ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.5.25

02ウィルスは我々に何を伝えに来たのか

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第2回:吉村萬壱、2020年5月7日執筆



 以前なら私のような初老の男は、特に若者達には徹底的に無視されてあたかも風景に過ぎなかったし、私の方も、どんなに近くにいようが歳の離れた若者や老人の存在などは殆ど意識してこなかった。しかし今は、相手がどんな年齢であろうと誰もが他人を意識する。そして、マスクを着けているか、咳やくしゃみをしていないか、体調が悪そうかなどを瞬時に見て取り、感染を恐れて極力距離を取る。目に見えない新型コロナウィルスが、見えていなかった他者を忽然と可視化し始めた格好である。
 その一方、あえて以前と同じように振舞う人もいる。最近、昔の知り合いが仕事場に不意に訪ねて来た。彼はわざわざ私の前でマスクを外し、新型コロナウイルスはフェイクだと主張した。しかし彼自身がどう思おうと、感染を恐れる側からすると、唾を飛ばしながら親しげに近付いてくる存在は誰であれ恐るべきモンスターである。私は彼が帰るなり、執拗に手洗いとうがいをした。暫くすると気のせいか頭痛がしてきて、もしうつされたのなら絶対に許さないぞと独り叫んだりしていた。多くの小説家がそうであるように、私もまた人一倍臆病で小心者なのである。
 このような感染の恐怖に加えて、自粛に伴う経済的問題や、外出出来ないストレスが重なり多くの人々が精神的に疲弊している。中には危機的な状況に陥っている人もいて、残念ながら自殺者も出た。我々はウイルスとの戦いに早くもうんざりしている。
 ところで福岡伸一氏によるとウイルスの歴史は比較的新しく、高等生物の遺伝子の一部が外部に飛び出したものであるという。つまり「ウイルスはもともと私たちのものだったのだ」。ウイルスは我々に外界の情報をもたらして進化を加速させ、「私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない」(「福岡伸一の動的平衡」朝日新聞2020.4.3.)ということになる。今回の新型コロナは我々に死をももたらす恐ろしいウイルスだが、全体として見ればウイルスと我々はずっと共に生きてきた間柄なのである。
 また、最も単純な生命体であるウイルスは彼らの為すべきことをしているだけの存在であり、無論、善でもなければ悪でもない。むしろパオロ・ジョルダーノが言うように「ウイルスは、細菌に菌類、原生動物と並び、環境破壊が生んだ多くの難民の一部」(『コロナの時代の僕ら』早川書房、67頁)なのであってみれば、新型コロナウイルスは平和な森から人間の手によって追いやられた被害者と言えるだろう。
 奥野克巳さんから「生命と自然の問題」という提言がなされた。他人をモンスター扱いする近視眼的思考に囚われてばかりいると、早晩頭が変になってしまう。と言うより我々は既に、ある程度神経症に陥っているのではないだろうか。こんな症状には思考の幅を時間的空間的に可能な限り広げることが有効な処方箋であり、「生命と自然の問題」はそのための充分な広さを持った枠組みだと思う。また伊藤亜紗さんには、今回の新型コロナの流行によって、我々の脳が捉える環境がどう変化する可能性があるかを是非訊ねてみたい。ウイルスは我々を怖がらない。こちらもいたずらに恐怖に呪縛されず、彼らが我々に何を伝えに来たのかを冷静に考えてみるべきなのだろう。

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は5月30日(土)掲載を予定しています。