ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.7.4

10「いる」の喪失とは何か?

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第10回:奥野克巳 / 6月15日執筆



 コペルニクス的転回をめぐるラヴジョイの興味深い説を吉村さんが紹介されている。地球の周りを天体が公転しているとされた天動説の時代に宇宙の中心は「被造物の底」にあり、人間は宇宙の中心的な存在ではなかった。科学に基づいて、地球が太陽の周りを自転しながら公転していると唱えたコペルニクスは、地獄や悪魔が中心にいる中世の宇宙論をひっくり返し、人間に立派な地位を与え、人間がわがもの顔でふるまう時代を用意したのである。
 伊藤さんの説く「人間の体の非物質化」とは、人間が中心に置かれるようになったコペルニクス以降に行われてきた所業の最終到達点のようなものではないだろうか。近代以降ヨーロッパでは、リスクの源である体が制御されるようになり、現代の情報通信技術の発達により、体は画面上の「影」だけになった。人間は徐々に体を手放してきた。そしてついに、新型コロナ感染症が遠隔コミュニケーションを広く行き渡らせ、多くの人が「体なしのコミュニケーション」をする時代に突入した。
 「オンラインで会議をしていると、自分の意図が相手に通じているのか不安になってしまい、必死にしゃべりつづけてしまう。気がつけば背中がびっしょり」になっていると、伊藤さんは言う。物理的な体がなくなった今、「いる」が失われている。
 「いる」の喪失とは何か? 
 その答はすでに伊藤さんの言葉の中に用意されている。「蟻やゴキブリや植物とzoomするのはたぶん不可能だけれど、いっしょに『いる』ことはできる」と。「いる」の喪失とは、「蟻やゴキブリや植物と……いっしょに『いる』」の喪失だったのである。
 それは、コミュニケーションを、特別な地位を与えられた人間のためのものに限定してきたことの必然的結果であった。言い換えれば、蟻やゴキブリや植物や石やモノや神や死者や霊などの人間を超えた他者との対話やコミュニケーションを度外視し、人間世界の内側にコミュニケーションを限定的に設計してきたがゆえに、「いる」が失われたのである。

 思い出すのは、1990年代半ばに2年間一緒に暮らしたボルネオ島の焼畑稲作民カリスの人々にとっての「体」が持つ意味である。カリスは、イコンとしての体をたくさん作りだして、世界と交わりつづけているように見える。
 乾季は、川の水が干上がって細菌性の疫病が頻発し、死人が出て弔いが多くなされる、忌み嫌われる季節である。人々は乾季になると、村はずれの川べりに人間の体のイコンである木像をずらっと並べ、布を木像の上部や下部に巻きつける。また、槍や刀、盾などを竹でこしらえて、木像に持たせるようにして添える。
 木像たちのいくさ支度が整うと、人々は鶏を屠って、その肉と臓物の料理、餅、米酒などを捧げる。

村の長老は木像たちに、食べて力をつけ、自分たちに病気や死をもたらそうと近づいてくる見えない敵と戦って、打ち負かしてくれるように唱える。

 

 人々はまた、米の粉をこねて自分たちの「身代わり」を作る。人や犬や、大切な財産や銅鑼のイコンを作り、それらを筏の上にのせて川に流す。
 カリスの人々にとって、木像はたんなる木の像ではない。それらは、自分たちのために勇猛に戦ってくれる自分たちの分身であり、自分たちの体そのものに他ならない。人々が念を込めてエンパワーした木像によっても打ち破ることができない屈強な目に見えない敵に対しては、自分たちではなく、自分たちの身代わりの体に向かっていくように促す。自らの体のイコンを村境の川べりに並べて見えない敵と戦わせ、敵を身代わりの体に向かわせるという、二重の入念な戦略によりながら、カリスは自分たちの健康と命を守ろうとしてきた。かなたの敵に立ち向かうために、人々の体が増殖される。

 カリスは、見えない敵の気配とともに、それらとのコミュニケーションをつうじて生きている。彼らは、世界が人間だけによってできていると考えてはいない。人間を超えた他者との関係でできていることを暗黙のうちに想定している。その上で、自分たちの体の外側に、人間の体のイコンをたくさん作り出し、それらに人間を超えた世界の邪な心をもつ他者とのコミュニケーションを担わせるのだ。
 ひるがえって、私たちは、とてもすっきりした道を辿ってきた。私たちは、ゴキブリや植物や石やモノや神や死者や霊など…の人間を超えた他者たちの中から、吉村さんの見立てではコペルニクス以降に、人間だけに立派な地位を授けて、人間だけを独立させたのではなかったか。
 現代では、自然から人間だけが切り離されてきたことに対して反省が加えられ、人間と自然の分断の問い直しがなされていると言われる。しかし、実情ではそれとは逆に、現代の技術革新において、その分断がますます進められてきているのではないだろうか。コミュニケーションはますます人間の内側にのみに閉じ、人間を超えた世界とのコミュニケーションが失われている。その上、人間どうしのコミュニケーションから、体さえも切り離されつつある。
「いる」の喪失は、人間を超えた世界からの人間の切り離しの上に起きているのではないか。そして、人間どうしのコミュニケーションからの物質性の抹消とは、その完成形態の予告のようなものなのかもしれない。

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は7月9日(木)掲載を予定しています。