ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.9.8

23堆肥男

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第23回:吉村萬壱 / 8月31日執筆


 以下は、異種との共生とは何かということが最近よく分からなくなっていた私が、一冊の本を読んだことでストンと落ちた顛末である。
 私は地方都市の築80年になる古民家を仕事場としているが、去年、その古民家の向かいのアパートに一頃一人の太鼓腹のおっちゃんが住みついて、やがていなくなった。そのおっちゃんはアパートの扉を全開にし、パンツ一丁で寝転がって一日中スマホ画面を眺めたり、誰かと電話で話したりしていた。アパートには時々、何人かの背広のお兄さん達が出入りしていたので、生活保護ビジネスの餌食になっていたのではないかと思うがはっきりしたことは分からない。とにかく私にとって驚きだったのは、昼間も真夜中も明け方も扉が常に全開になっていたことである。実は窓も全開で、アパートは完全に外界と繋がっていた。当然部屋の中に虫が入ってくる。ひょっとすると猫やイタチも入っていたかも知れない。しかし裸おっちゃんは体をボリボリ掻くぐらいで、一向に気にしていない風なのだった。そして彼は半年ほどでいなくなった。この人が一体何者だったのか、今もってさっぱり分からない。
 奥野氏の招きで、2018年の暮れに第23回マルチスピーシーズ人類学研究会で発表した時、私は東千茅(あづまちがや)氏と知り合った。ツイッターで奥野氏が東氏の機関紙『つち式二〇一七』を絶賛していたので、ああこの人が、と思った。そして『つち式二〇一七』に記された、奈良県宇陀市の里山で米と大豆と鶏卵を自給しながら、他の生物と格闘しつつ共生していく東氏のダイナミックな実践とその考え方に感銘を受けた私は、嬉しいことに2019年8月に彼と対談することになった。
 対談のタイトルは「人類堆肥化計画―悦ばしい腐敗、土になりうる人間」で、東氏はこの時、自身の考えを更に深化させ、人類を堆肥にして大地の栄養にするというぶっ飛んだ計画を胸に秘めていたのだった。話を聞いているうちに、堆肥化とは異種とズブズブの関係になることらしいと当たりがつき、それなら外界を拒絶しないアパートの裸おっちゃんはちょっと堆肥的かも知れないと思ったので話題に上げてみた。すると東氏に「堆肥男」というタイトルを頂戴し、私はイメージを膨らませて、その後このおっちゃんのことを小説に書いた(「文學界」2019年10月号所収「堆肥男」)。この短編小説を書いていた時、私の頭の中では、色白の裸おっちゃんと、真っ黒に日焼けした東氏と、そして奥野氏とプナンの人々とがゴチャゴチャに混ざりあっていたと思う。裸おっちゃんが寝たまま脱糞し、その尻をアパートに闖入してきた野良犬に舐められて「ほほほほっ」と笑うシーンがあるのだが、これは便を垂れた赤ん坊の肛門を飼い犬に舐めさせるプナンの人々の様子をそのままお借りしたものだ。プナンの赤ん坊は「気持ちがいいのとこそばゆいのとで、きゃっきゃと騒いで喜ぶ」のである(奥野克巳『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』亜紀書房)。
 さてこのたび、東氏がその名も『人類堆肥化計画』(創元社より10月刊行予定)という第一著作を出されるということで、一足先にゲラを読ませて頂く機会を得た。するとこの本の中に、小説「堆肥男」が取り上げられていて、しかもこの小説から「①扉を開く、②寝転ぶ、③甘やかす」という「堆肥になるための三つの要素」(191頁)が抽出されていたことに私は驚いた。それはつまり、感性の開放、人間が余計なことをしないことで異種の生物がしてくれる、そして進んで異種に利用される、ということなのだが、詳しくは是非本書をお読み頂きたい。
 そして私がこの本を読んで何よりも痛快だったのは、ニーチェの「大いなる正午」を思わせる、自他の貪欲さや悪の全肯定と堕落への強い意志だった。ここでの共生は、微温的で牧歌的な里山のイメージとは遠く懸け離れていた。東氏の里山における共生とは、人間を含めた異種同士が剥き出しの欲望をぶつけ合うお祭り騒ぎのことであり、畑は「自己保存を旨とする者たちによる狡猾な政治の舞台」(『人類堆肥化計画』創元社47頁)なのであった。生きることは即ち殺すことであり、雑草を虐殺し、マムシを惨殺し、大切に育てたニック(鶏)を絞めて食べることの背徳的な喜びの中にこそ、共生の醍醐味があるという。

「共生とは、一般にこの語から想起されるような、相手を思いやる仲睦まじい平和的な関係ではなく、それぞれが自分勝手に生きようとして遭遇し、場当たり的に生じた相互依存関係だといえるだろう」(前掲書21-22頁)

「そして、わたしは彼らをこの手で殺し、貪って生きている。里山は都会よりよっぽど不埒だといえるだろう。里山を牧歌的なおとぎの国かなにかだと勘違いしている連中は、己の欲のまずしさを抱きしめて出家でもしておくがいい。
 里山は、歪で禍々しい不定形の怪物なのだ。食い物にされているわたしは里山の胃袋の中にいる」(前掲書24頁)

 東氏は牧歌的なものの中に、人間中心主義のエゴイズムを見ている。そしてそこに漂う清貧の思想に「欲のまずしさ」や「支配者の思想」(前掲書33頁)を嗅ぎつける。生きる歓びはそういうものを破壊したところにこそ爆発するのである。人間は堕落し腐敗することで幻想の高みから地に堕ち、異種たちと共に、暗く湿った土に生きることを本来とするのだ。
 私は東氏の思想は底に達していると思った。底自体に底はない。つまり、堕ちるところまで堕ちて一介の生き物となり果てた人間の覚悟が、ここにはドンと腰を据えていると思った。

「どうしようもない。どうしようもなく生きて、どうしようもなく死ぬのである」
「しかし、このどうしようもない人生というやつは、どうしようもない中に悦びを隠し持っている。それを掴み取るには、どうしようもなさを全身で引き受けるしかないように思う。だからわたしはこのまま、ただ地べたを這いつくばって生きるのみである。ただし、もちろん地べたというのはよくある比喩ではない」(前掲書247頁)

 裸おっちゃんは徹底的に無為な生活を送っていた。差し入れられたスナック菓子とコーラを貪り食い、あとは仰向けになってスマホを見ているだけ。近所の住人は、怠惰の権化であるような彼を皆白い目で見ていたようだが、しかしよく考えてみると一体彼の何が駄目なのか? 私はウサギを飼っているが、裸おっさんの日常とウサギの日常は瓜二つで、それはプナンの人々へと間違いなく直結するものだった。人間をひっくり返せば内臓の壁は全て外部になってしまうとすれば、家の扉が全開になっているということは、裸おっさんの内臓と外の世界とは同じ位相にあり一続きのものだと言える。つまり、野良犬の内臓と裸おっちゃんの内臓も、実は繋がっていたのだ。しかしもし野良犬が彼のふぐりを噛んだとしたら、裸おっちゃんは怒り狂って野良犬を撲殺したに違いない。野良犬はその時きっと、死んでいく自分の運命を「どうしようもない」と観念したことだろう。それと同じ覚悟が、裸おっちゃんの白く太った体からも滲み出ていた気がする。まさに彼は、死につつ生きていたのだ。そしてその覚悟は、東氏にもプナンの人々にも同様に備わっている気がする。
 異種との真の共生に必要なのはこの覚悟かも知れない、と私は思った。しかもそれはまた、肩の力の抜けた殆ど諦念に近いものではないだろうか。
 この覚悟のない人間は、いたずらに不安になってやたら多くの「意味」で自分を武装し、「神充」(私の小説『バースト・ゾーン~爆裂地区』に出てくる生物)に気持ち悪がられて脳を吸われてしまうだろう。しかし神充は、地べたに這いつくばって里山と格闘している東氏や、プナンの人々や、蟻になった奥野氏や、タコ柄のTシャツに魅入られている伊藤氏には全く気付くことなく、その傍らをゆっくりと通り過ぎていくに違いない。なぜならこれらの人々はその時、地球そのものに溶け込み、全ての異種と同様に「なにも特別な存在ではない」(221頁)という次元において意味なく存在しているからである。
 生きたいという煩悩はたっぷり持っている。だから新型コロナウイルスには注意を怠らない。しかしもし感染してしまえば「どうしようもない」と思える諦観をも備え持つこと。これが共生ということであれば、私もこのウイルスと共に生きていけるかも知れないと『人類堆肥化計画』を読んでそう思った次第である。

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は9月13日(日)掲載を予定しています。