ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.5.30

03植物の時間

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第3回:伊藤亜紗、2020年5月11日執筆



 まるで宇宙船の中にいるようだ。今日がいったい何月何日なのか、時間の感覚が狂い、自分の現在地を見失いつつある。もう土曜日か…。この前の土曜日が、つい数日前のことのように感じる。何の目印もない広大な宇宙を、行先も知れぬまま、ふわふわと漂っているような感覚だ。
 だから、家のドアを開けると、いつも少しびっくりしてしまう。そこにはプランターに植えられた絹さや、ゼラニウム、ジャスミン、リンゴの木、隣家の梅、オレンジ色のポピー、オリーブ、カタバミなどが生えていて、それらは毎日少しずつ、確実に成長しているからだ。時間は、確かに今までと同じように流れていたのである。
 緊急事態宣言が出され、外出自粛が呼びかけられるようになってから、植物のことを話す人が増えたように感じる。メールの文末や、Zoom会議中の雑談で、みんながそのことを語る。「なぜか植物が目に飛び込んでくる。」「妙に花が愛おしい。」「GWに人生初の寄せ植えを作った。」
 もっとも、自分や家族がウィルスに感染した人や、経済的に困窮している人は、それどころではないかもしれない。けれども、今、植物が私たちの意識の隙間に入り込むようにして、何かを語りかけているように思う。奥野さんは「生命と自然の問題」という問いを出され、吉村さんがそれに対して「思考の幅を時間的空間的に可能な限り広げて考えること」という処方箋を示された。私は、植物にヒントを得ることで、お二人の考えを少しでも前に進めてみたいと思う。
 先日、レビー小体病(レビー小体型認知症)当事者の樋口直美さんと、Zoomでお話する機会があった。彼女は、植物にたいへん詳しい。毎日の散歩コースで出会う植物の名前や、どの植物がいつ花を咲かせるかを、おおよそ把握している。「植物がちゃんと順番どおり咲いているというのは、見るだけでも安心する、ホッとする感じがあります。」
 彼女は病気の症状のため、もともと現在が曖昧な時間を生きている。「私には、時間の遠近感、距離感がありません。来週も来月も半年後も、感覚的には、遠さの違いを感じません」(『誤作動する脳』)。常に霧の中にいるような不確かな時間のなかで、植物が告げてくれる時間というものがあるのだ。
 樋口さんと以前、「足し算の時間」と「引き算の時間」という話をしたことがある。「引き算の時間」とは、「三日後にプレゼンがあるから今日は調べ物をしておく」のような、未来のある地点から逆算して現在の意味やなすべきことを決めるような時間のあり方だ。決められた期限に合わせるような時間のあり方だから、社会生活を営む上では合理的だ。
 これに対して「足し算の時間」はもっと生理的である。引き算の時間は、未来が予測できるという前提に立っているが、樋口さんのように体調の変化が激しい人によって、三日後であっても予測を立てることはかなり難しい。だから、今できることを少しずつ積み重ねて、足していくしかない。できる日もあればできない日もある。足し算型の時間は、不均一だ。
 私たちの社会は今、端的に言ってこの「引き算の不能」に陥っているのではないか。東京オリンピックという、ほんの半年前まではあらゆることの逆算の起点になっていた未来は霧の中だ。政策も補償もワクチン開発も先の見えない日々のなかで、小さな計画にさえ「実現できるか分かりませんけど」という但し書きがつく。宇宙に浮かんでいるような方向喪失の感覚は、要するに、向かうべき未来が分からなくなっているということ、あらゆる約束が反故になるかもしれない不確かさに投げ出されている、ということに他ならない。
 しかし、引き算ができなくなったからこそ、植物と出会えているようにも思う。植物が足しているもの、植物が生きている時間。先日、同僚の植物学者がしみじみ語っていた言葉に衝撃を受けた。「植物には、なぜそんなことをしているのか分からないことがいっぱいある」。要するに、人間の目からすれば無駄にしか見えないことが、植物にはいっぱいあるというのだ。
 それはゲノムのサイズを見てもわかる。多くの植物のゲノムは、人間のゲノムよりもずっと大きい。ヒトが3,000Mbなのに対し、エンドウで4,800Mb、コムギで17,000Mb、ユリの一種であるバイモに至っては120,000Mbもある(ちなみに新型コロナウィルスは30kbときわめて小さい)。植物の体は、ヒトの体にくらべるとずっと冗長に記述されているのだ。
 植物は自分で環境を選べないから、変化に対応できるように可能性をたくさん用意している、ということなのだろうか。いや、それもたぶん人間の目から見た見方だ、とその同僚は諫める。人間はつい、あらゆることに合理的な意味があると考えてしまう。でも、たぶん自然はそんなふうにはできていない。
 進化の過程だって、適者生存ということがどこまで言えるのかどうか。おそらく、吉川浩満が『理不尽な進化』で論じたように、進化はフェアプレーではなく、我々が思っているよりもずっと理不尽で、偶然に左右されるものなのだろう。
 いま、私たちに問われているのは、「理不尽に与えられてしまうもの」とともにある世界の姿を描くことなのではないだろうか。そしてそのことはどこかで、病や障害とともに生きることとつながっているのではないかと思っている。









 

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は6月4日(木)掲載を予定しています。