ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.5.20

01禍の街から コロナの時代、生命と自然のゆくえを見つめる

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第1回:奥野克巳)



 2019年末から2020年にかけて世界中に広がっている新型コロナ感染症は、私たちの生に計り知れない影響を及ぼしつつある。
 2020年4月7日の緊急事態宣言の前後から、社会的距離を取ることが政府によって要請され、テレワークやオンライン化が一気に進められた。鉄道の乗車率は激減し、普段の週末には人で溢れ返っていた都会の商業地区では人通りがまばらになり、百貨店やショッピングモールは、あるかないかの周知期間のうちに閉店休業してしまっていた。現金収入がなくなった人たちや、経営が立ち行かなくなると予想される企業に対しては、経済保障として、公的資金が投入されつつある。
 激変するそうした日常の現実に加えて、先行きへの不安や政府や行政に対する不満の声が連日間断なく、耳元や目の前に届けられてくる。私は、いつにも増して敏感になり冴え渡ってそれらを見聞きする一方で、いったい何から手を付けて考えていいのやら分からない状況に右往左往することを余儀なくされている。
 頭の中だけでは到底整理し、思考し尽くせないまま、ふらりと街に出かけると、真っ青に一面澄み渡る四月の晴空のもと、平日の昼間なのに人通りのない通りを歩くうち、この人のまばらな空間こそが、もともと本源的な人間の住まう場だったのではないかと、ふいに感じられる。つい先頃までの街では、都市文明が肥大化した結果として、私たちは、途轍もない力を持つ何ものかにのしかかられたまま、魔窟の内に囚われて、逃げ出せないでいたのではなかったのかとさえ思われるのだ。
 メディアではこのところよく、この禍々しいコロナの沈鬱の時代から脱出できる日が必ず来るはずであり、今はみなが我慢して「ステイ・ホーム」で乗り切る時だ、という言葉が発せられるのを耳にする。「欲しがりません、勝つまでは」という戦時のスローガンを想起させる、そんな惹句に簡単に手なずけられてしまうほど、私たちはこの時点ですでに疲れ切ってしまっているのだろうか。今は待たなければならない、堪えねばならぬというと考えるならば、人は為すこともなく、ただ阿呆面を晒すだけだと説く、道元の「時節若至(時が来れば)」の言葉が頭をよぎる。元に復した未来のいつかではなく、今この時が大切なのではないのか。
 新型コロナ感染症が爆発したイタリア在住の作家P.ジョルダーノは、「僕らはどうしてこんな状況におちいってしまったのか、このあとどんな風にやり直したい?」という根源的な問いを私たちに投げかけている。いったい今、私たちが真にやらなければならないこと、考えてみなければならないことは、何なのだろうか?
 出発点として、薄ぼんやりとした輪郭をもったその思考対象を、ここでは仮に、「生命と自然の問題」と名づけるのはどうだろうか。直観的に、頭だけであれやこれやと考えるのではなく、身体すべてをかけて、自然の中にある、人間を含む生命を見つめ直してみることが、コロナの時代のひとつの道行きだと、言葉で表してみることはできないだろうか。
 念頭には、2006年以来年2回ずつ通い、通算で2年にわたって、私がともに学んできた、ボルネオ島(マレーシア・サラワク州)の森に住まう狩猟民・プナンの暮らしがある。彼らの生命は、動植物たちの生命とともに、森という自然と深く溶け合って、自由に迸っている。新型コロナ感染症の世界拡大で、彼らに会いに行くことが困難になった今、プナンの生が私の脳裏で明滅する。
 だが、この道行きを一人だけで歩んでいくのはかなりの難行であるように思われる。智慧を出し合い、語り合う「友」が必要だ。
 きわから「人間」に深々と斬りこんできた傑出した作家・吉村萬壱、それからもう一人、人間の身体の不思議さに分け入って探求を続けてきた伊藤亜紗の二人を道連れに、禍の街の外へと通じる道を探す旅へと出掛けよう。これから、生命と自然という私たちの存在の根っこの部分に触れる領域で、思索と対話を重ねてゆきたいと思う。

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は5月25日(月)掲載を予定しています。

 

 


(本ページの制作にあたり、JSPS科研費JP17H00949の助成を受けている)