ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.7.24

14「聖なるもの」

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第14回:吉村萬壱 / 7月7日執筆



 ところで、伊藤氏が紹介したドミニク・チェンの馬との「共在感覚」や、奥野氏の紹介したシベリアの狩猟民ユカギールの大鹿エルクとの一体化を読んで、私は人間が動物と区別されない関係になるという事態について想像しながら、自分の中学時代を思い出していた。
 私は勉強が嫌いな中学生で、授業や宿題が苦痛だった。そんな私とは対照的に、毎日実にお気楽に暮らしている飼い犬が私には羨ましくて堪らなかった。そこである日、私は自室で四つん這いになって歩き回ったり、平皿に容れたお菓子を口だけで食べたりし始めた。つまり犬になったのである。この変身は、精神衛生上決して悪い経験ではなかった。
 動物との一体化という点では、動物と性的な関係を持つ人々の存在を忘れるわけにはいかない。犬や馬をパートナーにして性的営みを行う「ズー」と呼ばれる動物性愛者たちを取材した濱野ちひろのノンフィクション『聖なるズー』(集英社)には、「人間と対等で人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望を持つ生き物」(247頁)という彼らの動物観が紹介されている。ズーたちは、自分たちと対等の存在であるパートナーたちを、性の側面も含めて全面的に受け止めているのである。


ズーとは、自分とは異なる存在たちと対等であるために、日々を費やす人々だ。ズーたちは詩的な感覚を持っているのかもしれない、と私は思う。動物たちからの、言語ではない呼びかけに応じながら、感覚を研ぎ澄ます。そして、自分との間だけに見つかるなにか特別なしるしを手がかりに、彼らはパートナーとの関係を紡いでいく。(254頁)


 ここには人間と動物との交感が成立しているように見える。それは動物と一体化することのヒントを与えてくれる気がする。しかしズーたちのパートナーは飼い慣らされた動物であり、飼い主を決して裏切らないという点で、野生種とは根本的に異なる。ユカギールのハンターと大鹿エルクとの間の緊張感に満ちた駆け引きは、ここにはない。
 恐ろしい野生動物と渡り合う興奮について、人類学者の菅原和孝は『狩り狩られる経験の現象学~ブッシュマンの感応と変身』(京都大学学術出版会)で、父親をライオンに殺されたヌエクキュエというブッシュマンの例を挙げている。


ライオンをいくら憎んでも飽き足らない敵として位置づけるとき、私たちは、遭遇を生き延びた人びとの語りを彩る、あの楽しげな表情を取り逃がしてしまう。ライオンと丁々発止の駆け引きを演じることに漲る戦慄と興奮は、原野を闊歩する人びとの感情生活の重要な(おそらく不可欠な)一側面をなしている。だからこそ、ヌエクキュエは『父さんはライオンに殺された』話を何度でも語りたがるのである。(398-399頁)


 新型コロナウイルス感染症は、臆病な私にとってサバンナのライオンのように恐ろしい存在だが、新型コロナウイルスを「いくら憎んでも飽き足らない敵として位置づける」時、我々が取り逃がしてしまうものは一体何だろうか。
 考えてみると、我々が真剣に向き合うべき存在として新型コロナウイルスは全く不足のない相手であると言える。人類は、このウイルスに対しては全力で立ち向かわなければならないと感じている。それは専門の研究者や医療関係者、政治家だけでなく、市井の人びと一人一人に日々真剣勝負を要求してくる。少しの油断が命取りになることを、我々は既に知っている。そして、ウイルスという物質か生命体かよく分からない存在の持つ巧妙な仕組みや、人間を人間たらしめてきた進化におけるウイルスの果たしてきた役割の重要性などを知れば知るほど、ウイルスというものが、単なる敵と見なすことの出来ない奥深さを秘めた存在であることが分かってくる。「我々はすでにウイルスと一体化しており、ウイルスがいなければ、我々はヒトではない」と、分子生物学者の中屋敷均は言う(『ウイルスは生きている』講談社現代新書 5頁)。本当に偉大な存在というものは、我々に畏怖の念と畏敬の念とを同時に起こさせるものだが、エルクやライオン同様、新型コロナウイルスもこのような存在であるに違いない。ある意味、「聖なるもの」(ルードルフ・オットー)と言ってもいいかも知れない。そのようなものを前にする時、我々は否応なく根源的な問いの前に立たされているのである。ウイルスの研究が「我々ヒトとは一体、何者なのか」(中屋敷均 前掲書5頁)という本質的な問いを突きつけてくるのと同様、『聖なるズー』も根源的な問いを我々に投げかけてくる。


人間は動物との間に設けてきた境界を隔てて、『人』というカテゴリーを生きている。人間と動物とのセックスは、その境界を攪乱する。ズーたちが提起しているのは、セックスとはなにかという問いだけではなく、人間とは何かという問いでもある。(濱野ちひろ 前掲書 194頁)


 この世界の秘密に触れる度に、新しい事態を前にどう振舞うべきかという決断を我々は迫られることになる。
 以下は、自らが性暴力に苦しんだ当事者でもある濱野ちひろ氏の、大変に重い言葉である。


人間と動物が対等な関係を築くなんて、そもそもあり得ないと考える人は多いかもしれない。だが、ズーたちを知って、少なくとも私の意見は逆転した。人間と人間が対等であるほうが、よほど難しいと。(濱野ちひろ 前掲書 256頁)


 疫病の歴史は、黒死病の流行とユダヤ人虐殺など、人間同士の差別と迫害の歴史という側面を持つ。今回の新型コロナウイルスの流行においても残念ながら、武漢市民、ひいてはアジア人、感染者、医療関係者への差別的な言動が見られた。あらゆる種の存在や今回の新型コロナウイルスの流行が我々に問うているのは、人間同士が対等の関係を結べない限り、災厄にも悲劇にも終わりはないという冷徹な事実なのかも知れない。

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は7月29日(水)掲載を予定しています。