ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.6.24

08「被造物の底」

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第8回:吉村萬壱 / 6月4日執筆



 27年間学校の教師をしていたが、実は人に正確に知識を教え伝えるのがとても苦手である。しかしダラダラと半可なことを喋るのは好きなので、講演依頼があると全て引き受けてきた。ところが新型コロナの影響で、それもすっかりなくなった。寂しいので、講演会で時々する話を披露させてもらおうと思う。

 私はその時、船の甲板にいて夜風に吹かれながら港の夜景を眺めていました。天辺に丸い水銀灯を乗せた十数本の街路灯が整然と並んでいて、その一つ一つから光の線が伸びていました。その光の線は海面をキラキラと這いながら、どれも例外なく私という一点に集まっていました。私は「おや?」と思いました。どうして十数本の街路灯の光が全部私へと集まってくるのでしょうか。暫くすると、船が港を離れ始めました。すると光の線は、離れて行く私を追いかけてくるではありませんか。どの街路灯から伸びる光の線も、一つの例外もなく「扇の要」の位置にいる私をどこまでも追ってくるのでした。
 そして私は気付きました。街路灯の光は、あらゆる方向へと無数の光の矢を放っていたのです。そして私がここにいるから、私へと向かってくる光だけが私の目に見えるのだ、と。もし私の横に素敵な女性がいて、二人並んで同じこの夜景を眺めていたとしましょう。しかし厳密には、二人は決して同じ光の矢を見ることはないのです。同時刻に見ている二人の景色は、二人が完全に一つに重なり合いでもしない限り確実にズレているはずです。つまり、今この瞬間に私が見ている光景は、私にしか見えない唯一無二の世界なのです。
 だから皆さんには小説を書く意味があります。なぜなら自分にしか見えない世界を正確に書けば、それが唯一無二の小説にならないはずがないからであります。

 と、講演ではそういう具合に話が進むのである。納得顔もあれば、はあ?という顔もあるが、私はこの話が個人的に嫌いではない。なぜなら、自分や自分でない人々が、個々別々の個体としてこの世界に存在している意味のようなものを、少しだけ納得させてくれる気がするからである。
 障害を持った人の世界があり、プナンの世界があり、都会人の世界がある。沢山の人々がこの世に存在し、それぞれ固有の感覚で世界を切り取ったその無数の断面は、世界全体をクリスタルガラスのように輝かせるのではあるまいか。時にそんなふうに思ったりする。「日本は一つ」「オールジャパン」のように殊更に一体感を鼓舞されると、せっかくの美しいカット面が研磨されてのっぺりしてしまう気がして、ちょっと興冷めである。
 そして勿論、この世界を感じているのは人間だけではない。
 植物の「器官のなさ」が人や社会の在り方にも一脈通じるという伊藤さんの話や、地面に寝ていて蟻の世界の一員となってしまったという奥野さんの話は、何より人間中心主義の呪縛から軽々と自由であるという点で、とても痛快で面白かった。
 あらゆる生命体が、この世界をそれぞれの仕方で把握している。植物にとっての世界があり、蟻にとっての世界があり、新型コロナウィルスにとっての世界がある。何と豊かなことだろう。私は、初めて実体顕微鏡を買ってゴキブリを観察した時、その毛むくじゃらの脚に沢山の小さな虫がくっ付いていたのを見て、これが君たちの世界なのかと大いに感心した覚えがある。そして、そこには彼ら独自の世界があるのだから、下手に手を出さずそっとしておこうという謙虚な気持ちが湧いた。種を超えた視点で世界を捉えると、全てを人間の責任においてコントロールする必要がなくなり、とても気が楽で、そんな世界の方が人間にとってもずっと住み易い気がする。人類は勝手に背負った重い責任を放棄して、いっそのこと滅亡してしまう自由さえ保持しつつ、もっと肩の力を抜いてもよいのではなかろうか。たとえ我々が滅亡しても、きっと後のことは他の種が上手くやってくれるに違いないのだ。
 高校で倫理社会を担当していた時、私は、地球が宇宙の中心にあるというプトレマイオスに代表される天動説は人間中心主義であり、コペルニクスが地動説を唱えてこの迷妄を粉砕したのだ、と教えていたが、どうやらこれは間違っていたらしいと随分後になって気付いた。


(前コペルニクス的天文学は)人間が宇宙の中心を占め、彼の住む惑星の周囲を広大な人の住まぬ天球層が従順に回転していたのだと言う。しかし中世の精神にとっての天動説の実際の傾向は、まさにその反対であった。なぜなら宇宙の中心は決して名誉ある場所ではなくて、むしろ天上界から一番遠ざかり被造物の底であり、そこはかすや卑しい元素が沈殿するところであった。実際の中心は、まさに地獄であり、空間感覚からすれば、中世の宇宙は文字通り悪魔中心であった。(アーサー・O.ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』ちくま学芸文庫、157頁)


天動説の宇宙観は人間の昂揚よりも屈辱に役立ったことと、コペルニクスの説は、一つには、人間の住み処にあまりにも立派な地位を与えすぎたという根拠で反対を受けたのだということとが充分に明らかである。(『存在の大いなる連鎖』158頁)

 

 とするならば、我々はコペルニクス以前の中世の人々よりも遥かに自己中心的で、謙虚さに欠けた存在に違いない。そして私には、奥野さんが夢うつつの中で蟻になってしまったあの地面こそが、我々が本来在るべき「被造物の底」ではなかったかと思えて仕方がないのである。


この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は6月29日(月)掲載を予定しています。