ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.7.14

12コロナさん

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第12回:伊藤亜紗/ 6月24日執筆



 分身は、遠いものを近くに引き寄せたり、逆に近すぎるものから距離を取ったりするのに役立つ。それは、自分と自分でないもののあいだに設けられたアジールのようなものだ。この領域があることによって、人間は、思い通りにならないものとの距離を調節することができるようになる。奥野さんが出会ったカリスの人々と疫病のあいだに置かれる木像。吉村さんの語る非日常と日常のあいだにある仮面。お二人の濃密なテキストを読みながら、そんなことを考えた。
 知人で情報学研究者のドミニク・チェン氏は、『未来をつくる言葉』(新潮社)のなかで、モンゴルにいる馬の話を書いている。チェン氏はかつて、妻と結婚式をあげるためにモンゴルに出かけた。それは即興の結婚式だったが、滞在先の家長が父親役を演じ、馬に乗って娘を娶る許可を取りに行くという儀式まで行った。
 帰り際、チェン氏は父親役だった男性の兄から、「馬をあげよう」という申し出を受ける。戸惑っていると、「あげる」というのは「持って帰れ」という意味ではないと言う。「この馬はここにいて、自分たちが世話をする。だが、君たちがここを訪れるときにはいつでも乗っていい」。
 チェン氏は、これを文化人類学者の木村大治のいう「共在感覚」と結びつけながら、この馬がいることによって、モンゴルの人々や動物、景色と「共に在る」ことが可能になったと語っている。馬はチェン氏の分身である。この分身としての馬が、チェン氏と、モンゴルの人々や動物、景色をつなげているというわけだ。物理的な距離を超えて、チェン氏はモンゴルにもいる。
 一方、分身は、近すぎるものを遠ざけるのにも役立つ。たとえば、浦河べてるの家から始まった当事者研究では、「幻聴さん」と幻聴に「さん」を付けて呼ぶ文化がある。ただの幻聴は自分に起こった「症状」でしかない。けれどもこれを「さん」づけすることによって、自分とは異なる人格のようなものを認め、そうすることで自分から切り離すことができるようになるのだ。幻聴を自分の制御下に置こうとしない。「向こうには向こうの論理がある」と尊重することで幻聴を自分から分ける。つまり「分―身」化する。
 興味深いのは、分身化した幻聴は「仲間」にもなりうる、ということだ。長年幻聴とともに生きてきた林園子さんは言う。「わたしたちのまわりには、幻聴さんをかかえながら暮らしている仲間は多い。(…)松本寛さんのように、幻聴さんが『我が良き友』になってさびしさを紛らわせてくれて、種々の生活上の危険から自分を守ってくれる『生活の必需品』になっている仲間もいる」(向谷地生良『べてるの家の「当事者研究」』)。そこにはもはや、幻聴さんとの信頼関係とでも言うべきものがあるように思う。
 吉村さんも言及していたように、福岡伸一氏によれば、ウイルスはもともと高等生物の一部であった。新型コロナウイルスのまわりの皮のように見える部分は、人間の細胞膜でできているという。このウイルスは、物理的に考えても、その経緯から見ても、私たちの分身以外の何者でもない。
 生活のあまりに近くに入り込んでしまったこのウイルスとの距離を、私たちはどうやって再調整できるだろうか。そのためには、支配することではなく、むしろ尊重することが必要だろう。ワクチンや特効薬が開発されたあとも、つまりウイルスが私たちから離れたあとも、「そこにいる」という想像力を持てるのかどうか。私たちはいつか「コロナさん」と呼べるようになるのだろうか。

 

 

 

 

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は7月19日(日)掲載を予定しています。