ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.6.4

04合理のひび割れ

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第4回:奥野克巳、5月14日執筆)



 吉村さんは、近視眼的思考に囚われがちなコロナの風景からの脱出の可能性を指摘され、伊藤さんは、コロナによって不確かさへと投げ出された私たちの日常を大きく超えた理不尽な自然のほうへと踏み出された。

 「引き算」的な時間とは、伊藤さんによれば、未来に設定された目標に向かって、日々やらなければならないことが決められる日常のことである。私たちが慣れ親しんだ引き算的な世界は、コロナによって一気に崩れ落ちた。東京オリンピック・パラリンピックを目指して努力が積み重ねられていた世界は20205月の時点で、宙づりにされたままである。取って代わったのが、「足し算」的な時間である。私たちは今、明日がどうなるか分からないような世界を生きている。今日やるべきこと、明日やるべきことが、次々に加えられていくような、足し算的な日々を生きている。突如あらわになった足し算的な時間こそが、私たちの不安や落ち着かなさの正体だったのかもしれない。

 引き算的な世界は、社会生活を営む上での「合理」によって成り立っている。それに対し、足し算的な世界は「生理」からできている。合理からできた世界が崩れ、いきなり現れた生理の世界で私たちは、花を愛でたり、植物たちに新たに出会ったりする。伊藤さんのこのような見立てに、私は深く頷いた。と同時に私は、主に足し算的な日常を生きている人たちのことを思い浮かべた。マレーシアのボルネオ島の熱帯の森に暮らす狩猟民プナンである。

 ボルネオ島には、私たちが考える季節がないし、プナン語には季節という語がない。彼らが住む混交フタバガキ林では、平均して数年に一度の割合で、植物の多くが一斉に開花し、その後一斉に結実する。彼らにとって、周囲の森は、ある時「花のついた葉」でいっぱいになり、続いて「実のついた葉」で溢れかえる。だが、一斉開花・一斉結実の起きる範囲も時期も予測不能である。川のこちら側で花が咲いたとしても、川のあちら側では花が咲かないこともある。花の季節、果実の季節はいったいいつから始まるのか、どこからどこまでなのか分からない。森は人間を超えた独自の摂理で動いているようなのだ。

 ある時、熱帯の森でもひときわ高く聳える突出木の中高層に、オオミツバチの巣が幾つも作られているのを誰かが見つけることから、事態は大きく変わり始める。花蜜を吸いにやって来て営巣したオオミツバチは、一斉開花の兆しを告げる。プナンは、「オオミツバチが突出木に巣を作ったら狩猟の準備に取りかかれ」という、古くから伝わる格言を思い出すだろう。

 彼らは森に入り、吹き矢に盛る毒を集めたり、また槍などの狩猟具を修理したり、新たに作ったりして、来たるべき一斉結実期に備える。一斉に実がなると、樹上の実を食べに鳥や猿が、樹下に落ちた実を食べに地上性の哺乳類が続々とやって来る。プナンは、それらを狙って森に入る。

 ふだんは足し算的な時間を生きているプナンの世界は、オオミツバチの巣を発見するや、引き算的なものに切り替わる。引き算的な世界では、来たるべき果実の季節にやって来る野生動物を狩るという、向かうべき未来が打ち立てられ、それに合わせて、日々準備がなされていく。それは、せいぜい年に1ヶ月程度のことである。生理にいっとき合理が加えられ、ふたたび生理に戻るという、足し算を主とし引き算を従とする時間をプナンは生きている。

 ひるがえって私たちは今、底知れない力を秘めたコロナの到来によってはじめて、この先どうなるか分からない不安と引き換えに、花や植物、動物たちだけでなく、雲や風を含めた自然の動きに目を凝らし、耳を澄ませる生理の力を取り戻しつつあるのかもしれない。しかしそのうち私たちは、あたかも何事もなかったかのように、長い長い引き算の日々へとふたたび逆戻りしてしまうのだろうか。理不尽で不確かな、大いなる自然に背を向けて、向かうべき未来を小賢しく設定し、合理のみが支配する時間を生きていくのだろうか。



この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は6月9日(火)掲載を予定しています。