ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.9.14

24胎盤とバースデーケーキ

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第24回:伊藤亜紗/ 9月9日執筆

 

 腐敗と聞いて思い出したのは、自分の胎盤である。
 出産というと一般には赤ん坊を産むことだと理解されているが、実際には、産むのは赤ん坊だけではない。赤ん坊の誕生から遅れること数十分、「後産」というものがあり、それまで赤ん坊と母体をつないでいた胎盤を外に出すのである。後産の前にはちゃんと陣痛もある。
 すべての分娩を終え、異様な興奮と限界値を超えた全身の筋肉痛に悶えていると、ベテランの助産師さんが銀色のバットを持って楽しそうに近づいてきた。「巨大なハンバーグみたいでしょ?」バットの中を覗きこむと、直径二〇センチくらいのどす黒い塊が、でれんと横たわっていた。生まれたてほやほやの自分の胎盤である。
 もちろん胎盤それ自体は腐っているわけではないのだが、生命を育んできたという意味でこれは大地であり、栄養たっぷりのふかふかの腐葉土のようなものである。葉っぱが発酵し、無数の微生物を抱擁するときに発する、いきれるような熱気。それと同じような熱を胎盤にも感じた。
 こんな「大地」が自分の中にあったというのも信じがたいし、自分の内臓が外に丸見えになっている(萬壱さんの仕事場の向かいに住んでいたおっちゃんのように)のも不思議だったが、助産師さんのいう「ハンバーグみたい」という形容はあたっていると思った。確かに美味しそうなのである。
 周知のとおり、多くの哺乳類は自分の胎盤を食べるし、ヒトにおいても漢方や健康食品として用いられることがあると聞く。胎盤は英語で「プラセンタ」と言うが、その語源はラテン語の「平らなケーキ」で、やはり食につながっている。効能のほどは分からないが、そのとき感じた「おいしそう」は、生命を支える力を持ったものを自分の体内におさめたいという、根源的な食欲であったように思う。プナンの犬の気持ちがほんの少しだけ分かるような気がする。
 思えば胎盤は、まさに母と子という異質な生物を共生させる仕組みである。胎盤があるからこそ、血液が直接混ざり合うことなく、養分や老廃物をやりとりすることができる。この仕組みがなければ、母と子すら共生できないのだ。
 そして忘れてはならないのは、哺乳類の進化においてウイルスが果たした役割だ。今川和彦らの研究によれば、胎盤の形成に関わる遺伝子は、もともとはウイルスに由来する遺伝子が関与しているそうだ。異質な生物と共生する仕組みそのものが、異質な生物からやってきているのである。

* * *

 先週の木曜日に、祖母が一〇〇歳の大往生で他界した。厳密には九十九歳十ヶ月だったのだが、入居していた施設の方のはからいで、亡くなる直前、前倒しの一〇〇歳の誕生日会が開かれた。最後の食事は、生クリームののったバーズデーケーキだったそうだ。
 棺に入れられ、きれいに死化粧をされた祖母は、幸せそうな笑みを浮かべて横たわっていた。私たち生者には別れが必要だが、祖母の体はもうずっと先に行ってしまっている。ドライアイスによってその速度はいくぶんゆっくりにされているけれど、もう私たちには引き止めることのできない自然の力に、この体は呑み込まれている。
 うまく言えないのだが、私たちはすでに、いのちと共生しているのではないだろうか。人が生まれ、そして生き、子を作り、死ぬという変化は、根本的には、意志や努力や感情といった人間的な事情とは関係ないところで起こっている。いのちは自然の営みであり、それと併走することはできても、所有することはできない。生まれるとは、いのちの流れにノることであり、死ぬとはいのちに追い越されることなのではないか。私たちはすでに、思い通りにならないものとともにある。

 

本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
秋に単行本としてまとめて刊行する予定です。ご期待ください。