ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.9.3

22覚知される世界、コロナの迷い

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第22回:奥野克巳 / 8月26日執筆


 道元禅師は『正法眼蔵』の「現成公案」の中で、魚と鳥の経験する世界を描いている。魚は水の中を行けども行けども「きわ」はない。鳥も空を飛んでいくが「きわ」はない。魚自身がなぜ呼吸せずに泳ぐことができるのかと考えるならば溺れてしまうだろうし、鳥自身がなぜ空を飛べるのかを考えたら地面に落ちてしまうだろう。自然は決してそんなことをしない。人間だけが、主に目と耳を使って、世界を見聞覚知(けんもんかくち)し、考え、意味を生み出す存在なのである。
 だが人間は同時に、魚や鳥のように、覚知するのではない経験を日々生きてもいる。扇子を開いて風を送る時、暑いし風がないため、風が吹いていれば心地よいだろうと憶断し、扇子をいっぱいに開いて風を送ることがその解決になるだろうなどと、いちいち覚知した上で、扇子で風を送っている人などいない。人もごく自然に、手に取った扇子を開いて風を送り、扇子を閉じる。 
 吉村萬壱さんの小説『バースト・ゾーン~爆裂地区』の中で、牛に似た怪物「神充」が、絶えず意味を考え、意味のない世界では生きられない人間を、気持ち悪いため、地上から殲滅しようとしたというストーリーは、私には、覚知する人間の振る舞いへの激しい不快感、あるいは厭悪の表れであるように思われる。吉村さんの中にあったのは、この覚知する人間が潜在的に抱え込んでいる、どうしようもない「迷い」をめぐる問題だったのではないだろうか。

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 見聞覚知し、比較計量する世界に生きていると、その世界に通用しない意味や「思考の芽生え」のようなものが奇異に感じられることがある。ふいに直観された事象が、経験後に言葉によって表現されて、変だと感じられるのだ。
 伊藤さんが挙げる、「ホカホカのおにぎり」「タコの作ったTシャツ」「カブトムシの味のするスイカ」の三つの事例は全て、事後に言語化されて、意味が抽出されようとしたものである。スイカはカブトムシ味だから嫌いだという感覚は、分からないではない。しかし、じっくり考えてみれば、カブトムシがスイカを食べているのを見た経験が、カブトムシ味のするスイカ嫌いに結びつく経緯は、世界にある物事の論理の階層を崩壊させてしまうことにもなる。
 訳が分からず戸惑うというのは、頭の中で言葉によって整理してみた直後に湧き上がってくる感覚であろう。伊藤さんはそれを「外部からやって来る意味だ」と述べている。言語化することで、そこには新たな奇異感、すなわち「迷い」が生じているのだとは言えないだろうか。

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 道元は、「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす」と述べている。万法とは、「一切の存在」、修証とは「修めて悟ること」である。自らの働きにより、言葉を用いて世界を覚知することによって人間は、迷いの世界に踏み込んでいく。それに対して「悟り」について、道元は言う。

万法すすみて自らを修証するはさとりなり

一切の存在のほうから自己のもとへと届けられたものこそが、悟りなのである。あるがままの世界をどこまでも自在に、魚は水の中を泳ぎ、鳥は空を飛ぶ。魚や鳥は、世界を覚知することはない。

「諸法のまさしく諸仏なるとき、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」。悟るとは、自分が悟っていると覚知することのない境地であるとも、道元は言う。

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 コロナの時代、患者数や死者数が出され、社会的距離や医療体制が決められ、他方でGoToキャンペーンが発動される。一切が見聞覚知され、比較計量される。その事態に、私たちは戸惑いながら生きている。いや、迷いを生きている。
 本来「自然に意味はない」。だが自然は直観された後、言語によって覚知される。科学を用いて計量され比較され、どこか上の方から行動指針が(なぜか)一方的に定められて届けられる。
「外部からやって来る意味」は、「笑えてもくる。そして、爽やかな気分にもなる」と、伊藤さんは言う。なぜだろうか。それは、手に取った扇子を開いて風を送るがごとく、物事のありのままの自然の所作の形跡が、微笑ましいかたちで、そこに残されているからではないだろうか。
 人間のほうから宇宙の真理を悟ろうとする覚知する世界を歩み、ふとその迷いの深さに気づいて、「外部からやって来る意味」を生み出す以前の世界に遊んでみるなら、コロナが生む迷いは思いのほか楽に感じられるようになるのかもしれない。

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は9月8日(火)掲載を予定しています。