写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2017.1.18

05「北関東」犯罪黙示録

「これから群馬の太田に行ってもらいたんだけど、大丈夫?」
 一九九九年一一月、写真週刊誌の専属カメラマンとなったばかりのこと、編集部から一本の電話がかかってきた。ホストが殺害される事件があったので、記者と一緒に急行し、容疑者と思われる同僚の男を見つけたら問答無用で写真を撮って欲しい、とのことだった。
 今となっては懐かしい記憶だが、初めての事件取材ということで、手を震わせながらフィルムをカメラバッグに詰め込み、あわてて編集部に向かった。
 関越道をひた走り、夕刻、都内から一時間半ほどで太田についた。東武伊勢崎線の太田駅から南に向かって延びる大通りの両側には、外国人パブや風俗店、居酒屋などの大小さまざまな店が並び、雑多なネオンの灯りが散乱していた。田園風景の中に突如現れた異景に、私は目を奪われた。
 容疑者の働いているホストクラブは、表通りから一本入った車一台が通れるほどの路地の中にあった。店舗は雑居ビルの二階で、記者のあとからカメラマンの私が続いた。店の扉には鍵が掛かっており、ホストクラブはその日、ついに営業することはなかった。
 取材が空振りに終わると、急に空腹感を覚えた。現場からほど近い場所にあった豚モツを食べさせる店に入った。クセのあるモツの味が口の中に広がると、先ほどまでの緊張感が緩んでいくのがわかった。

北関東で取材した多くの殺人事件

 以来五年ほど、写真週刊誌の専属カメラマンとして数多の事件取材をしたが、印象に残った事件の多くは、なぜか北関東で起きたものだった。古びた取材のノートをめくれば、それを裏打ちするように、北関東地域で発生したさまざまな事件記録が残っている。
 大久保清連続強姦殺人事件をご存じの方は多いだろう。あの事件からすでに四十年ほどの歳月が経過しているが、彼が暮らしていた町を訪れると、そこには今も事件の記憶が色濃く刻まれていた。
 マニラ保険金殺人事件。栃木県足利市に暮らしていた元郵便局員の和田恵一さんが二〇〇一年六月、マニラ湾で死体となって発見された。逮捕されたのは、和田さんにかけられていた総額三億五〇〇〇万円もの保険金の受取人である。犯人は群馬県内のフィリピンパブに和田さんを連日連夜誘い出した。いつしか和田さんは自らフィリピンパブに通うようになり、郵便局の仕事を辞めてしまう。その後、和田さんをマニラへと連れ出すと、フィリピン人の男と共謀して殺害したのだった。
 その半年前には、埼玉県本庄市で起きた本庄保険金詐欺事で八木茂死刑囚が逮捕されていた。
 二〇〇二年七月の群馬女子高生誘拐殺害事件。群馬県粕川村込皆戸に暮らしていた坂本正人が女子高生を誘拐し、赤城山麓の山林に連れ込んだうえ殺害。女子高生の家族に身代金を要求し、受け渡し場所に現れたところを逮捕された。坂本は高校中退後、親族の建設会社で働きはじめたが長続きせず、仕事を転々とする。一九九九年には妻子と離婚。原因は坂本のたび重なる家庭内暴力であった。常に金に困っていて、消費者金融からの借金は二〇〇万円ほどになり、定職に就いていなかった坂本は、両親に無心していた。そんなとき、一学期の終業式を終えて、友人たちとの集まりに向かっていた女子高生を視界にとらえた。道を尋ねるふりをして車へ無理やり押し込むと、暴行をはたらくため林道へと連れ込み殺害、その後身代金を要求したのだった。何の計画性もない欲望の赴くままの犯行であった。事件後の裁判で坂本には死刑判決が下され、二〇〇八年に刑が執行された。
 この事件には後日談があり、二〇一四年、坂本の父親が、食事を作らなかった妻に腹を立てて顔を踏みつけ殺すという事件を起こした。私は、坂本が誘拐殺人事件を起こした直後に父親に会っている。加害者の親族の中には、取材者に対して声を荒げる者も少なくなかったが、父親は終始冷静で、もの静かな印象を受けた。

写真週刊誌専属カメラマンになったわけ

 ここに記したのは、いずれも記事となった事件だが、それ以外にも、記事にはならなかったものの、たびたび現場へと通った事件はたくさんある。最近では様子が変わったようだが、私が在籍していた当時の写真週刊誌は、テレビや新聞が大きく取り上げないような小さな事件でも、編集部が興味を持てば記者やカメラマンを出した。そのうち記憶に残る事件の多くが、どういうわけか北関東に集中していたのである。
 足利事件などの未解決事件もふくめ、なぜ北関東では私だけでなく世の多くの人々から注目を集める事件が起きるのだろうか。それが、最初に浮かんだ素朴な疑問だった。
 私が本章で、北関東という土地で起きた殺人犯に絞って取り上げたいと考えたのは、やはり写真週刊誌に身を置いた五年間で数々の現場を歩いたことがきっかけだ。三つ子の魂百までではないが、出版界で初めて仕事という仕事をしたのは写真週刊誌の事件取材だった。当時の年齢は二七歳で、遅れてきた新人といっていいだろう。基本的に写真週刊誌カメラマンの仕事は昼夜関係無く、編集部から呼び出しがかかれば、すぐにでも家を出て現場へ向かわなければならない。まさに常在戦場である。それゆえに、大学を出たての二〇代前半のうちにカメラマンとなる人が多かった。それに比べると、私は少々ではあるが年を食っていた。
 寄り道をして写真週刊誌のカメラマンとなった背景には、大学中退後、ネパールに通いながら写真を撮り続けていたことがあった。ひとつの村に通いながら人々の日常に目を向けていたのだが、カメラだけで食っていくことはできず、旅館などで住み込みのバイトを数ヶ月続けては撮影に出るようなことを続けていた。
 住み込みのバイトで長野県内にある温泉に行ったときのこと、その温泉旅館で長年住み込みを続けている当時四〇代の男がいた。彼は、カメラマンを志していた。住み込みのバイトも二週間ほどが経った頃、その部屋に呼ばれた。私のような新参者のバイトは、旅館の外にあるプレハブ小屋で寝泊まりしていたが、古参の彼は旅館の部屋の一室を充てがわれている。和室の部屋に足を運ぶと、見せてくれたのは、カラーで撮られた朝霧ただよう渓谷の写真だった。
 雑誌に取り上げられたとか、なかったとか、普段は無口な男が声を少々上ずらせて語っている。確かに、いい写真だった。しかし、当時二〇代そこそこだった私は、なぜ彼が温泉旅館でバイトを続けるばかりで、カメラマンとして身を立てようとしないのか不思議だった。写真の美しさより、世の中への処し方にどうも納得がいかなかった。
 同時に、それは私自身にも跳ね返ってくることだった。結局、ネパールに通いながら撮り続けた写真で、私は世の中に認められることはなかった。ネパールで撮った写真には自信を持っていたが、このままネパールにこだわり続けたら、いつまでも一枚の写真を心の拠り所にして生きていかなければならなくなってしまうのではないか、と思った。そんな生き方を否定するわけではないが、自分にはできないと思った。世の中と関わり、仕事として写真を撮り、カネを稼ぎたいと、彼を見て心から思った。
 そして、行き場の無かった私がたまたま入り込めたのが、写真週刊誌の編集部だった。一年ほど前から記者として働いている友人がいて、彼からカメラマンを募集していると聞き、応募したのだ。
 写真デスクとの面接では、ただただやる気のあることをアピールした。はっきり言えば、長所はそれしかなかった。果たして、私の熱意が通じたのか、人が足りないからとりあえずカメラを持って現場へ行ける人間は入れておこうとデスクが判断したのかは、今となっては知るべくもないが、とにかく私は晴れて写真週刊誌のカメラマンとなったのだった。
 写真週刊誌といえば、芸能人の張り込みというイメージが強いが、堪え性の無い私はどうも張り込みの仕事に向かず、結果的に事件取材に回され続けた。事件は毎週、全国各地で起き、その現場に向かわなければならない。旅ばかりを続けてきた私には、さまざまな土地を訪ねることができるのは大きな魅力だった。

北関東への関心

 ただ、週刊誌の宿命で、一週間に満たない期間でひとつの取材を終え、また次の土地に行かねばならず、じっくり腰を落ち着けてその土地を調べることはなかなかできなかった。取材を続ければ続けるほど、それぞれの土地への未練が澱のように募っていった。その中でも、事件取材で訪れる機会が多かった北関東については、いつかゆっくり考察してみたいという思いがあった。
 北関東で凶悪事件が頻発するだなんて恣意的な判断だ、失礼なことを言うな、という人もいるだろう。たしかに、もしかすると私の思い込みなのかもしれない。だが、五年間この目と耳で触れた多くの事件とその土地から受けた印象が、私にこうささやくのだ。きっと何か理由があるはずだ、と。
 事件を起こすのは人間であり、機械のトラブルなどではない。人間は否が応にも、育った土地の風土の影響を受けずにはいられない。私の中に沈殿した答えのないもやもやに、いま改めて向き合ってみたい。
 それでは、北関東の歴史と風土に鑑みながら、事件を歩いていこう。

国定忠治と上州の歴史

 上州と呼ばれた群馬は江戸時代、土地の言葉で「遊び人」といわれるヤクザの本場だった。その代表的な人物は国定忠治であろう。
 国定忠治は群馬県佐位郡国定村で一八一〇年(文化七年)に生を受けた。現在の伊勢崎市である。農家の長男だったが跡は継がず、無宿人となった。農業と養蚕で家は栄え、家督を継いだ弟が忠治を経済的に支えたほどだった。忠治は、関東一の大親分と呼ばれた大前田英五郎のもとに身を寄せ、大前田の縄張(シマ)を譲り受ける。その後、当時大前田と並ぶ大親分島伊三郎を殺害したことで名をあげ一躍知られた存在になるとともに、関東八洲の治安維持を受け持っていた幕府の勘定奉行配下、関東取締出役、俗にいう八洲廻りから追われる身となる。
 当時、大きな賭場のあった赤城山を根城として各地に潜伏する忠治を、幕府はなかなか捕縛することができず、二十年近くにわたって、忠治は幕府の追っ手から逃げ続けた。その当時、天保の飢饉などで農村は疲弊していたが、私財を投げうち窮民を助けた忠治を見ていた人々は、彼を匿ったのだった。しかし、一八五〇年、中風(脳出血後の後遺症)を患い故郷で療養しているところを踏み込まれ、ついに忠治は捕まった。
 忠治のような博徒が大手を振って歩くことができたのは、江戸時代を通じ、他の地域と比べて、北関東に多くの人と金が流れ続けたからだ。現代でも、ヤクザの事務所があるのは、主に都会の繁華街である。金と人が集まるからだ。どの時代も、この原理原則に変わりはない。
 北関東の上州には、江戸と日光(東照宮)を結ぶ日光例幣使街道、江戸と新潟を結ぶ三国街道、さらには江戸と京都を結ぶ中山道などの街道が通い、交通の要衝となっていた。街道筋には宿場町ができ、自然と人や金が集まってくる。さらに、江戸時代の中期からは養蚕が盛んになり、農民たちが経済力をつけていった。すると、街道筋ばかりでなく、人が集まる寺社仏閣のまわりにも賭場ができた。そうした賭場を仕切っていたのが、忠治などの今でいうヤクザであった。

コメ本位制からカネ本位制へ

 上州における養蚕の歴史は奈良時代に遡る。日本において江戸時代まで重用された繊維は、品質の良い中国産の絹だった。江戸時代に入り日本が鎖国し、中国絹の輸入が減少すると、国内で良質の絹を調達する必要性が出てきた。少しずつ養蚕が盛んになっていくなかで、群馬・桐生産の絹が中山道などの街道や利根川の水運を利用し、京都や江戸などに運ばれるようになっていく。江戸中期の正徳年間に入ると、幕府が絹の生産を奨励したことや、養蚕に関する書物が著されたことなどが、群馬でますます養蚕が広まるきっかけとなった。それまで養蚕は農家の赤字を補填する副次的な産業にすぎなかったが、正徳年間以降は、当地の農家の年収の半分を稼ぎ出すほどまでになった。
 幕末になると生糸は横浜に運ばれ、主要な輸出品目のひとつとなったのは、よく知られるところである。
 江戸時代中期まで、米作にはあまり向かない上州の土地で厳しい生活を強いられてきた農民たちの暮らしは、養蚕によって変貌した。どういうことかというと、米本位であった江戸時代の農村において、コメではなくカネによって社会がまわりはじめたのである。後の日本社会で起こることが、一足先に上州を含む北関東で起きていた。
 しぜん北関東では、土地や農業に縛られずとも、養蚕や街道筋での駕籠かきなど、日雇いの仕事が増え、各地から無宿人たちが流れ込む土壌ができあがっていく。上州の日光例幣使街道沿いにある玉村宿では、一三〇五軒あった農家のうち三九一軒が江戸時代末期までに棄農したとの記録が残っている。「潰れ百姓」と呼ばれた彼らの多くは無宿人となり、幕府からすると、治安を揺るがす不安分子となったのである。潰れ百姓の存在は、米本位の政策を続けていた幕府の根幹を揺るがすものだった。逆の見方をすれば、新たな社会のあり方を求める民衆の目覚めといってもいい。どちらにせよ、古い秩序が崩れていくわけだから、各地で不穏な状況が生まれていくことになる。
 遊び人や無宿人の誕生には、幕府の支配構造もまた寄与していた。上州は江戸を守るうえでの要衝であり、ひとつの藩に治めさせたのではなく、複数の小さな藩や幕府の直轄領である天領、寺社領が入り組む支配体制になっていた。それゆえ、関東取締出役が一八一〇年に設けられるまで、ひとつの支配地域を越えてしまえば、罪を犯しても容易に逃れることができた。縦割り幕藩体制ゆえの落とし穴である。そうした土地柄もあって、お上の権威を領民たちは信用せず、かえって国定忠治のような遊び人のほうが風紀を取り締まることができ、人々の信用も篤かった。
 このようなことから、さまざまな無宿人たちが集う権力のエアポケットが北関東の各地に存在するようになった。
 江戸時代、養蚕によってもたらされた人々の意識の変化が、詐欺や金にまつわる殺人などを生み出す根っこにあるのではないか。農地や家といったものに縛られず、身ひとつで世の中をわたっていくという、ある種、刹那的な感性ともいうべき何かが。北関東に頻発する陰惨な犯罪は、見えない糸で江戸時代と結ばれているように思えてならない。

愛犬家殺人事件と埼玉、群馬

「透明なボディーにしてやる」
 埼玉愛犬家殺人事件で死刑が確定した関根元死刑囚が吐いた言葉だ。犬の取引を巡るトラブルなどから四人を殺害した犯人である。あくまでも立証されたケースが四人というだけで、実際にはさらに多くの人間を殺しているといもいわれ、殺人鬼という言葉がしっくりとくる男だ。
 恐るべきはその手口で、犬を薬殺するための毒薬硝酸ストリキニーネを獣医から処方してもらい、栄養剤だと偽り飲ませ殺害したあと、共犯者が暮らしていた群馬県片品村に運び、そこで死体を解体。内臓、脳みそ、目玉、肉をきれいに削ぎ取り、骨は庭で焼却し灰に、内臓や肉は切り刻んで川に流した。冒頭の言葉通り、まさしく人体を跡形もなく消してしまったのだ。
 関根元がこの犯罪方法のヒントを得たのは、生まれ故郷の秩父でアルバイトをしていたラーメン屋の店主を殺害し放火したときに、焼け跡から発見された死体が焼け焦げていたため証拠を検出することができず、事件化されなかったことにあるという。

 埼玉県熊谷市、刈り入れの終わった水田の中に一軒の廃屋がある。今にも雨粒を降り落としそうなどんよりとした雲が、その不気味さに拍車をかけていた。廃墟となったその木造平屋建ての前の道は、近所の人々の散歩コースになっているようで、犬を連れた老人やトレーニーングウェア姿の人が通り過ぎていく。田園地帯に忽然と姿を現すこの廃屋は、四方を柵で囲まれていることもあって、周囲の景色には溶け込んでおらず、異質さが際立っている。
 かつてこの廃墟は関根元が売りさばく犬を繁殖させるための犬舎だった。熊谷市内では「アフリカケンネル」というペットショップを経営し、シベリアンハスキーを日本に広めるなど、業界では有名な人物だった。
 ただその商売方法は阿漕で、安く仕入れた犬を高額で売りつけるのは普通のことで、犬を売ってから、その飼い主の家に忍び込んで犬の餌に毒を盛って殺し、改めて別の犬を買わせるなど、やりたい放題だった。そんな悪事の殿堂が目の前にある廃墟なのだ。いまや主は死刑を待つ身であり、二度とこの場所に戻ってくることはない。それにしても、この不気味さは何なのだろう。関根元という男が犯した罪が残酷きわまりないこともあり、被害者の怨念や関根自身の狂気が今も巣食っているような気配がある。
 廃墟の柵の一角に穴が開いていたので、私は主なき悪の殿堂に足を踏み入れてみた。建物のガラスは割れ、室内にも雑草が生い茂り、荒れ放題である。かつて建物の屋根に掲げていた《犬・狼》と書かれた看板が残っていた。犬だけではなく、狼と犬をかけあわせたウルフドッグも販売していたという。
 雑誌に広告を出すばかりでなく、ドッグショーにも頻繁に顔を出していた関根は、業界で顔も広く、「アフリカケンネル」の名前もよく知られていた。殺害した四人のうち三人は犬の販売のトラブルによるもので、殺人事件に至らないまでも客とのトラブルは絶えなかった。
「うちの妻が、事件が明るみに出る前に、チワワをアフリカケンネルで買ったんです。応対してくれたのは関根でした。愛想がよくて、世話の仕方を丁寧に教えてくれたものですから、信用できるなと思ったんですね。ところが、買って一ヶ月もしないうちに犬が死んでしまった。これはおかしいということで、苦情を言いに行ったんです。そうしたら、売るときはとはうって変わって、『何の文句があるんだ』と、とても同じ人物とは思えない高圧的な態度で、威圧してきました。それ以上話にはならないと思って、こちらから引き下がったんです。それからしばらくして、あの事件が起きたんですよ」
 この証言をしてくれたのは、熊谷市に暮らしていた私の親しい人物である。とにかく関根の商売にトラブルはついて回ったが、本人はどこ吹く風であった。 
 関根が逮捕された最初の犯罪を犯したきっかけは、一九九三年四月に会社役員の男性に雌雄で数十万円の犬を一〇〇〇万円で売ったことにあった。バブル期にシベリアンハスキーの販売で大儲けをした関根だったが、バブル崩壊後に販売は低迷。さらには繁殖施設の建設費などで一億円以上の借金を抱え込むようになり、巧妙な話術を駆使して、市場価格とかけ離れた法外な値段で犬を売り飛ばすようになっていた。
 関根から言われるままに犬を買った男性は、のちに買った犬の価値がわかると、関根に金を返すよう要求した。借金まみれの関根に、返す現金はない。金を返すと言って男性を呼び出し、栄養ドリンクにストリキニーネを混ぜたものを飲ませ殺害した。
 遺体をそのままにしていたら当然足がつく。男性の遺体を、当時アフリカケンネルの従業員として働いていた共犯者の家があった群馬県片品村に運んだ。そこで証拠隠滅を図り、先に記した方法で処理したのだった。
 殺害後、犬の売買を巡るトラブルについて知っていた男性の遺族から、行方について問われると、関根は暴力団員の男性を伴って遺族と会い、事件の隠蔽をこころみる。しかし、関根が男性を殺害していると気がついた暴力団員は、関根から金を強請ろうとした。そこで関根は、一九九三年七月、暴力団員とその運転手だった若者を前と同じ手段で殺害、処理した。
 四人目の死者は、従業員の母親である女性だ。彼女は、関根から犬の購入をもちかけられ、七〇〇万円で購入。さらにはアフリカケンネルの役員にするからと、三〇〇万円を騙し取られた。関根は彼女と肉体関係を持ち、調子の良いことを吹き込んでその気にさせたのだ。あまりに高額な犬の値段に気がついたことと、役員とは名ばかりで、金だけ払わされたことに疑念を持った女性が金の返済を求めたことにより、関根はふたたび殺害を決行する。しかも、殺害後には屍姦したとまで、共犯者が記した著書には記されている。関根は性欲も旺盛で、アフリカケンネルの犬舎で働いていた若い女性従業員たちのすべてと肉体関係を持ったという。
 犬舎には、錆びついた犬の檻も残されていた。営業当時、関根は犬舎の掃除を欠かさず、犬の躾もゆき届いていたそうだ。荒れ果てた犬舎には、犬の餌となる肉が保存されていた冷蔵庫も残っていた。犬のブリーダーとしては優秀だったのかもしれないが、その心の根っこには金儲けのことしかなかっただろうか。
 犬舎に隣接するログハウスは、訪ねてきた客に応対する事務所だった。中には暖炉があったという話だがそれらしきものは見えず、床が抜けていて足を踏み入れることすらできなかった。
 この犬舎と事務所は、関根の悪の殿堂であったと同時に、従業員たちにとっては、生きる糧を得る場所でもあった。朽ち果てた建物を見つめながら、顔も知らぬ従業員たちのことが心をよぎった。
 犬舎を出たときにはすでに陽が暮れ、薄気味悪い廃屋も闇に包まれようとしていた。
 それにしても、人の肉を切り、抉り、骨まで燃やして跡形も無くすという、こうして記すだけでもおぞましい犯罪者は如何にして生まれたかのか。男のまわりで姿を消した者は、立件された以外にも三〇人以上にのぼるという。もし関根が犯人だとしたら、全員が透明なボディーになっているわけだ。
 おそらく犯罪の兆しは、幼少期には芽吹いていたことだろう。関根は青年時代、故郷のラーメン屋で店主を殺害、火をつけたことが殺人の事始めであると共犯者に語っている。しかしその事件は立件されていない。
 私の足は自然と男の故郷である秩父へと向かっていた。

関根が生まれた秩父の町

 山あいをぬって吹きつける寒風が首元をすぎるたびに、体は自然と固くなる。秩父の街の中心部を南北に走る国道二九九号線は、関東平野を抜ける北風の通り道なのだ。
 国道からは、街並みの向こうに山容が崩れた武甲山が見える。伝説ではヤマトタケルが東征の際、武甲山を目にしてその姿に感嘆し兜を納めたというが、江戸時代にはじまった石灰岩の採掘によって、かつての勇壮だった姿を想像することは難しい。昭和の高度経済成長期に入ると、石灰岩の採掘は山頂付近にまで達し、標高が三〇メートルほど低くなってしまったという。
 武甲山には明治時代に合祠されるまで、山岳修験とも結びつく蔵王権現が鎮座していた。古代より信仰を集めてきた山が、人間の欲望により姿を変えてしまったのだ。己の欲望のために人肉を切り刻むことも厭わなかった関根元。武甲山の山並みを生み出した日本の社会と関根元の心の闇が重なって見えてしまうのは、私だけだろうか。
 ここ埼玉県秩父市は、江戸時代から養蚕で栄え、生糸の生産地であるとともに、絹織物でも有名だった。高度経済成長期に化学繊維が出回るまでは、たいそう賑やかだったのだろう。昭和三三年に売春防止法が施行されるまで、現在では住宅街となっている下町(もとまち)の一角には、赤線があった。
 関根の父親は、下町から歩いて一〇分ほどの商店街で下駄屋を営んでいた。さっそく足を運んでみたが、道路の両側にぽつり、ぽつりと店があるだけだった。地方で見慣れた景色となっているシャッター通りですらなく、商店街だった面影も感じさせない景色となっていた。
 更地になっていたり、建て替えられて新しい住宅となっていたりで、関根のことを知っている人物を見つけるには、今も開いている商店を訪ねるほかない。花屋を訪ねると、女性がひとりで店番をしていた。
「犬の販売をしていて、殺人事件を起こした関根元について取材して歩いている者なんですが、何かご記憶はないでしょうか」
 関根の名前を聞いて、女性は昔を懐かしむような口調で話した。
「いい人だったよ。大きい声で話しながら、よくこの通りを歩いていたね。昔は威勢の良い人が多かったから。どこで変わっちゃったんだろうね」
 同じ商店街で暮らしていた関根は、そのころ二〇代だったという。今から四〇年ほどの前のことだ。「いい人だった」というのは、何か助けてもらったわけではないけれど、人当たりもよくて、不快な印象を持ったことがなかったからだという。
 その花屋から一〇〇メートルほど離れた洋品店には、初老の男性の姿があった。
「元ちゃんのお父さんもお母さんも、いい人だったよ。お父さんは腕のいい下駄職人だったね。もう店はないけどさ」
 下駄屋は、この店から南に二〇メートルほどの場所にあったという。今も当時と同じような間取りの長屋が通りに残っているというので、後ほど訪ねることにして、話を続けた。
「元ちゃんとは十歳ぐらい年が離れていたから、そんなに頻繁に会った記憶はないんだけど、小さいころは遊んだりしたね。面倒見のいいところもあったよ。よく人の相談にも乗っていたみたいだし。ただ調子のいいところもあったけどね。そんでも、まさかあんな事件を起こすとはねぇ」
 昭和一七(一九四二)年生まれの関根は、幼いときからヤンチャで、中学時代にはヤクザの使い走りをしていた。中学卒業後は家業を手伝っていたが長く続かず、秩父駅前にあるラーメン屋の出前持ちになる。そのラーメン屋は火事に遭い、店主が焼死している。このとき店主を殺害し火をつけたのが関根だと言われているが、事件にはなっていない。ラーメン店が火事で消えたあとは、プロパンガス営業の職を得た。
「口が上手くて商才があったんだろうね、プロパンガスの営業は順調だったらしいよ。ちょうどそのころから、長屋の裏で犬を飼い出したんだ。口八丁手八丁で、どんどん犬を増やしていったね。売った犬をしばらくしたら客の家から盗んできて、平気な顔して店でまた売る。当然、客は文句を言うけど、『犬なんて似てるんだ』のひと言ですます。ヤクザの組にもいたぐらいだから貫禄があって、客も黙っちゃうんだよ。有名なのは、プードルにピンク色のスプレーをかけて、珍しいプードルだよって売ってたことだよね」
 二〇代のころからはじめた犬の販売で、関根は金回りもよくなった。すると、夜な夜な地元のスナックを渡り歩いては女遊びをした。連続殺人の共犯で逮捕された妻の博子と結婚するまで、秩父時代に三度の結婚をしている。
「何番目のか忘れたけど、えらいきれいな奥さんをもらったことがあったんですよ。どうやって結婚したのか不思議だったね」
 地元では鼻つまみ者だったという報道もあったが、現地で話を聞くかぎりでは、少々ヤンチャな人のいい兄ちゃんという見方をされていたようだ。関根だけではなく、ひとりの人間にはさまざまな顔があるわけで、地元の人々の目に映った関根の姿もまた、彼の一部なのである。
 詐欺そのものの商売で評判を落としたこともあったが、関根は長屋ではじめた犬販売で成功し、ここから車で五分ほどの大野原という場所に移り、さらにビジネスを拡大させる。犬の販売だけでなく、ライオンやベンガル虎などの猛獣を飼育するなどして世間の目を引いた。ライオンの飼育は話題となり、当時テレビにも出演している。その番組の中で、関根は海外に出たことすらないのに、アラスカやケニアなど世界を股にかけて動物たちと関わってきたと、ホラ話を吹聴したという。
 大野原に移ってからは、犬や動物の販売をしながら金貸しもしていた。借金の取り立てをヤクザから頼まれることもあり、その金を使い込んだ関根は秩父にいられなくなり、次に拠点としたのが事件の舞台となった熊谷だった。熊谷で開いた犬の販売店で、客だった風間博子と出会う。裕福な家庭の出だったこともあり、関根はそこに目をつけて近づいたのだろう。犬好きだった彼女は、関根と出会ったことによって死刑囚に身を落とすことになる。

長屋と商店街の記憶

 関根が暮らしていたのと同じ間取りの長屋に足を運んでみた。長屋は壊される運命なのだろう、引き戸には板が打ってあり、わずかに開いている戸の間から内部が見えた。戸の先は土間になっていて、上がり框の向こうに六畳ほどの部屋が二間、縦に並んでいた。この間取りを見るかぎり、父親は下駄を並べて販売していたのではなく、修理の請負いを中心に仕事をしていたのかもしれない。
 父親は群馬県の新田郡からこの地へ来て、下駄屋を開いた。戦前まで下駄は日常生活に欠かせないものだったが、戦後生活が西洋化し、昭和三〇年代にゴム製のサンダルなどが普及するようになると、急激にその生産量を減らしていき、下駄屋の多くは町から消えていった。関根の父親が開いていた下駄屋も昭和三〇年代後半に店を閉じている。
 当時一〇代後半から二〇歳前後の関根は、先細っていく父親の家業をその目に焼きつけていたはずだ。もし仮に、下駄屋稼業が経済的に旨味のあるものだったら、彼は父親の跡を継いでいたかもしれない。しかし、時代がそれを許さなかった。生活ぶりは苦しく、赤貧を味わった経験が、後年事件を引き起こした背景というべき、金への執着へと繋がっているのかもしれない。

 私は関根と三十歳以上年が離れているが、彼と似た景色を見たことがある。
 私の実家は商店街の中で肉屋を経営している。高校に上がる前まで商店街の景気はよく、常に通りは人で溢れていたが、平成一二(二〇〇〇)年、私が三〇歳のときに大店法(大規模小売店舗立地法)が改正され、近所に大型スーパーができると商店街は一気に廃れた。かつては二〇軒ほどの商店があったが、今では三軒しか営業していない。日本の小売店の経営が成り立たなくなっていく様を、この目に焼きつけた。大型スーパーが開店した日、店にはさっぱり客が来ず、普段はほとんど座る暇もなく動き回って働いていた両親がため息をつきながらテレビを見ている姿には、少なからず心が痛んだ。
 結局、私も家業を継ぐことなく、根無し草の生活を続けている。取材にことよせ、極私的な興味から文章を綴ることによって人の心を傷つけながらも、お縄になることなく生活をしている。
 関根という男の生き方に同情の余地はないが、彼の犯した罪というのは、時代と風土が密接に結びついて産み落とされたものであることは間違いない。私には、そう思える。

 

 

(第5回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2017年1月31日(火)掲載