ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.6.19

07〈凝固した日常〉を突き刺さすもの

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第7回:奥野克巳 / 5月31日執筆



 コロナ禍は、「学校嫌い」にとって僥倖だったかもしれないという吉村さんの指摘に頷いた。思い出したのが、昨年度一年遅れで卒論を書き上げ、今年度大学に残っている六年生のことだ。彼女は三年前の低単位取得者面談で、通学には自宅から片道二時間かかり、満員電車の中で気分が悪くなって途中駅で降りてしまうことがよくあると語った。そのため、朝早い時間に組まれることが多い必修授業を毎年のように落としてしまっていた。大学近くに住めばいいのでは、大学寮ではどうかと話したが、父親が絶対に許してくれないとも言っていた。
 この四月からの一年向けの必修授業の名簿の中に、一人しかいない六年生である彼女の学生番号を見つけた。五月末の時点では、どうやら順調に「自宅出席」しているようだ。新型コロナ感染拡大で突然始まったオンライン授業に、彼女はほくそ笑んでいるに違いないと、私はひそかに思っている。彼女は、「元の日常こそが何か途轍もなく不自然なものだったことを改めて思い知ったことだろう。日常性の裂け目に、こんな自由があったのかと。」
 彼女にとって、苦しみの果てに教室にまで辿り着かなければ受けられない講義からなる日常とは、呪うべき〈凝固した日常〉だったに違いない。社会が旧に復することを願う人たちばかりなのではないというこうした事実に、私は安らぎのようなものを感じてしまう。
 吉村さんはまた、加計呂麻島で出撃命令を受けたまま終戦を迎えた特攻隊長・島尾敏雄の経験を取り上げている。身心を賭して一気に死へと昇りつめようとする非日常を日常にすり替えて生きていた島尾は不意にはしごを外され、代わりに贈り届けられた生の安堵と裏腹に湧き上がる虚無感に苛まれる。突然のどんでん返しのため、島尾は生を漫然と生きる日常に還れなかったのではないか。吉村さんはその体験の中に、不世出の島尾文学の兆しを嗅ぎ取っている。
 人類学は、日常の縁に身を置いたり、日常から飛び出たりすることによって〈凝固した日常〉に気づく学問である。調査地に出かける人類学者は日常から遠く離れ、長期にわたって非日常に浸ることによって、そこで手に入れた束の間の自由を味わったり、非日常と日常の裂け目の虚空に嵌まり込んだりする。その意味で、人類学という学には、「経験」によって自己変容を促す面がある。最近になって、このことを真正面から評価した人類学者がいる。
 ティム・インゴルドは、人類学は人々「について」何かを言う学問ではなく、人々「とともに」学ぶ学問だという。単に馴染みのない土地に長らく入り込んで、他者の暮らしを詳細にレポートする学問ではないというのだ。現地に出向いてデータを持ち帰って自国で本を書き上げるという、百年ほど前にブラニスラウ・マリノフスキが方向づけた人類学者像をインゴルドは毛嫌いしているふうでもある。他方でインゴルドは、マリノフスキが述べたフィールドの日常生活の「データ化が難しい部分」(インポンデラビリア)のことを重視しているようにも思える。インゴルドは言う。

人類学の目的は、人間の生そのものと会話することである。(『人類学とは何か』)

 人類学者は、自国の日常を後にし、フィールドの非日常が日常になる瞬間に起きるあらゆる出来事を捕まえて、他者とともに学ぶために、人間の生そのものと会話するのだ。さしずめ以下のような私の経験が、それにあたるだろう。

 プナンとともに私は、夕闇めがけて油ヤシ農園に出かけた。獲物は捕れず、森を彷徨った我々は火を焚き、その場で夜を明かすことになった。眠くて仕方がない私は地べたにへたりこみ、枕大の石の上に頭を置き眠ろうとすると、無数の大きな蟻が体の上を這いまわって、なかなか寝付けない。レインコートで頭からすっぽりと全身を覆って蟻たちの侵入を遮って、何とか眠りに陥ると、どれくらい時間が経過しただろうか、焚火はまだチョロチョロと燃えていたように覚えているが、夢とうつつのはざまで、シャカシャカシャカシャカという蟻の音が頭の中に大音響で響き渡り、私の瞼には触角を揺すりながら蠢く巨大な蟻たちが映し出された。その時、私は蟻の世界の一員となっていたのである。

 研ぎ澄まされた夜の聴覚。瞼の奥に映る蟻たち……他者の生のうちに経験する蟻の世界。こうした生命や自然と対峙する経験が、私自身の〈凝固した日常〉めがけて鋭く突き刺さってくる。こうした経験は、非日常から零れ落ちる、取るに足らない一断面ではない。それには、〈凝固した日常>との間で何かを生み落とす力が潜んでいるに違いない。

 

この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は6月24日(水)掲載を予定しています。