライカム」という名前が受け入れられるのも「沖縄らしさ」と言ったらいいんでしょうか。そう言えば、僕は初めての沖縄旅行で、かつて中の町のグランド通りにあった、歌手の知名定男さんの店「ナンタ浜」に行って民謡を聞いたんです。饒辺愛子(よへん・あいこ)さんの演奏を聞いて感動して、沖縄民謡にハマっていきました。それ以降、取材などで沖縄にくるたびに必ずコザには行きますが、グランド通りもすっかり寂れてしまった。ですが、いまだに僕がコザに来たなあと感じるのはゲート通りに入ったときかなあ。

普久原 沖縄自動車道もありますけれど、那覇からだと二〇キロ。コザはまだまだ遠い印象がありますね。とはいえ、この前僕はイオンモール沖縄ライカムに行っちゃいましたけどね。

仲村 後学のために僕もひととおり巡察しました。

普久原 えっ!?

藤井 実は僕も行って楽しんできました。結局、みんな行ったんかい(笑)。

普久原 それより諸見百軒通りに話を戻すと、一九五六年当時の記事には「バー、カフェーなど外人相手の風俗業者が約二十軒(女給約百名)」とあるので、まだ百軒もなかったんでしょうね。

仲村 ベトナム戦争が激化する六〇年代から栄えたんじゃないかな。

普久原 諸見百軒通りは、戦後に軍道が敷設される前の旧通りで一九六二年に現在の通り名を決めたようですから、影響がありそうですね。

仲村 百軒通りの北側から330号線に抜けてすぐ東側に直交するように延びる道は「新生パラダイス通り」と言われて、ここも特飲街だった。僕が来た頃にはすでに、閑散としていたけれど、五~六〇年代は栄えてたらしい。

藤井 戦後、自然発生的にあちこちに基地を中心にして特飲食街ができていきました。コザ自体がそもそも街ではなかったわけで、新しくできた基地の街です。収容所に入れられていた人がそのまま住み着いたり、沖縄のあちこちからきて住み着いていった。
 そこで米兵相手に売春していた女性の多くは奄美出身者で、基地建設のために働いたり、バーなどの水商売を手がけていたのも奄美の男性たちです。街歩きをしながらいまも細々と営業している店のルーツを聞くと、奄美の人だったということはしょっちゅうあります。

 

照屋黒人街の跡を歩いてみる

 

藤井 胡屋十字路から東へ行くと、コザ十字路があって、ここに銀天街というアーケード商店街があります。その銀店街の本通りを抜けて蛇行した坂をあがっていくあたりが照屋黒人街と言われた一帯です。コザは米軍基地によって人工的につくられた街ですが、この十字路に市が建ち並び、それが銀天街に統合されていったという経緯があり、それはそれは賑わっていた。一九六〇年代には映画館も何軒もあり、華やかな街だったそうです。いまでもポルノ映画を上映している映画館がコザ十字路を少し入ったところにあります。
 銀天街は、一九五一年四月、軍道24号線(現:国道330号線)と軍道13号線(現:国道329号線)の交差点にバラック小屋を建てて商売をはじめたことから市場に発展したそうです。その後、コザ十字路市場組合と隣にできた本町通り会が一九七六年に合併して銀天街と名付けていますね。しかし、例によっていまは寂れきっています。県道の拡幅工事もあり、銀天街自体も縮小されてしまった。

普久原 様々な地域で商店街が苦しんでいる話をよく耳にしますが、コザはより厳しい局面あることが、銀天街にくるとよくわかります。アーケードのせいで昼なのに暗い印象を受けるからかもしれません。店が開いていればまだ、明るいのでしょうけど……。諸見百軒通りを南の玄関口とするならば、コザ十字路は北の玄関口という位置づけだったと思うんですよね。

藤井 それでも、かつて黒人街だった付近の路地を分け入っていくと、以前バーだった建物や、米兵向けに性風俗業をやっていた建物が残っています。当時の照屋について書かれた本を読むと、照屋にまぎれこんできた白人が黒人兵士にリンチされているシーンが必ず出てきます。馳星周氏の小説『弥勒世』(角川文庫)も照屋の乱闘シーンからはじまります。もともとは白人もいたのですが、当時の人種差別が原因で対立が激化して、白人が城前や八重島のほうへ移動していくかっこうになります。これが自然発生的にそうなったのか、問題発生を避けたい軍の「政策」によってのものなのかについてはUSCAR(琉球列島米国政府)の文書資料を調べている研究者の間でも議論があるようです。

現在の照屋黒人街の様子。

現在の照屋黒人街の様子。

当時のホテルの看板、左上に温泉マークが描かれている。

当時の照屋黒人街のホテルの看板。左上に温泉マークが描かれている。

仲村 こんな場所だったのかぁ・・・…。幹線道路のすぐ裏手で通り過ぎてしまうから、気づかなかったなぁ。

普久原 一見しただけではわからないですが、よく観察すると看板を塗り替えたような痕跡があったりしますね。

藤井 あの温泉マークはもろに米兵相手の性風俗の印です。建物が残っているとはなあ。銀天街からゆるやかに曲がっていく上り坂だけじゃなく、その周辺の路地も歩いてみると当時の建物がそこここにあります。
 一九七〇年に公開されたドキュメンタリー映画『モトシンカカランヌー』の撮影スタッフは照屋に家を借りていたんです。たまたまその隣に住んでいたヤクザや、その愛人を撮影した。映像が『モトシン~』の柱になっています。いまでも建物は残っています。半分ほどは取り壊されてしまい、撮影スタッフやヤクザが住んでいた棟は壊されて集合住宅になりましたが、残り半分ほどは外人ハウスを模したような家が数軒かたまっています。僕はふくちゃんと一緒にそのヤクザの一人に離島まで会いに行ったことがあります。その詳細は拙著『沖縄アンダーグラウンド』(講談社より来春刊行予定)に書きましたから、多くの人に読んでほしいですね。

普久原 ロケ地探しはワクワクしましたね。建物壁面に棟番号がペイントされているのですが、当時の映像と一致していることがわかったときは心躍りました。でも、マンション建設のために一部解体されてしまったのが、ちょっとだけ切ない。

仲村 ここは建物の側壁に人の脂や手垢が残っているような感じで、実に生々しい。街の発達史がありありと浮かんでくるスポットですね。

映画『モトシンカカランヌー』のロケ地(2014年頃)。左の建物は現在は開発により消失してしまった。

映画『モトシンカカランヌー』のロケ地(2014年頃)。現在、左側の建物は開発により消失した。

 

八重島(白人街)を歩いてみる

 

藤井 八重島は照屋黒人街とは対照的で白人が多かったので白人街とも呼ばれていた一帯です。戦後、最初期にできた特飲街のひとつですね。基地の側から入っていきましょう。
 かつては「New KOZA」というネオンが立っていて、中部地区最大の歓楽街で不夜城だったと言われています。バーが一二〇~一三〇軒も建ち並んでいて、数百人の女性が働き、その多くで米兵相手の売春がおこなわれていました。嘉手納基地第二ゲートから歩いて一五分ぐらいのところですね。いまは入口に公民館が建っていて、敷地内には集落に米軍が入ってきたら叩いて危険を知らせた「鐘」がぶらさがっています。これは砲弾の中身を抜いたものです。
 八重島も人為的につくられた街で、もともとは谷のような場所だったそうです。アメリカは表向きには米兵相手の売買春を禁じていましたが、この街ではそれがおこなわれていることは公然化していました。この公民館から下の方の一帯がかつて中部最大の特飲街でした。静まりかえった街ですね、いまは。

普久原 ここも嘉手納空軍基地のゲートとの位置関係や歴史を知らなければ、普通の住宅地にしか見えませんね。でも、『CLUBワルツ』のネオン看板が残っていたり辛うじて特飲街の痕跡がありますよ。
 あれ? 仲村さん、急に考え込まれてどうしたんですか?

米軍を警戒して作られた「鐘」。ガスボンベを逆さにつるして鐘として利用していた。

米軍を警戒して作られた「鐘」。ガスボンベをさかさにつるして鐘として利用していた。

「CLUBワルツ」のネオン看板の痕跡が残る。

「CLUBワルツ」のネオン看板の痕跡が残る。

仲村 当時の米兵になったつもりで、彼らの気分を考えながら歩いてたんだよ。実際、彼らが八重島に車で通ったのか、歩いて通ったのかとても気になります。性的衝動が起きて、「さぁ行こうぜ!」ってなったときに、どういうふうにして出向いたのかという部分まで想像して歩くと臨場感も湧いてくるからね。散歩がてら歩いているとムラムラした気分も萎えちゃうだろうから、おそらくワッと車で行ったんだろうけど。

普久原 僕には八重島入口で急ブレーキするトラックの後ろから飛び降りてきた数人の米兵が「GO!  GO!  GO!」と編成を組んで走っていくシーンが思い浮かびますね(笑)。

藤井 当時の新聞等を読むと実際にはジープなどの車で乗り付けたようです。センター街(BCストリート)だとゲートから歩いて来られますが、八重島だと距離がありますから。センター街に対して、ここは「裏街」と呼ばれていたそうです。米兵はこうした街で飲んで酔って民家に侵入して強姦をくり返していました。そうすると住民は、さっきも言ったガスボンベをさかさに吊した「鐘」をガンガン鳴らして部落内に危険を知らせた。そういう光景のほうが僕は目に浮かびますね。

仲村 生々しい光景が浮かんでくるよね。当時の沖縄は基地どころか性の植民地でもあった。住民にとっては恐怖の存在だったというわけだ。

普久原 現在八重島には一軒だけカフェがあります。純喫茶の方です。なぜか「カフェー」と延ばすと女性が給仕してくれる不純な方を指しますよね(笑)。でも、建物を見た限りでは、元カフェーを転用していると思います。

仲村 「響」という店だった。

藤井 すごいオーディオ設備でした。元Aサインバーを改装されたそうですね。店主は、「詳しくは知らないけれど、そうだったみたいだね。内装も天井等は撤去したけれど、カウンター下の床タイルなど、けっこう残して使っていますよ」と言ってました。この店のかつてのオーナーも奄美の人だったようですね。

普久原 塗料のある壁のラインから、以前の天井の位置がわかりますね。

カフェ「響」の外観。元Aサインバーだった建物を改装して営業している。

カフェ「響」の外観。元Aサインバーだった建物を改装して営業している。

あああ

カフェ「響」の内部。カウンター下のカラフルなタイルなどはAサインバー当時のまま。

藤井 この街は占領米兵の強姦事件や、女性を求めて住居侵入が後を絶たない社会背景があり、表向きは経済の活性化のための歓楽街ですが、本当は性の防波堤として売買春街がつくられたのです。八重島はその最大の街でしたが、性病の蔓延をくいとめることができず、衛生基準を定めたAサイン制度がどんどん厳しくなる中で、オフリミッツをくらったりしているうちに、すたれていき、センター通りの方に客は流れていきました。戦後の米軍のすさまじい性暴力をくいとめるために賑わったという、矛盾を凝縮したような街だった。蛇行した坂道の周囲を見ながら歩くとただの住宅地ですが、通りに面しているのはかつてバーやクラブだったと知ると複雑な気持ちになりますね。

 

中央パークアベニュー(センター通り)で佇む

 

仲村 コザの中央パークアベニューは、かつてBCストリートと呼ばれていたんですよ。BCはビジネスセンターの略なんです。センター通りとも呼ばれていた。

藤井 BCの名残は、BCスポーツという店や、ゲート横にあるBCオートという中古車屋に残ってますね。いまや昔からあるのは数軒になってしまったそうですけど。

普久原 ショッピングセンターと語感が似ているので、僕はずっと勘違いしていて、ビジネスセンターと呼ばれる建物が通り沿いにあったのだと思っていました。実際は、戦後のコザの都市計画の名称だったんですね。だからゲート通りを含めて区画整理された地域一帯を指す計画名だったものが、道の名前になった。文字通り、この道を中心に据えていたんでしょうね。

仲村 現在は、一番目立つ、道のつきあたりが「コリンザ」になっているけれど、復帰前は「CLUB CAVERN」という米兵向けのAサインバーだった。キーテナントの変遷で街路の活況や特徴がわかりそうだね。

普久原 戦後のビジネスセンター計画の当初から地域の核となるように位置づけられた場所だったことが、大通りのつきあたりという立地からも読み解けますね。

正面奥に見える建物が「コリンザ」

正面奥に見える建物が「コリンザ」。

藤井 BCストリートやその周辺は犯罪などに悩まされた時期があるからね。戦後や、朝鮮戦争のときやベトナム戦争のときは沖縄から米軍が出撃していったわけだけど、Aサインバーで酔っぱらった米兵が暴力事件を起こすのは日常茶飯事だった。この通りは米兵が入り浸るクラブやバーが軒を連ねていたから、働いている沖縄の女性や、フィリピンから働きにきている女性が被害にあったようです。
 中央パークアベニューは寂れてはいますがいまでも観光スポットです。ワイキキ通りは中央パークアベニューから一本道をそれたところですが、古い家や建物がたくさん残っています。ここにもクラブなどが建ち並んでいました。女給殺し事件現場はその付近にあります。僕はそのあたりを沖縄県警の元刑事と一緒に歩いたことがありますが、「この家も(売春で)摘発した」とか、そこらじゅうのごく普通の民家を指さしていうんです。

普久原 そういう歴史的背景を知ると、裏通りも一味違って見えてきますね。いまも、中央パークアベニューには刺繍店やワッペン屋など米軍基地との繋がりを感じる店が並んでいます。でも、当時のAサイン店で残っているのは「チャーリー多幸寿(たこす)」ぐらいですね。

藤井 Aサインレストランの「ニューヨークレストラン」もつぶれてしまった。ここがコザ観光の中心なのにこの寂れ方はすごいですよね。つきあたりのテナントビルの「コリンザ」もNPO関係の事務所が入っているだけで無人ビルみたいになってます。

仲村 「コリンザ」は一九九七年に開設されたショッピングモールです。長期低落傾向に歯止めをかけるための鳴り物入りの事業でしたが、天を仰ぎたくなるほど不発に終わりました。ハコモノでは街を活性化することができなかったわけですが、皮肉なことに、一方の那覇はハコモノだらけの新都心が莫大な経済効果と雇用効果を生みました。
 同じハコモノでこれほど明暗を分けた例も珍しい。コザは那覇に水をあけられる一方ですね。沖縄市観光協会の調査では沖縄市の入域観光客数は県全体の〇・五%程度でしかありません。フリークたちが熱狂したコザはいまや素通りスポットになりつつあります。
 基地で栄えた街は必ず寂れるといわれますが、奇しくもその典型例をコザがつくったことになりますね。

藤井 中央パークアベニューも330号線からの入口側のお店はまぁまぁ開いているけれど、中ほどから奥はシャッター通りと化しているのが切ないよね。地元の人に聞くとセンター通りと呼ばれていた当時も真ん中あたりで雰囲気が違っていて、パークアベニューのちょうど真ん中ぐらいにある交差点から上の方はライブハウスやクラブがびっしりあってあんまり行っちゃいけないって親から言われていたみたい。下の方は土産物屋とか刺繍屋とかレストランとかショップがあって、比較的「治安」がいいと言われていたみたいです。
 昔、センター通りの真ん中あたりの四つ角のところにかつて「寿」という料亭があって、そこが沖縄ロック界の重鎮・喜屋武幸雄さんの家です。いまはもうありませんが、最初はヤマト(日本)式の料亭で、あとになって売春店に看板替えしたそうです。
 いわゆるオキナワンロックは、最初はフィリピン人バンドばっかりだったけれど、だんだん沖縄のバンドが出てきたという流れなんですね。沖縄のグループは、一九六四年に川満勝弘さんや喜屋武幸雄が中心に結成した「ウィスパーズ」や翌年の糸数元治さんたちの「チャマーズ」などが最初です。喜屋武幸雄さんや宮永英一さんにインタビューしたことがあるけれど、オキナワンロックの生ける伝説ですね。一九七〇年代に入ると、「キャナビス」「コンディション・グリーン」「紫」「コトブキ」が四大ハードロックバンドですね。それで、近くのレコード屋に入ってそれらのバンドのCDを買おうとしたら、なんと「喜屋武マリー&MEDUSA」の一枚しかなかった。かつ、若い店員さんがよく知らなかった。

仲村 音楽も風化していくんですね。芥川賞作家の大城立裕氏が「コザはにぎやかな田舎だ」と称したこともあったけど、なにやらにぎやかさも失せてしまった感があるねえ。

普久原 すみません僕もその店員さんと同じくコザロックはほとんど知りません。

藤井 おいおい(笑)。ちなみに、喜屋武さんの家の数軒となりに、『オキナワの少年』(文春文庫)で沖縄初の芥川賞をとった東峰夫さんが住んでいたんです。そこも、やはり売春店をやっていたらしい。『オキナワの少年』の出だしはその宿に住み込みで働いている売春女性の日常が描かれていて、僕は中央パークアベニューの喫茶店で『オキナワの少年』を読み直したことがあります。同作品は映画化もされていますね。

 

謝苅の特飲街跡で幻の映画館を見つけた

 

普久原 せっかくですから、沖縄市の周囲の特飲街跡もめぐってみましょう。公文書館でAサインの許可店リストを見つけたのですが、気になる地名がいくつかありました。いまはあまり聞いたことないのだけれど、当時は栄えていたということだと思ったんです。幻の街を探す楽しみとしては行ってみる価値があるかもしれません。
 『那覇 戦後の都市復興と歓楽街』(フォレスト)の中で加藤政洋さんが、戦後沖縄の都市化の初期形態を特徴づけた三要素として市場、映画館(劇場)、歓楽街を挙げています。

藤井 確かに普天間もコザも特飲街の近くには必ず映画館跡があったね。

普久原 特飲街は米兵向けに形成した場所も多かったので、さらに、米軍基地のゲートとの位置関係も都市化に影響した要素として加えられるんじゃないかと思って、地図上に米軍基地と特飲街をプロットしてみました(下図「特飲街MAP Beta)。どの街も米軍基地との位置関係が重要だったことが伺えます。
 手始めに「JAGAL」という地名が気になって調べたのですが、「謝苅」(じゃーがる)という地域のことで、旧地名だったため探すのに苦労しました。国道58号線からコザ向けに県道24号線に入ったキャンプ桑江とキャンプフォスターに挟まれた北谷町吉原の一帯です。
 北谷といえば、海沿いの「美浜アメリカンビレッジ」や「ハンビータウン」を中心に栄えているイメージがあったのですが、本土復帰以前に栄えていたのはより丘陵地寄りだったようですね。

特飲街マップ

特飲街マップ

藤井 崖沿いの蛇行した道を登っていくと、かつてバーだったと思われる建物がかたまっている一角があり、バス停は「謝苅原」となってる。その前に本屋さんがあったんで聞いてみたら、このあたりは宿泊するところもかつてはたくさんあって、基地建設に携わった人たちが内地からも来ていたそうです。一帯は銃剣とブルドーザーによって米軍に土地を強制接収されて、崖沿いの土地に人々が住み着いたということですね。この町並みを見ていると、米軍に土地を奪われるということのリアリティーが垣間見えますね。

仲村 土地を収奪しただけでなく、米軍は土地の人々の生業まで奪ってしまった。それにともなって、基地の街としての特異な歴史が新たにはじまるわけです。時代の区分として「戦前と戦後」という言い方をしますが、沖縄では「銃剣とブルドーザーの前と後」という分け方も必要ですね。

普久原 その本屋さんの横に当時「ナポリ座」と呼ばれていた映画館跡がありましたね。といってもいまは建設会社になっていましたが、建物をそのまま使っていて一気に時代を引き戻される感じですね。當間早志さんと平良竜次さんの『沖縄・まぼろし映画館』(ボーダーインク)によればここは一九五〇年代のはじめから復帰前後まで営業していたらしく、封切りされてしばらく経った準新作を扱った「二番館」としてチャンバラ系を中心に上映していたみたいです。

藤井 こういう小規模な特飲街跡は独特の寂しさが漂っています。足をのばして、沖縄市周辺の地域をめぐってみるのもいいですね。

謝刈の映画館「ナポリ座」の跡。

謝刈の映画館「ナポリ座」の跡。

 

 

(第4回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年1月28日(木)掲載