わずか7日間だけ昭和64年だった平成元(1989)年の11月、横浜市磯子区で坂本堤弁護士一家殺害事件が起きた。平成6(1994)年には松本サリン事件、そしてその翌年には首都のど真ん中を狙った地下鉄サリン事件が勃発。
昭和の終わりから平成にかけて、立て続けに日本社会を震撼させたのが、オウム真理教だった。首謀者である教祖麻原彰晃は、山梨県西八代郡上九一色村にあった第6サティアンで平成7(1995)年5月16日に逮捕され、11年後の2006年に死刑が確定。葛飾区小菅(こすげ)の東京拘置所で刑場の露と消えたのはその12年後、18年7月6日のことだった。
上九一色村の取材をするにあたって、麻原が囚われの身として暮らした通称「小菅」をふたたび訪ねてみた。刑務所にいるのは刑に服す受刑者だが、未決拘禁者(被疑者)や死刑確定者を拘留するのがこの東京拘置所である。
東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を小菅駅で降りると、ひときわ巨大な威容をたたえた建造物が目に飛び込んでくる。それが「小菅」だ。
今なお、この地へ “聖地巡礼” に訪れる旧オウムの信者たちがいるという噂を耳にした。もし付近にそんな巡礼者がいれば、話を聞いてみたかった。
駅を出て歩きはじめると、まず驚いたのは拘置所周辺の変貌ぶりだ。多くは宅地なのだが、かつては住宅街と拘置所の間にコンクリート製の巨大な壁が築かれていたのに、いまはその影もない。当時、私は何度も足を運んでいたのでその印象は強烈だった。「小菅」がいかに世間と隔絶された場所であるかを、物言わぬ壁が雄弁に語っていた。
その壁がきれいさっぱり取り払われ、人が簡単に飛び越えられる茶色いフェンスに変わっている。ちょっとした大学の新設キャンパスに見えなくもない。収容される被告らの居住棟が高層階へ移ったため、昔からの高い壁も無意味化したらしい。当時からの雰囲気を残しているのは、拘置所門前の面会者が差し入れを買う小さな店ぐらいだった。
差し入れ屋のある通りにはコンビニもあって、その隣は芝生が敷かれた公園になっていた。私はコンビニで淹れ立てのコーヒーを買い求め、公園のベンチに座りながら目の前に建つ拘置所の巨大ビルを眺めた。
拘置所から道路を挟んだ向かい側には、瀟洒な真新しいマンションが建ち並び、そこから出てきた母子が電動自転車で走り去っていく。
麻原のような凶悪犯(死刑囚)が日々を送る拘置所と、夢や希望を携えたニューファミリーの暮らすマンションがたかだか100メートルほどの至近距離で、遮るものなく向き合っている。
私が初めて「小菅」を訪ねたのは2000年代初頭のことだ。
平成9(1997)年3月9日に渋谷・円山町で発生した東電OL殺害事件の容疑者として逮捕され、のちに無罪が確定したネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリーさんに取材をするため面会に赴いたのだ。以後、多いときで週に一度くらいは足を運んだろうか。
あのころは周囲にコンビニもマンションもなく、住民らしき人の姿もほとんど見かけなかった。高い壁の存在とも相まって、文字どおり陸の孤島のような空気に包まれていた。
当時を知る者からすると、まさかその目の前にコンビニや公園ができ、遊んでいる子どもたちの声を聞きながら、のんびりとコーヒーを飲んで「小菅」を見上げる日が来るなんて、想像すらつかなかった。
そんな明るい雰囲気もあってか、 “巡礼者” と思しき人物に遭遇することはなかった。ところが、拘置所に向けてカメラを向けていたらひとりの警備員がどこからともなく近づいてきた。監視カメラに映ったのだろう。やはりこの地は故ある死刑囚らを留め置く場所なのだなと、おかげでリアルに再認識することができた。
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私がオウム真理教という存在を意識したのは今から36 年ほど前、高校2年生のときだった。あの歌が最初の遭遇だったように思う。
「ショーコー、ショーコー、ショコ、ショコ、ショーコー、アサハラショーコー」
平成2(1990)年2月の衆院選に立候補した麻原彰晃はじめ25名が選挙活動中に歌い、踊っていた「彰晃マーチ」。オウム真理教というと、当時街頭で、またテレビ報道などで流れていたあの奇妙な音色と歌詞が、多くの人と同じく私の原体験だ。
麻原は真理党なる党を立ち上げ、億単位の金をつぎ込み選挙戦に挑んだが、結果は全員落選。党首麻原の得票数もわずか1783票という大惨敗に終わった。
票が集まらなかったことについて、麻原はまったく正当な評価ではなく国家による陰謀だと主張。以後、独善的な傾向を強めていくことになる。武装化とテロリズムへ走るきっかけは、選挙という表側の世界でイニシアチブを握る戦いに敗北したことにあった。
竹内精一氏・提供
そして選挙後の新たなオウム真理教の拠点として、日本じゅうにその名を知られることになったのが、現在は山梨県南都留郡富士河口湖町となっている富士山の麓にある上九一色村だった。
じつは、オウム真理教が上九一色村の富士ヶ嶺地区に初めて土地を取得したのは選挙の一年前、平成元(1989)年のことだ。
戦後から平成に至る上九一色村の歴史が記された『富士ヶ嶺酪農50年史』によれば、オウム真理教は平成7(1995)年までに4万8184平方メートルの土地を取得し、サティアンと呼ばれる教団施設30数棟を建てている。
当時人口が1700人だった村に、多いときには800人もの信者が集まり、暮らしていた。94年の松本サリン事件、95年の地下鉄サリン事件で使われた化学兵器サリンは、この地の第7サティアンで製造され、同年6月に麻原彰晃が逮捕されたのは第6サティアンの隠し部屋だった。
オウムが取得した土地の登記簿を法務局で調べてみると、そのほとんどは農地や原野だった。原野であれば、手続きせずとも造成さえすればすぐに宅地利用することができる。教団施設を建設するには好都合だったにちがいない。ちなみに第6サティアンのあった場所の地目も、調べてみると元は原野で、平成4(1992)年に買い取ったオウム真理教へ所有権が移っていた。
これらの土地はみな、戦後の富士ヶ嶺開拓によって切り拓かれた大地だ。オウムは持ち主が村を離れた土地に目をつけ、相場よりもはるかに高い値段で買い上げながら、一大拠点を築いていった。
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第6サティアン跡へ行ってみた。目印すらない場所なのでわかりづらく何度か道を行き来した後、車を降りて見渡してみる。目の前に広がるのは、茫々と茂って揺れるススキのほかには何もない原野だった。オウム騒動から30年を超える歳月が流れ、オウムの信者や建物は痕跡すら残さず消え去り、戦後開拓者らの手で拓かれた手つかずの原野へと戻ったのだった。
サティアン跡に群生するススキの向こうには、雪を被った富士山が顔を出していた。斜光を浴びて透き通ったススキの穂が、何ともいえぬ風情を漂わせている。
すぐそばには車が数台止められるほどのスペースがあり、宅配便の軽自動車が1台止まっていた。この場所について何か知っていないか尋ねようと近寄ってみたが、運転席に人の姿がない。窓越しに車内を覗くと、後部の荷物を積むスペースで運転手と思われる男性が午睡をとっていた。
今から30年前には警視庁などによる強制捜査で日本じゅうの注目が集まり、騒然となった場所だが、今やその面影すら霧消し作業員の休憩場所となっていた。
第6サティアン跡の前を通る細い道路を走っていくと、民家と牛舎が視界に入ってきた。当時からこの地にあったとすれば、第6サティアンにもっとも近い場所で暮らしていた住民にちがいない。
牛舎を訪ねてみると、入り口にある部屋にひとりの男性の姿があった。
「こんにちは」
私が声をかけると、ツナギの作業着に長靴を履いた男性が外に出てきてくれた。荒井茂さんという方だ。
当時から酪農を営んでいたと語る荒井さんに、麻原の最後の棲家となった第6サティアンができたときの印象を尋ねた。
「オウムが来る前、ここは滅多に車なんて通らなかったですから。それが、とつぜん得体の知れない車が出入りするようになった。それだけじゃなくて、信者もこのあたりをかなり歩くようになりました。もともと、あそこのサティアンへ通じる道は私の家の前にあったんですけど、あまりに多くの車や人が通るもんだから、もうウチでは危なくてふつうに使えなくなってしまって。しかたがないから自分の土地を提供して、役場に新しい道をつくってもらったんです。彼らにそっちを通ってもらうために。それが、今あなたの通ってきた道ですよ」
道をあらたに造成せねばならないほど、オウムの信者の往来は激しかったのだ。さらに建設工事も昼夜を問わずおこなわれたという。
「もう24時間ずっとですね。最初はプレハブ小屋みたいだなと思って見ていたら、いつの間にかビルが建っていたんです。サティアンができると同時に、オウムのマントラを唱える声が中から聞こえてくるようになりました。とにかく当時は多くの信者が行き来してましたね」
麻原の死刑が執行されたあと、「小菅」のまわりを信者たちが巡礼していることが話題になっていたが、上九一色ではどうだったのだろうか。
「オウムがいなくなって数年は、信者だった人の両親だとかいう人とかがちょくちょく来ていましたが、最近ではほとんど訪ねてくる人はいないですね。元どおりの村にやっとなりました」
「第6サティアンだった土地の、前の持ち主はどなただったかご存じですか?」
「具体的なことまではわかりませんけど、もともとはこの地域の人が持っていた土地が転売、転売となって県外の人の手に渡り、それをオウムが入手したんですよ。ここは富士山も綺麗に見えますし、宅地でもない。しかも土地は広いですからね。彼らにはうってつけだったんでしょう」
「それにしても、住民の方にしてみれば迷惑な話ですよね」
「そうですね。最初、富士宮に総本部ができたときは、白装束の信者の人たちを見ても、変な新興宗教だなぐらいにしか思っていませんでした。でも、いつの間にかここの土地を入手して、何台ものトラックで資材を運んでいくつもビルを建てた。それでもまさかね、化学兵器や武器をつくっているとは思いもしませんよ」
富士の麓の荒れた原野にいきなり現れた巨大建造物。荒井さんの口から出た「ビル」という言葉から、当時それが彼にいかに異様なコントラストを感じさせたか想像がつく。
ほどなくして荒井さんは、自宅から指呼(しこ)の間にある第6サティアン周辺で不審な動きをする信者たちの動きを目にするようになる。
「なぜか風船なようなものを飛ばして、落ちた場所へ信者が走って拾いにいくんです。ほかにも防毒マスクをして車を運転していたり、不気味な動きが目立つようになってきました。驚いたのは強制捜査のあとですよ。いろんなことが明るみになったじゃないですか。防毒マスクや風船を飛ばしていたのは、そういう実験をしていたんだとわかってびっくりしましたね」
「3月22日の強制捜査の日は、どうされていたんですか?」
「オウムには武器があるかもしれないから避難してくださいと、事前に警察から言われました。それで捜査が入る前日に、親戚の家へ避難したんですよ。それでも、朝と夕方は牛たちの搾乳をしないわけにはいけない。それでかなり早朝に私だけいったん車で戻ってきたんです。恐るおそる搾乳していると、牛舎の上をこれまで見たこともない何十機という数のヘリコプーターがぶんぶん飛んでいました。マスコミが空から撮影していたんだと思いますけど、これはえらいことになったなと。それから、機動隊の車がどんどんサティアンへ続く道を走っていきました。最後には、取材のハイヤーや報道車両が何十台とこの道に駐車していましたよ。強制捜査からしばらくはもうマスコミでいっぱい。ハイヤーの運転手さんは毎日ヒマでやることがないから、まだ小さかったうちの子どもたちを車で学校まで送ってくれたりしましたね。ちょうど新学期のはじまる時期だったから。今じゃあ笑い話になるけど、当時は大変だったですよ」
30年前に起きた大事件と麻原逮捕が近づく日々の裏舞台を、荒井さんはある種軽妙な語り口で話してくれた。時の流れは彼の心に宿っていたとんでもない悲劇をいつしか、哀しい喜劇に変えたのかもしれない。
荒井さんは強制捜査が入る前まで、いわばご近所さんだった麻原彰晃の姿もたびたび目にしていたという――
(第2回・了)
本連載は、基本的に隔週更新です。
次回:2025年3月14日(金)予定