写真・八木澤高明

殺人風土記 八木澤高明

2016.12.28

04五島列島のキリシタン

 昼過ぎに長崎港を出たフェリーは、両岸から岸が迫り、うなぎの寝床のように細長い長崎湾を進んでいく。潮風に晒され、曇りガラスのようにくすんだ窓越しに海を見やると、白波ひとつ立っていないべた凪だった。
 私は飛行機がどうも苦手で、旅の移動手段としては、長距離列車か船がベストだと思っている。初めて海外に出た二〇歳のころ、バンコクへ行くのに船便はないものかと調べたほどだ。中国や韓国、ロシアへ向かうフェリーはあったものの、かつて南洋と呼ばれた東南アジアとを結ぶフェリーは存在しなかった。
 ただ、ひとたびインドネシアやフィリピンなどへ渡れば、二日も三日も海原を走るフェリーの便があり、幾度となく乗船した。大きな頭陀袋いっぱいに荷物を積め込んだ現地の人々でごった返す埠頭は、赤子の泣き声やら、客の荷物を船に運び込んで日銭を稼ぐ男たちの怒声が響きわたり、そこに立っているだけで血潮がざわめくような高揚感があった。
 一方、いま私の眼前に広がる景色は、喧騒とは無縁の穏やかな空気に包まれていたが、海原を走っていくことに変わりはなく、心なしか晴れやかな気分になってくる。
 外海(そとめ)の角力灘(すもうなだ)に出ると、小川を流れる笹舟といっては大袈裟だが、フェリーは上に下に揺れ始めた。海の様相も、先ほどまでの凪いだ水面とは打ってかわって、大きく波立っている。この荒れた角力灘の海景色を見ていると、室町時代末期から江戸時代初めにかけて、南洋から日本をめざしたポルトガルやスペインの船乗りたちにとって、長崎湾がいかに天然の良港に思えたかがよくわかる。
 フェリーは、五島列島の中通島(なかどおりじま)へ向かっていた。島全体が十字架のような形をしており、隠れキリシタンの島としても知られる。
 この島を訪ねようと思ったのは、昭和三〇年代に五人を殺害し、さらには十数件の詐欺や窃盗をはたらきながら九州から北海道まで逃避行を重ね、昭和三九(一九六四)年に逮捕された西口彰(あきら)の故郷だったからである。

大胆かつ無節操な殺人、強盗、詐欺

 大胆にも弁護士や大学教授を名乗り、巧みに人を騙しての犯罪行脚だった。
 最初の犯行は、福岡県で犯した二つの強盗殺人である。一九六三年一〇月一九日、国鉄日豊本線苅田駅西側の山道で専売公社職員が殺害されているのが発見された。さらに同日、田川郡香春町の仲哀峠でも運転手が殺害されていた。
 西口は行きつけの理容店の女主人が金を必要としていると知り、彼女の気を引くため、現金を奪うために二人を殺害したのだった。西口には妻子がいたが、元ストリッパーの女性と同棲しながら、理容店の女主人にも手を出そうとした末の犯行であった。
 事件前に被害者と一緒にいる西口の姿が目撃されていたこともあり、西口が容疑者として浮上する。
 全国指名手配された西口は、強盗殺人から一週間後、香川県の高松と岡山県の宇野を結んでいた宇高連絡船のデッキに靴と遺書を残して、投身自殺を偽装する。強盗殺人で奪った約二七万円を使い果たすと、広島で、養護施設にテレビを寄付するといって電気屋に運ばせたものを質屋に売りさばき、逃走資金とする。
 広島から西口は東に向かう。一一月一五日、京都大学教授と偽り宿泊していた浜松市内の連れ込み宿で旅館経営者の母と娘を殺害し、奪った貴金属など約一四万円相当を質入れする。一二月、静岡から首都圏に姿を現した西口は、逮捕された息子のために保釈金を持参し拘置所に面会に来ていた母親などから、五万円を奪い逃走。次は北に向かった。福島のいわき市の弁護士から弁護士バッジなどを盗むと、北海道の苫小牧に現れ、投宿した旅館で女中に東大卒の弁護士と名乗り、福島で奪った弁護士バッジを見せびらかした。翌日、道内の雑貨商で、逮捕されている息子の弁護士だと名乗り、一万五〇〇〇円を騙し取る。
 再び首都圏へと戻ると、都内で弁護料を詐取し、栃木県内では旅館の無銭飲食、千葉県では弁護士から寸借詐欺。一二月二〇日、巣鴨のアパートにて弁護士を強殺、現金、時計、洋服などを奪う。年が明けて一九六四年の元旦、西口が現れたのは九州・熊本、玉名市の教誨師宅だった。そこで何を企てていたのか、事を起こす前、その家の一〇歳の女の子から、近くの派出所に貼ってあった人相書きにそっくりだと見破られ、二ヶ月半に及ぶ犯罪行脚は終わりを迎えた。
 日本の犯罪史を振り返っても、このように全国を股にかけて大小さまざまな犯罪を立て続けに犯した者は見当たらない。全国の警察が連携して、ひとりの犯罪者を追いかけた最初の事件でもあった。

信仰を隠して生きたキリシタンの末裔

 西口彰の生まれは大阪だが、本籍地は長崎県五島列島中通島である。一家はカトリックの信者で西口も幼いときに洗礼を受けている。敬虔な信者であった父親の影響で、中学は福岡のミッションスクールに通うが二年で中退し、その後窃盗、詐欺を繰り返し、逮捕されるまで刑務所には四回入った。
 逃亡犯というと、ドヤ街などを転々としながら、世の中の陽の当たらぬ場所をひっそりと歩いているかのような印象を受けるが、この西口彰という男は、社会的地位の高い大学教授や弁護士を名乗り、世間を堂々と歩いた。弁護士バッジを盗み、それを身につけていたことから、周囲もなんら疑うことなく彼を信頼してしまった。彼と関わった人たちは、最後に出会った女児を除いて誰も、人を殺めた者だと見破ることはできなかった。

 西口一家の信仰であるカトリックは、歴史を辿っていけば、室町、戦国、安土桃山時代を経て九州、畿内を中心に全国へと広まったが、江戸時代に入ると禁教令が出され、信仰を棄てない者たちは情け容赦なく取り締まられ、刑場の露と消えた。五島列島においても、戦国時代に広まったカトリックは、受難の時を過ごさざるを得なかった。信仰を隠し続けた者たちもいれば、見てくれだけは仏教徒になった者もいた。
 結論を急ぐわけではないが、私には、詐欺を重ねた西口の生き方は、身を偽るということにおいて、信仰を隠し世の中の流れに従うことを強いられた彼の先祖たちの姿と、二重写しに見えるような気がしてならない。さんざん煮え湯を飲まされてきた先祖たちは、仏像に手を合わせてキリスト像を踏みさえすれば疑いを解いてやると言われた。殺人者が弁護士に扮するという一見すると喜劇のような逃避行は、こうした権力者が持つ滑稽さを自ら体現しているかのようにも思えてくる。
 西口の犯罪は、風土と密接に繋がったものなのではないだろうか。
 そう思いながら海原を眺めていると、いつの間にか白波が消え、凪いだ海の向こうに黒い島影が見えてきた。中通島の奈良尾港に着いたのだ。

葡萄酒の密造を禁じる看板

 中通島を十字架にたとえると、奈良尾港は縦軸の一番下の部分で、宿をとった青方(あおかた)の町はちょうど十字の中心部分に相当する。港からバスに乗ると、すぐに山道に入った。車道は海を見下ろすように山の中腹を走っていて、カーブを曲がるたびに、午後の斜光に照らされた海原はその顔色を変えていく。
 景色に目を奪われているうちに視界が開け、青方の町に着いた。バスの停留所で思わぬものを見つけた。木のベンチが置かれた小さな建物の壁に貼られた時刻表、その横に釘で打ち付けられている一枚の看板がそれだ。いまではほとんど見かけないホーロー引きで、ところどころに赤茶けた錆びが浮かんでいた。数十年は時を経ていることだろう。そこに書かれている文言が、この島の風土を痛々しいほどに物語っていた。

 “葡萄でお酒をつくってはいけません 税務署”

 葡萄でお酒といえば、何のことか一目瞭然、ワインである。キリスト教の信仰とワインは切ってもきれない関係だ。「最後の晩餐」において、イエス・キリストは、十二人の弟子たちに、パンを自分の肉、ワインを自分の血だと言って、ともに食した。以来キリスト教徒にとって、パンとワインは信仰に欠かせないものとなった。
 そもそも日本人が葡萄で酒をつくりはじめたのは、室町時代にキリスト教が伝来して以降のことである。中央アジア原産の葡萄は奈良時代に日本に入っていたが、生食されていただけで、酒の醸造には使われなかった。諸説あるが、日本で初めてワインが飲まれたのは一四六六年のことで、京都相国寺鹿苑院の僧侶が記した「蔭凉軒日録」に南蛮酒を飲んだとの記述がある。さらに時代が下ると、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教を進めるうえで、当時珍陀(ちんた)と呼ばれたワインを振る舞ったという記録も見られる。
 バスの停留所に打ち付けられた看板は、密造酒を作ることを禁じるだけのものだが、葡萄とわざわざ原料を特定しており、中通島にキリスト教徒がいかに多かったかを物語っている。おそらくこの看板は戦後すぐのものだろう。戦後の混乱期の密造酒といって頭に浮かぶのは、日本各地の朝鮮部落において作られたどぶろくである。もしかしたら、当時島に住んでいたキリスト教の信者たちも、朝鮮の人々と同じように、ただ信仰のためだけでなく、生活の糧を得るために密売したのかもしれない。

カクレキリシタンと潜伏キリシタン

 宿は青方の町の中心部を流れる釣道川の目の前にある木造の旅館だった。二階の和室で旅装を解いてから、西口が育った地区を訪ねてみることにした。島の北部、国の重要文化財として知られている青砂ヶ浦天主堂からほど近い集落である。
 宿の庭に、旅館の主人の姿があった。道順を訪ねるついでに、西口の話をふってみた。
「何のことかと思ったら、ずいぶん古い事件だね。名前は知っとるけど、どこの生まれだかまでは知りません。もう関係者も生きてなかろうに」
 呆れたような口調で言うのだった。私が集落の名を告げると、
「ほー、それはまた。ここから行くならバスしかなかですよ。だけど、そんなに本数がなかですから、よかったら、そこの軽トラを使いなさい」 
 中通島に来るまで、私は熊本県の天草を歩いてきた。かつて東南アジアを中心に海を渡った日本人娼婦「からゆきさん」の痕跡を求め、とある村で聞き込みの取材をしていると、一見の取材者である私をわざわざ家に招き入れ、昼食をご馳走してくれるということが、一度ならずあった。暑い夏の盛りということもあり、それは、冷んやりとした素麺であった。
 天草だけでなく、ここ五島でも、良い意味で他人との垣根の低さが感じられる。それはかつて、天草や五島列島が日本の片隅ではなく、玄関口として開いていて、さまざまな客人たちを受け入れてきた歴史と無縁ではないだろう。
「ガソリンだけ元のとおりにしといたらいいから、好きに使って」
 主人の好意に甘えさせてもらい、軽トラで島を回ることにした。エンジンをかける前に、さらにもうひとつ、カクレキリシタンの存在について尋ねてみた。
「いまもポツポツ、おるよ。監視の厳しい時代には、仏教や神道の中にまぎれておったけど、隠れる必要がなくなってから、集落を離れた人が多いな。道路を走っていけば、家がポツン、ポツンと建っているのが見えるから。そういうところが、カクレの家だよ」
 主人は、カクレキリシタンのことをカクレと言った。江戸時代迫害にあったキリシタンたちは、大きく二つに分かれる。カトリック本来の教義が、潜伏しているうちに忘れられていき、仏教や神道と融合した独特の信仰を持つようになった者たちをカクレキリシタンという。一方で、カトリックの教義を護り続け、明治になって禁教が解かれたとき、その信仰を公にした者たちを潜伏キリシタンという。
 カクレキリシタンの多くは、禁教が解かれてもカトリックには戻らず、独自の信仰に留まり続けた。西口の一家は、明治時代にカトリックとなっているから潜伏キリシタンということになる。

西口彰が通った教会

 軽トラを操って、私は島を北上した。宿の主人が言ったように、ところどころ民家が孤立して建っている。三〇分ほど走って青砂ヶ浦の教会に着いたときには、遠く東シナ海の海原に陽が沈もうとしていた。キリシタンの信仰の固さを表すようなレンガ造りの教会が、西日に照らされていた。明治時代に建てられたこの教会は、潜伏キリシタンたちの信仰の象徴である。幼い頃の西口もここへ通った。
 それにしても、と思ってしまう。三百年の迫害に耐え、なぜこの地区の人々は信仰を護り続けたのだろうか。キリスト教が戦国時代に広まったのは、九州の大名たちが、当時南蛮と呼ばれたヨーロッパの技術や文化を手に入れるための手段として利用した、というのがひとつの定説である。それともうひとつ、戦乱の時代であり、弱い立場の庶民が不安に苛まれていたのも大きな理由であろう。人々は、現実の苦しみからの救済を、既存の仏教や神道からは感じ取ることができなかった。キリスト教は神の下に誰もが平等であり、神を信じれば死後に平安が訪れるといった教えは、人々の気持ちを掴んだ。
 その教義が幕府の権威を貶めるものであったことから、キリスト教は弾圧の対象となったわけだが、人々の心に宿ったものは、どんな苛烈な手段によっても消し去ることはできなかったのである。当時の人々の暮らしは、信仰を心の礎にしなければならないほど過酷だったということか。
 今日、江戸幕府の政治機構は日本の政治システムにその形を留めていないが、当時のキリシタンたちの信仰は、青砂ヶ浦教会などに今も残り続けている。
 政治体制とは脆い建造物のようなもので、人々の魂がこもったものの前では、かくもはかないものだということを青砂ヶ浦教会は示している。
 この地区では、多くの潜伏キリシタンが生死を繰り返してきたわけだが、そのうちのひとりが罪深き西口である。
 教会に軽トラックを止め、西口についての記憶を誰かに尋ねようと歩いてみた。教会の目の前の海辺で、犬の散歩をしている初老の男性と出会った。
「西口彰の事件のことを調べているんです」
 一瞬きょとんとした男は、しばし間をおいて口を開いた。
「あー、何でまた。かなり昔のことですね。それなら、そこの集落の出身だって聞いていますが」
 男は、背後に迫った鬱蒼と常緑樹が生い茂る斜面を指差した。長細い平屋の家が数軒見える。すでに陽が暮れかけ、家からは光が漏れていた。
「あそこに行けば、何か知ってる人がおるでしょう」
 そう言うと、男は鼻息の荒い犬を連れて去っていった。私は、明日あの集落を訪ねることにして、宿に戻ることにした。

老婆とオロナミンC

 翌日、再び軽トラを借りて青砂ヶ浦教会からほど近い集落を訪ねた。中通島では、わずかな平坦な土地だけでなく、これから向かおうとしている集落と同じように、山の斜面にも民家が点在している。
 車道に軽トラを止めて、海を背にしながら細い山道を登った。道の両側には段々畑が広がっている。幾重にも重なった畑のひとつに、白い頰被りをして背骨の曲がった老婆の姿があった。この老婆の他に、人の姿は無い。容赦なく降り注ぐ夏の陽の下で、視界の先の老婆が何だか幻のような気がしてくる。畔を歩いて近づいていくと、雑草を抜いているようだった。
「こんにちは」
 私の声に老婆が振り返った。きっと何十年と、陽の下で畑仕事をしてきたのであろう。その顔は、この島の赤土のような色をしていた。
「こんにちは。あら、どちらからですか?」
 いきなり現れた私の姿に少し驚いたようだったが、口調は凪いだ海のように穏やかだ。小さな集落ゆえに、この老婆が西口の親族である可能性もあったが、包み隠さず西口の生家のあった場所が知りたいと伝えた。
「わざわざ東京から? よう来たね、こんな山の中へ。私が嫁いで来たときには、もうここにはおらんかったけど、行ってみるか?」
 老婆は畑仕事の手を休めて、着いてこいと言うと、背は丸まっているものの軽い足取りで私が来た道を引き返し、斜面の中ほどにある家へと向かった。西口の生家跡は雑草が生い茂っていて、辿り着くには鎌が必要なのだという。老婆はわざわざそれを取りに家まで戻ってくれたのだ。
「これどうぞ」
 鎌を片手に家の中から出てくると、冷えたオロナミンCを一本、振舞ってくれた。
「さぁ、行こうかね」
 私が飲み終わるのを見届けて、老婆は山道を登りはじめた。百メートルほど登ると畑がなくなり、道が雑草に覆われた。右手に持った鎌で老婆が草を切り払うと、獣道のようなか細い轍が、草いきれの匂いとともに顔を出す。
「マムシが出るから、音を立てていかないと危なかよ」
 それにしても、畑仕事を中断し、飲み物を振る舞い、ついさっき顔を合わせたばかりの見ず知らずの男のために時間を割いてくれる彼女の優しさには、感謝の念しか浮かばない。
 夏草の群れをかきわけて進み続けると、かつて家があったことの証である石段が目に入ってきた。その石段を上がると、家一軒分ほどの空き地が広がっていた。
「ここですよ」
 空き地の一角には木の板やトタンが重ねられていた。解体された西口の生家の部材である。その先には、最近増えたというイノシシを捕えるための檻が仕掛けてあった。
「悪さばかりしおる。だけど、あいつらは頭がよくて、なかなか入らんのよ。うまいこと罠のサツマイモだけ食っていきおる」
 憎々しげに言い、仕事があるからと畑へ戻っていった。
 草むらの中に消えゆく老婆の背に目をやると、夏草の間から海が見えた。草がなければ、もっと眺めはいいにちがいない。西口の瞼にも刻み込まれていた景色だ。
 眼下の湾は奈摩湾と呼ばれ、両岸を岬に囲まれた天然の良港である。いまも波ひとつ立っていない。鄙びた漁港があるだけの湾だが、その歴史は古く、平安時代には中国大陸をめざす遣唐使船が風待ちをした。さらに時代が下ると、倭冦の拠点にもなったという。
 しばし西口の生家跡で佇んでいると、奈摩湾の向こうに夕日が沈みはじめた。日が暮れてしまったら道なき道を戻るのも難儀なことなので、老婆が鎌で切り開いてくれた道を辿ることにした。
 畑には、すでに彼女の姿は無かった。赤銅色に染まった奈摩湾を眺めながら先ほどの家の前まで行き、塀越しに「ありがとうございました」と声をかけた。
「いま、風呂に入っとるから。気をつけていきなさい」

入植キリシタンの二重苦

 西口が育った集落をはじめ、五島列島に今日まで信仰が根強く残っているのは、江戸時代に同じ長崎県の外海地方から、キリシタンの入植者がやってきたのがきっかけともいわれる。
 外海地方は、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となった土地だ。ここに暮らす人々がキリシタンとなったのは戦国時代のことだ。当時の領主大村純忠が熱心な信者となり、領内の神社や寺を破却して、領民たちにキリシタンになることを強いた。純忠は信仰心だけでなく、南蛮貿易の旨味も意識したうえでキリシタンとなったわけだが、デウスの下、誰もが平等であり、祈りを捧げれば、極楽ならぬ天国へ行けるというシンプルな教えは、戦乱の世の人々の心を打った。
 江戸時代中期以降、五島列島では大虫害による飢饉が起き、農村の人口が激減する事態にみまわれた。その窮地を打開しようと、五島列島全体を治める肥前福江藩八代藩主五島盛運が一七九六年、大村藩からの移住を奨励した。その際、信仰を頑なに護ってきた大村のキリシタンたちの間で、五島に行けば信仰の自由があるという噂が広まり、約三千人の人々が海を渡った。そうした人々の中に西口の祖先がいた。
 しかし、海の果てに極楽を夢見た人々の希望は脆くも崩れた。漁獲量の多い入り江やわずかばかりの平地にはすでに先住者がいて、キリシタンたちには、山間にある猫の額ほどの土地か、漁業にもあまり向かない海辺の土地しか残されていなかった。中通島においては、西口の生家のあった場所のように、斜面に集落を築かざるを得なかった。
 五島に渡ったキリシタンたちが、このような言葉を残している。

“五島は極楽、来てみて地獄”

 西口の暮らした集落に田んぼはなく、必然的に農業だけでは食っていけず、人々はときに海に出てイワシなどの小魚を捕り、半農半漁の生活を送った。そんな厳しい生活を慰めたのが、キリスト教であった。
 ミッションスクールを中退しているものの、犯罪行脚を重ねる合間にも教会に通うなど、西口もまた敬虔なカトリック信者だった。
 最初に窃盗罪で保護処分を受けたのは一九四一年六月、一六歳のときだった。日本が国家を上げてアメリカとの戦争の道へ突き進む半年前のことだ。その翌年には詐欺罪で少年刑務所に服役している。国家が天皇というアイコンの下に国民を団結させようとするなか、その秩序に抗うかのように彼の犯罪歴はスタートした。
 その後、「もはや戦後ではない」と誰もが高度経済成長を謳歌するさなかにも、無軌道に犯罪を重ねた。まるで何かに飢えたかのように犯罪を続ける西口の人生を俯瞰してみると、そこには、世間の常識であるとか枠組みを超越した独自の精神世界が存在しているように思えてならない。生来、自分の拠りどころだった「神こそが絶対である」というカトリックの信条を独自に解釈し、どんな罪を犯そうが神によって裁かれ、赦されるとでも考えたのだろうか。

都上りの歌

 翌日も軽トラを借りて、西口が育った集落へとアクセルを踏んだ。集落からほど近い山にキリスト教徒の墓地跡があると主人から聞いていたので、向かってみることにした。
 車を降りてから、墓地へは急峻な山道を一五分ほどかけて徒歩で登っていく。山道の両側は常緑樹の森だったが、目をこらしてみると、石垣がところどころに残されている。外海地方から移住してきたキリシタンの集落跡だ。過疎化が進み、入植以前の森に戻ってしまったのである。昨日目にした西口の生家跡とだぶって見えた。新たな極楽を求めて、人々は何処へ旅立ってしまったのだろうか。
 昼なお薄暗い樹林を抜けると、約一〇〇メートル四方の開けた斜面に出た。この斜面が墓地だったようだ。眼下には澄んだ奈摩湾が見渡せた。数柱の十字架を残して墓は移転したらしく、石で区切られた区画だけが往時の面影を残している。西口の祖先もこの墓地に埋葬されていたはずだが、いまとなっては何の手がかりもない。集落から人が減り、なにかと不便ということで海辺に移されたのだろう。

 墓地跡を訪ねたあと、西口が幼い頃に通っていた青砂ヶ浦教会に立ち寄った。教会の前まで来ると、聖書の一節がオルガンの伴奏にのって聞こえてきた

“幸せな人神を畏れ、主の道を歩む人”

 エルサレムへ巡礼する人々の「都上りの歌」と呼ばれる詩篇の一節(一二八篇)である。捕囚生活を終えたイスラエルの民衆が、神を畏れて暮らすことが幸せな生き方であると謳うこの詩は、まさしく、この島で生きてきたキリシタンたちの生き様を表した言葉といってもいい。
 もちろん、西口もこの詩を知っていただろうし、吟じたことだろう。西口が犯罪行脚を続けることができたのは、逆説的にその信仰心の篤さゆえであったのかもしれない。
 宗教への傾斜が独自の世界を作り出し、世の中の規範である法律の垣根を越えていくラディカルな力の源泉となった。キリスト教が広まった戦国時代には、一向宗の信徒らが封建領主に対抗し、国を支配することもあった。現代でもオウム真理教によるテロなどが記憶に新しく、宗教が引き起こす事件は日本史だけを振り返っても枚挙にいとまがない。

老婆の塩

 中通島を去る前日、私は再び西口の生家跡を訪ねた。相変わらずイノシシを捕らえる罠の檻は空っぽで、アブがしつこく顔のまわりを飛び回った。
 その帰り、世話になったお礼の気持ちを伝えたくて老婆の家へ足を運んだ。「こんにちは」と声をかけるが反応がない。どこかへ出かけているのかと思いつつ、もう一度呼びかけると、家の中から物音がした。
「昼寝をしとったが」
 老婆がひょっこり顔を出した。手には初めて会ったときと同じように、オロナミンCが握られていた。それまでどこか重たい気持ちでいた私だったが、思わず心が和んだ。受け取ったオロナミンCをひと息で飲み干し、礼を言うと、彼女は小さなビニール袋を差し出した。
「これを持っていきなさい」
 見ると、そこには真っ白い塩が入っていた。道中の安全を願う彼女の心配りが嬉しかった。私は再び頭を垂れて老婆に別れを告げると、塩の入ったビニール袋をカバンの中に仕舞い、山道をゆっくり下りはじめた。
 目の前に広がる奈摩湾は、今日も変わらず穏やかな表情を見せていた。

 

 

(第4回・了)
※この続きは、2017年春刊行予定の単行本でお読みいただけます

 

この連載は隔週更新でお届けします。
次回2017年1月9日(月)掲載