消えた上九一色村 八木澤高明

2025.12.16

05 米軍接収の運命が分けた景色

 

 

 上九一色村は、戦後に入植した開拓団の尽力によって今日の姿となった。しかし、開拓がはじまって6年が経った昭和28(1953)年には、米軍がこの地を接収してあらたな基地をつくるという話が持ち上がっている。現在の富士ヶ嶺一帯を演習場として利用したい、ついては全住民立ち退いてくれないかと、米軍側から申し入れがあったのだ――。

 一方、上九一色村から程近い富士山北麓の梨ヶ原地区ではどうだったか。日中戦争の前年につくられた日本陸軍の北富士演習場を大戦後接収した米軍は、前述のとおり昭和25(1950)年にキャンプ・マックネアを開設。その2年後には、日米安全保障条約に基づく国家間の賃貸借契約締結を受け、この地は正式に駐留軍へ提供されることとなった。米軍が上九一色村への進出を検討していたのと同時期の話だ。結果、梨ヶ原には今なお自衛隊と米軍が使用する演習場があり、そこには富士ヶ嶺とはまったく異なる景色が広がっている。
 戦後もだいぶ経って生まれた私のような世代にとって、富士山周辺はスキー場やサファリパーク、遊園地などが点在する観光地というイメージが強い。しかし、実際には日本陸軍からはじまり米軍へと引き継がれ、自衛隊に至るまで広大な基地として長く利用されてきた歴史がある。
 さかのぼればその端緒は、まだ明治時代、日清戦争が終わった翌年(1896年)御殿場にできた陸軍の富士裾野演習場に行き着く。現在、御殿場といえば雄大な富士山の眺めはもとより、アウトレットモールなどの大型商業施設が人気の観光地だが、そんな御殿場が今日の姿となるきっかけのひとつも旧日本軍にあったのだ。富国強兵の時代、砲兵隊の射撃場として利用され、その後師団規模の演習場として使われるようになっていった。ちなみに、地図を見ればわかる通り、昭和11(1936)年に梨ヶ原にできた北富士演習場は、そのすぐ北側に位置している。

 明治22(1889)年に開業した御殿場駅の周辺は、富士登山客向けの食堂や旅館などで賑わいをみせていたが、その7年後に陸軍の演習場ができると誕生したのが遊廓だ。5人の娼妓を置く鈴吉楼にはじまる「新天地」と呼ばれたこの色街は、現在では新宿ゴールデン街のような、趣きのあるスナックやバーなどが軒を連ねる渋い飲屋街となっている。 
 戦前は日本軍の師団や連隊の駐屯地、軍港などが全国各地に存在したが、大規模な軍隊がいる土地には決まってこうした遊廓が置かれた。兵士たちに性病が蔓延し、戦闘力が低下することを恐れたからだ。同時に、兵士たちの欲求不満を解消する目的もあった。軍隊と駐屯地との関係は、その後太平洋戦争の戦域が拡大するとともに慰安所が置かれたことへ繋がっていく。 

 日本の敗戦により戦争が終わると御殿場の演習場にも米軍が進駐し、多くの米兵たちが娼婦たちを物色しに新天地へやってきた。その最盛期は朝鮮戦争のころ。さながらチンドン屋のような色彩の洋服を身につけ、人前もかまわず大声でしゃべり、笑い狂う女たちの姿を付近の住民たちはバスの中によく見かけたという。終戦時には戦前からあった料亭が2軒残っているだけだったが、米軍の進駐が御殿場を劇的に変えた。娼婦に部屋を貸す民家が続々と現れ、新天地には横文字の看板や特殊飲食店が、3日に一軒の勢いで増えていった。米兵たちの喧嘩や狼藉を見回る憲兵(MP)の姿もあったそうだ。米軍の存在が人々の暮らしだけでなく、街の様相もまた変えたのだ。

 冒頭に戻って、富士ヶ嶺の景色をもこのように変えていたかもしれない幻の米軍接収について話そう。米軍は富士ヶ嶺を接収する際の三つの条件を住民たちに提示した。ひとつ目は、地区全員が集団で離農すること。ふたつ目は、立ち退き、離農した者には土地代及び施設補償料を払う。三つ目は、転入植希望者には、入植地を斡旋するというものだった。
 この提案があった時点で、富士ヶ嶺の開拓は大きな岐路に立っていた。入植以来、作付けしてきた多くの雑穀が台風の被害を繰り返し受け、昭和28(1953)年からは2年連続の低温被害と風被害で作物が全滅。甚大な被害にさらされた人々のなかには、富士ヶ嶺での入植に見切りをつける者も現れ、地区全体が沈滞ムードに包まれていた。
 米軍からの提案は、少なからず地区の人々に動揺をもたらした。当初は、条件付き立ち退き派と絶対反対派で意見が分かれた。その後、数度にわたって地区のなかで話し合いがもたれ、最後は絶対反対で意見がまとまったため、最終的に基地接収の話は立ち消えとなったのだ。

 一部には離農者が出たものの、基地接収問題は富士ヶ嶺で今後どのように生計を立てていくべきか、人々がより深く考える機会ともなった。これまでの大根や馬鈴薯、雑穀などを中心とする農業においては、大根のブランド化などで一定の成功を収めたが、気候災害の発生など不安定な側面は土地柄、どうしても絶えず付きまとうからだ。
 そこで地区の人々から、災害にも比較的強い大根の栽培に注力しつつ、牧草を栽培し酪農を本格的に推し進めるべきだという意見が出てきた。こうして酪農の振興が既定路線となると、当時富士茂農協で組合長をしていた竹内精一さんらの尽力などもあり、少しずつではあったが営農の基盤が確立されていった。

 一方で、米軍に接収された演習場のある梨ヶ原地域に住む人々は、その後どのように暮らしを立てたのか。地元の人からこんな話を聞いた。
「梨ヶ原の山中湖に近いあたりは冬の冷え込みは北海道並みで、今でもマイナス15度から20度になります。軒先からツララが垂れますから。おまけに土は富士山の火山灰層だから農作物を作るにも不向きな場所で。梨ヶ原という土地の名は、何も採れない “無しヶ原” から来てるんですよ」
 裏が取れないため地名の由来については措くとして、梨ヶ原もまた富士ヶ嶺と同じく、農業を営むには厳しい環境であることはよくわかった。
 実際に自分の足で梨ヶ原を歩いてみようと考えた私は、一冊の雑誌を入手した。ちょうど富士ヶ嶺が基地接収問題で揺れていた昭和28(1953)年に発行された「アサヒグラフ」だ。「富士演習地界隈」というタイトルがついた記事には、山中湖や御殿場などとともに梨ヶ原も取り上げられている。
 それによれば、梨ヶ原は戦後満州からの開拓団が入るまでは荒涼たる原野で、富士ヶ嶺と同じく米は育たず、収穫できるのは雑穀だけだったらしい。入植した44戸の人々は農家として生きていこうと奮闘したが、物理的な限界もあったのか、最後には自分たちの開拓した土地を米軍から接収される運命に翻弄された。昭和20(1950)年、北富士演習場をとりまく約17850ヘクタールもの地域が、あらたに米軍の手へ渡ったのだ。
 その際、梨ヶ原の入植者で他の土地への入植を希望する者には、茨城、神奈川、千葉などに土地が国から用意された。しかし現実とは、しばしば想像を超えたところへ着地するものだ。
 土地と家を接収された彼らは、演習場からほど近い土地にみずから建てた六畳一間のバラック小屋で暮らすようになった。これでは瘦せた土地での困難な生活状況は何も変わらないのに、いったいなぜ。入植した44戸のうち42戸までが、娼婦であるパンパンに自分たちのバラックの部屋を貸したのだ。彼女たちが取る客は、すぐ隣のキャンプにいる米兵たち。六畳の座敷を二畳ずつ三間に区切り、二間を貸して賃料を得ていたという。
 誌面には、バラックの全景と区切られた部屋に座るパンパンの写真も掲載されていた。家主とパンパンの部屋は薄い板一枚で仕切られているだけ。米兵とパンパンの生々しいやりとりも筒抜けだった。

 当時の梨ヶ原の様子については、神崎清の『売春』(現代史出版会)にも記されている。それによると、粗末な掘っ立て小屋の狭い部屋にパンパンたちがあふれ返った光景は、富士山周辺のどの米軍キャンプ付近と比べても悲惨なものだったという。もとは満州や朝鮮から帰国した開拓民たちの夢が詰まった集落だったはずなのに、困難な農耕と米軍基地の拡張という現実の壁に押され、流れ着いた場所で売春に染まってしまった。希望とともにあった開拓の面影はどこにもないと神崎は書いている。
 ひとたび富士山周辺で米兵相手の売春が商売になるとわかるや、専門の業者が東京の立川や町田、横浜、横須賀方面からパンパンと客引きを連れ、大挙乗り込んできた。神崎は、そうした場所で働いていた女たちの実態についても記している。

〈パンパンハウスではたらく女の相場は、ショートタイムが七〇〇円から一〇〇〇円、オールナイトが一五〇〇円から三〇〇〇円で、かせぎ高も二万円から五万円までの段階があるが、平均三万円というとこらしい。玉割は四分六分で、三万円のうち一万八〇〇〇円がハウスの主人のふところにはいり、女の手には一万二〇〇〇円しかのこらない。ハウスの女は、月一〇〇〇円の遊興飲食税(山梨県)と一〇〇円の接客税(中野村)のほかに二〇〇円の白百合会費を払い借金や病気の治療費などをひかれると、さいごは手たたきになってしまう。(中略)ひどい搾取ぶりだけれども、ここの特殊性として、演習にくる部隊と部隊の交替のあいだに、一週間あるいは半月のブランクができ無収入の状態がつづくことがあるため、搾取を承知のうえで、ハウスの主人に依存をせざるをえなくなるのである〉

 1940年代から50年代にかけての物価は現在の約10分の1ほどだから、ここに書かれている金額を10倍すれば、パンパンたちの手取りがおよそわかる。部隊の交替もあり、かならずしも客が常時やってくるわけではないことを考えれば、不安定なシノギだったはずだ。
 梨ヶ原を歩いてみると、自衛隊演習場のゲートのあたりに人家はまったくない。ゲートから下って国道一三八号線のほうへ進んでいくと、林の中に朽ち果てた小さな空き家がポツンと立っていた。「アサヒグラフ」の写真で見たバラック小屋よりはましな作りのようだが、お世辞にも普通の家とすら言えない代物だ。この小屋もかつて、パンパンたちに貸されたのだろうか。

 もし、あのとき富士ヶ嶺が米軍基地となっていたら、入植者たちの中には同じように米兵相手に商売した者もきっといたはずだ。ただ、米兵がいなくなった瞬間、商売は終わる。あるいは今日の梨ヶ原と同じような草原と雑木林ばかりの風景が富士ヶ嶺にも広がっていたかもしれない。
 上九一色村の人々が大根と酪農という生活の糧を見つけ、懸命にその振興に身を捧げてきた歴史を思う。どこかでほんの少しの偶然や努力が奏功して前に進んでいける土地がある一方で、どうにもならない荒波に翻弄され人々の営みが消えていく土地もある。


 米軍基地という障壁を辛くも回避した上九一色村ではあったが、しかし、そのはるか先に待ち受けている運命の影をいったいこのとき誰が予想できただろうか。

 (第5回 了)