ひび割れた日常 奥野克巳・吉村萬壱・伊藤亜紗

2020.6.29

09体を失う日

 

コロナによって世界は一変した。これから、「復興」「回復」が急ピッチで進むだろう。
だが、我々は元に戻れるのか。また可能だとして、かつての日常を取り戻すことが、本当に正しいことなのか。コロナ後の生き方、社会のあり方を問う、3人によるリレーエッセイ。(第9回:伊藤亜紗 / 6月10日執筆



 人間は徐々に、体を手放しつつあるのかもしれない。
 いまや体はリスクそのものだ。「距離をとる」という名目のもと、可能なかぎり体を避けながら生きている。他人の体は自分を殺すかもしれない爆弾であり、私の体もまた人の命を危険にさらしうる。「かもしれない」という不確実性によってあおられる恐怖。
 でもよくよく考えたら、疫病がなくたってそもそも体はリスクの塊なのだ。電車でたまたまとなりに座った人から、不快な臭いがするかもしれない。もしかしたら、突然暴れ出すかもしれない。テロリストである可能性もある。外出時にはマスク。人との距離は2メートル。コロナ禍が収束したあと、私たちはこの習慣を手放せるのだろうか。
 そもそも長い目で見れば、人類のこれまでの歴史は、体の体らしさを捨てていく過程であった。分かりやすい変わり目は近代化である。近代化以前のヨーロッパは、バフチンが「カーニバル」と呼ぶ、いきれるような濃厚接触の世界だった。
 たとえば食事。中世の人々にとって、前菜とメインとデザートがきれいな皿に乗って順番に出てくる、なんていう発想はない。料理はみんなでひとつの大皿に盛られ、ウサギ、シカ、ヒツジなど、さまざまな獣や鳥の肉を煮込んだシチューに全員が指をつっこんで食べた。残った骨を狙って犬が足元でうろうろしている。ビチャビチャ、ヌメヌメ、クチュクチュ。ちょと、吉村さんの小説を思い出す。
 体の生理現象の扱いもそうである。オナラを我慢することはむしろ健康に悪いとされていたし、唾をテーブルの上に吐くのも当たり前だった。
 派手にクシャミもしただろうし、食事中に盛大に口の中を見せながら会話をしただろう。粘液的社交。イーフー・トゥアンが論じたように、個が確立していない時代だから、住居のつくりも「自分だけのプライベートの部屋」なんていうものはなかった。寝るときの臭いは相当のものだっただろう。近代化とは、こうした身体の生理を制御することに他ならなかった。
 そして産業革命。産業革命は、「標準的な体」を作り出した。産業構造の変化によって工場労働者が増えると、労働が時間によって測られるようになる。だれがやったとしても同じ、一定の時間内の、決められた量の労働。このとき同時に生まれたのが「障害者」という概念であった。障害とは、この画一化された労働市場に参画できないことを指す概念として誕生した。
 時間からも生理的なものとのつながりが消えていく。日本では明治5年までは不定時法が採用されていた。不定時法とは、昼の長さと夜の長さを等分して時間を測定するやり方である。つまり季節によって、単位あたりの時間の長さが違ったのである。ところが定時法が導入されたことにより、1日の長さを等分するようになったため、時間は太陽の動きやそれと連動した生命のリズムとは無関係に、客観的な時間によって測られるようになった。
 そして現代。高度な情報通信技術を手にした人類は、それを維持するために大量の化石燃料を燃やしながら、自身の体からはその物質的な側面を可能なかぎり削ぎ落とそうとしている。いまや「同僚の〇〇さん」はパソコンの画面が映し出す影であり、わずかにズレながら耳に入ってくる声である。
 確かに、体を非物質化することのメリットはある。たとえば、外出が難しい人や人と対面で会うことがストレスになる人にとっては、現在のリモートでの人間関係はむしろ福音だろう。あるいは、差別の問題もある。先日、分身ロボットを使って自宅から接客業の仕事をしている方にお話をうかがう機会があった。その人曰く、「分身ロボットで出勤していると、関係がフラットになる」。確かにそうだ。物理的な体があることによって、私たちは相手が自分より優れているか、それとも劣っているかということを、その見た目によって無意識的に判断してしまう。ジョージ・フロイド事件をあげるまでもなく、私たちは二十一世紀になってもまだ、差別という問題を乗り越えられていない。
 一方で、失われるものもある。私が一番恐れているのは、「いる」の喪失だ。「いる」こそ、物質としての体が私たちに与えてくれる最大の恩恵ではないだろうか。
「いる」とは何か。先の分身ロボットの利用者が教えてくれたのは、「いる」ことによって私たちは沈黙できるということだ(その方によれば、分身ロボットは、物理的な機体を通して強烈にそこに「いる」感じがするらしい)。確かにオンラインで会議をしていると、自分の意図が相手に通じているのか不安になってしまい、必死にしゃべりつづけてしまう。気づけば背中が汗びっしょり。言語的コミュニケーションが成り立っていることは、必ずしも「いる」を生み出しはしない。
 逆にいえば、言語的コミュニケーションが成り立たないような異質な相手であっても、「いる」ことはできる。蟻やゴキブリや植物とzoomするのはたぶん不可能だけど、でもいっしょに「いる」ことはできる。
 そして「いる」とともに失われるのは「変身」の可能性である。私たちは、逆説的にも、物質的な体があることによって、変身をすることができる。奥野さんがプナンとともにその体を地面の上に横たえていなければ、蟻に変身することはできなかったはずだ。ヴァーチャルの世界で、自分のアバターを蟻に変えることはできる。でもそれは変身ではない。
 変身とは、自分と異なるものの世界の見え方をありありと実感することである。カーニバルがそうであったように、それは価値転倒の場なのだ。吉村さんの言うように、あらゆる生命体が、この世界をそれぞれの仕方で把握している。物理的な体があるからこそ、自分でないものになることができる。
 体はややこしい。良い面もあれば、悪い面もある。コロナ後の世界のために、何を、どうやって残すか。「ニュー・ノーマル」は適切な「ニュー・ボディ」にもとづくべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 


この連載は5日に一度の更新でお届けする予定です。
次回は7月4日(土)掲載を予定しています。