ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.7.9

11「死の無力さと分身の持つ力」

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第11回:吉村萬壱 / 6月20日執筆



 私の高校時代からの友人である長澤靖浩氏は、50代の初めに心室細動によって13分間の心肺停止になった。自発呼吸と意識がなく、医者は死ぬか植物状態になると家族に伝えたが、彼は10日後に蘇生した。この時に彼が経験した「死」について、「この世で表現することが残っていたので臨死体験から戻ってきた男」に於いて長澤氏自身が語っている動画を見ることが出来る。それによると、死という状態は、自分という意識はないが覚醒はしていて、その覚醒が全宇宙に染み渡っているという状態だったらしい。即ち、死ぬと全宇宙になるのだ!
 長澤氏と私は二十代の終わり頃、二子玉川園にあったアイソレーションタンクの店に一緒に行ったことがある。究極のリラクゼーションという触れ込みだったと思う。感覚遮断されたタンクの中で我々は、比重の高い硫酸マグネシウム溶液に浮きながら、体の重さが限りなくゼロに近付く体験をした。コツを掴んですっかり体の感覚が消えると、自分の体の大きさが全く分からなくなった。この時味わった、皮膚という境界がなくなり、自分が宇宙全体に拡散してしまうような感覚には、後の長澤氏の臨死体験と通底するものがあったと思う。
 長澤氏によると死は完全なる解放であり、何の不満もない安らぎであり、清浄が「永遠の今ここ」に広がっているという世界であった。しかし死の状態から、現実世界に対して何らかの働きかけをすることは一切出来なかったという。悩んでいる人の背中をさすってあげることすら出来ない無力さ。蘇生して時間と空間の世界に戻った彼は、肉体を通してこの世界に働きかけられる「今ここ」を奇跡と感じ、これを大切に生きていきたいと語っている。
 このような生死の彼岸の視点から見ると、我々の肉体も一つの分身ロボットのようなものであると言えるかも知れない。人間の身体や「いる」の喪失へと向かうテクノロジーの行き着く先は一種の死(ニルヴァーナ)の領域であろうから、そうなると人間は必ず肉体を奪回しようとするだろうと思う。
 伊藤氏が、分身ロボットOriHimeのパイロットで、身体表現性障害のために外出出来ないさえさんに取材した記事は、「さえさん」で読むことが出来る。 OriHimeはアーモンド型の目と、鳥の羽根のような腕を持つロボットで、体長23センチの見た目は子供の宇宙人のような感じである(120センチの大型で移動可能のOriHime‐Dもある)。さえさんはスマホとiPadやノートパソコンで操作しながらOriHimeの中に「入り」、カフェで接客したり小学校で授業したりなど、色々な現場で働いている。さえさんのOriHimeはその場にいる人と目を合わせたり、会話したり、ただそこに「いる」だけで沈黙していたりする。テクノロジーの進歩が人間に体を手放させる方向へと進む中で、何よりもその場にいて現実世界に働きかけることが出来るOriHimeは、人間に体を取り戻させるという逆方向のテクノロジーである点がとても新しいと思う。私もぜひいつかOriHimeに「搭乗」してみたい気がする。
 OriHimeは、奥野氏が2年間(!)一緒に暮らしたボルネオ島の焼畑稲作民カリスの人々の、イコンという分身を通しての世界との交わり方とも一脈通じるものがある。人間は根源的に、分身を作り出したいという欲求を持っているのだろうか。確かにOriHimeにしてもカリスの人々のイコンにしても、個としての自分の力を超えた能力を分身を通して実現しようとするところが共通している。ただし、カリスの人々のイコンは、見えない邪悪な敵と戦う分身であり、人間を超えた存在に満ちたその世界観は、我々現代人に比べて遥かに恐ろしく、且つ広く豊かなもののようである。奥野氏が彼ら「とともに」いることで受けた彼自身の「凝固した日常」への衝撃について、もっと色々聞かせて欲しいと思う。
 ところで私はOriHimeの画像や動画を見ていて、喋ったり腕を動かしながらパイロットそのものとして振舞うOriHimeの自然さに感心すると同時に、その仮面のような顔に少し感じるものがあった。それは、ロボットの持つ一種の計り知れなさのようなものである。去年の台風の時に東京が水浸しになり、生身のスタッフは出勤出来なかったが、さえさんたちOriHimeは出勤出来たという話を読んだ時、孤立したカフェにOriHimeたちだけがいる光景に何かとても非日常的なものを感じた。私はすぐに妄想するタイプなので、分身ロボットは、カリスの人々のイコンに通じる、日常を超えたものと繋がる役割を意図せずに備えてしまっていないだろうか、などと考えてしまった。例えばそれが山口昌男が言う「形代(かたしろ)」のようなものであれば、ちょっと楽しい気がする。

「形代というのは、そこに神が訪れる媒体のようなものと考えられました。別の言い方すると、それは人間が日常的ならぬ何ものかとコミュニケートする媒体だったのです」(『道化的世界』ちくま文庫、213頁)


 そして、言われてみればOriHimeの顔はカーニヴァルの仮面っぽいではないか。

「仮面が我々に呈示するのは〈平俗なものの拒絶〉いわば存在への不安感を武器につかって、人を日常生活から誘い出すといった方向である」(同書、142頁)


 鳥の羽根のような腕によるある種不自由な身振りは、日常的な道具としての振る舞いからは感じ得ないどこか異界的な非日常性を感じさせる。分身には悉く、どこか日常性を異化する祝祭的な作用が備わるのではなかろうか。もっともそれは、私がロマンチックにそう期待しているだけなのかも知れないが、分身ロボットが更に進化して人間に近付き、ある一定の度合いを超えると親近感が嫌悪感に変わる「不気味の谷現象」を超えて本物の人間に限りなく近付いても、私はそこにどこか無骨なロボット性のようなものが残っていて欲しい。分身ロボットに、我々を「凝固した日常」から誘い出し「『原初の世界』につれ戻す」(山口昌男『道化的世界』233頁)カーニヴァル的要素があれば、それはきっと恐ろしくも楽しいことであるに違いないと思うからだ。

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は7月14日(火)掲載を予定しています。