リキッド・アマゾニア 太田光海

2024.6.30

 遠くの方に、緑と黄色があしらわれた橋が見える。左右は鬱蒼とした木々に覆われている。スリティアクと2人で、砂利と土が混じったゴツゴツした道を歩いていく。スリティアクの歩幅は力強く、150センチ台中盤くらいの身長から想像する速さを遥かに越えている。むしろ、プーヨの街路を歩くよりも、速さは増しているようだ。「村にお土産を持っていくとしたら、何がいいと思う? イギリスから紅茶のティーバッグを持ってきてるんだけど、あげたら喜ぶかな?」と、村へ出発する前にスリティアクに聞くと、スリティアクは呆れた顔をして答えた。「アキミ……今から行く場所は、そんなものでみんなが嬉しがるところじゃないんだ。彼らが欲しいのは、まず塩。そして鶏肉。あと、パンは珍しいから子どもたちが喜ぶ。これから村に行くときは、それを買えばいい」。俺は素直にアドバイスに従い、村に着く前に寄れる最後の小売店でそれらを手土産として購入し、袋を手に下げていた。
 橋の下にはゴツゴツとした石が連なり、幅20〜30メートルくらいの川が流れている。橋を渡り始めると、近くで遊んでいた子供たちが俺たちに気付き、好奇心と恐怖がないまぜになったような顔で声を上げ、こちらに目をやる。その場に留まる子もいれば、逃げるように後ろに向かって走り出す子もいた。橋を渡ってすぐに、右斜めに下っていく細道があり、その奥に木々に囲まれた木造で茅葺屋根の2階建ての家があった。家の手前には、長髪を束ね、額にビーズ仕立てのヘッドバンドを巻いた男が立っている。セバスティアンだ。
 「トゥラシャ!」スリティアクとセバスティアンの2人がにこやかに挨拶を交わす。しばらく止めどなく話しているが、セバスティアンはあまり視線を俺の方に向けない。スペイン語は一言も挟まず、俺が理解できないシュアール語での会話が続く。すると、「セバスティアンが、そこに座れと言ってる。さあ、家の中に入ろう」とスリティアクが俺に呼びかけた。
 2階建ての家の1階部分は、扉がなく床が土で、壁は下半分が竹材で覆われ、上半分は開放されている。入口側の壁に沿って、座れる高さに板が敷かれている。中央に置いてある、1本の木から切り出した「チンビ」と呼ばれる台座のような椅子に座るように案内され、俺の正面にセバスティアンも座った。目を合わせると、力強い視線が返ってくる。決して笑顔なわけではなく、俺のことを慎重に観察しているようだ。しかし、その佇まいはこれまでに感じたことがない、包み込むようなとらえどころのないしなやかさを醸し出していた。
 スリティアクがスペイン語で俺に語り始める。「この人がセバスティアン。前にも言ったけど、私が最も尊敬する人だ。彼はシュアールについて、誰よりも知識がある。神話にも、文化にも、薬草にも詳しい。動物や植物のことも何でも知っているし、槍や椅子や家、アクセサリー、何でも造れる。セバスティアンは村からあまり出ないし、政治組織に関わっているわけでもないけど、私は子供の頃ここに住んでいた時に、あらゆることを彼から学んだんだ」。手工芸の作家としてキトの民族博物館に作品を買い取られるほどの才覚を持ち、これまでの会話からシュアールの知恵や森についての深い洞察力を垣間見せていたスリティアクが、これほど両手を上げて尊敬の念を示すセバスティアンに対して、否応なく興味が掻きたてられた。
 「君が来ることは、スリティアクに言われる前からわかっていた」。セバスティアンが、初めてスペイン語で俺に語りかけてきた。「何日か前に、夢で見たんだ。遠く、とても遠くから、新たな友人が訪ねてくる。若く、まだ青年の友人だ。ぼんやりと影が現れ、俺に向かって微笑んでいた。顔はハッキリわからなかったが、姿形は君とそっくりだった。スリティアクが君を連れてくると伝えてきたとき、『あの時の若者が来る』とすぐに理解したよ」。
 セバスティアンが住むケンクイム村への今回の訪問では、4日間の滞在を予定していた。「1年間ここに住まわせてください」というお願いを突然するのは、相手の警戒心を解く上でも、自分にとってのリスク管理という観点からも、適切ではない。これまで関わりが多いのは間違いなくシュアール族だが、それはほとんど偶発的出会いの結果であり、実際には、俺はまだアマゾン熱帯雨林のどの民族についてフィールドワークを行うのかすら、決めてはいなかった。マンチェスター大学に提出した研究計画でも、エクアドルにおけるアマゾン熱帯雨林の先住民世界を主題とすることは示したものの、具体的な民族的グループの名称は明記しなかった。
 現代のエクアドルのアマゾン熱帯雨林には、11の民族的グループが存在するとされる。至上の原生林が残るヤスニ国立公園内部で今なお孤立生活を営む未接触民族であるタガエリ族とタロメナネ族を含めば、その数は13にのぼる。コーンが研究対象とするキチュア族や、デスコラが論じているアチュアール族、ラウラ・リヴァルが調査しているワオラニ族、あるいはスティーヴン・ルベンスタインも題材としているシュアール族などは、エクアドルのアマゾン熱帯雨林の中でも名の知られた民族かもしれない。しかし、それ以外の民族については、世界的に見ても研究の蓄積が少なく、現場に入る前に情報を得ることは困難を極める。また、比較的研究の蓄積がある上記の諸民族についても、著作内で論じられている内容はあくまで人類学の専門的なテーマに関わる側面であり、なおかつ論述の基になっている第一次資料はすでに10年、あるいは20年前のものであることも多いため、決して清濁併せ呑むような、プラクティカルな最新情報ではない。
 だからこそ、今回のフィールドワークが初めての南米滞在である俺にとって、事前にテーマとして取り上げる民族名を挙げてしまうことに何一つ道理はなかった。そもそも、それぞれの民族が独立して集落を形成しているのかも定かではない。流動性や移動可能性の如何によっては、複数の民族が共同でコミュニティを形成することで、新たなアイデンティティを生成しつつある可能性もある。実際、この前の会合で会ったロサとルイスが住む集落には、シュアール、キチュア、アンドアという3つの民族が混在していた。
 学術界の常識に照らし合わせるならば、博士論文の研究計画に具体的なフィールドワーク先や、そこで関わりを持つ予定の民族的グループについての記載がないとしたら、大きな欠陥である。確かに、具体性の欠如を補うように、研究計画にはアマゾン熱帯雨林において非人間的諸存在が人間を森という巨大な自律的エコロジーの中に内包し、共に変容していくそのあり方について、理論的に突き詰めた抽象的論点を提示した。また、語学力や異なるコミュニティに適応する技術には絶対の自信があることを強調した。それらが一定の説得力を生んだのかもしれないが、この研究計画を通してくれた指導教授陣たちには、俺を信頼し、自らの責任で背中を押してくれたことを感謝したい。
 どこからともなく、女性が一人現れた。セバスティアンの妻・パストーラだった。身長はスリティアクよりも低く、おそらく140センチ台で、地面に届きそうな長さの、美しく光り輝く黒髪を後ろに下ろしていた。手には土器に注がれたチチャを持っている。歓迎の証に、持ってきてくれたのだ。「こんにちは、これを飲んで」と小さな声で言う。もの静かな印象で、はにかむようなあどけない微笑みだった。チチャをいただくと、まるで水を得た魚のようにさらにエネルギッシュになったスリティアクが勢いよく立ち上がって言う。「さて、チャクラに行ってひと仕事しよう! アキミ、あんたも私たちと同じように働くんだ」。
 他の村人たちもそうだが、セバスティアンとパストーラのチャクラは、家の隣にあるわけではない。チャクラは大抵の場合、村を取り囲む鬱蒼とした森の一部を切り拓いて作られる。そこへ向かうには、森の中を抜けていかなければならない。俺は腕や脚の肌が隙間なく覆い隠されるように伸縮性のインナーとレギンスを身に着け、その上からフルレングスのジャージを着ていた。チャクラに向かう前に、さらにイギリスから持参したジャングル用の虫除けスプレーを体中に吹きかけた。だが、そのような対策にほとんど意味がないことは、村について1時間も満たない段階で明らかだった。身体の節々から、チクチクと蚊に刺される微細な、しかし確実な痛みを感じる。しかし、体感と比較して、見える蚊の量は多くない。姿が目に入れば叩いて潰そうとするものの、それを遥かに上回る数の箇所から、ジワジワと喰われているのがわかる。虫除けスプレーが全く効果を発揮しないほど強力な蚊の攻撃にさらされたことは、人生で初めてだった。元々、他人と比較して蚊に刺されやすい体質ではなく、虫刺され自体に対しても許容度が高い。多少の腫れや痒みなど、気にせず生活ができる。この村では、そんな自分の前提が即座に覆された。
 チャクラで作物を収穫する作業は、シュアールを始め研究蓄積のあるアマゾン先住民社会のほとんど全てにおいて、女性の仕事である。パストーラとスリティアクが、「チャンキン」と呼ばれる植物の繊維で編まれた籠を持ってチャクラに向かうというので、俺も連れて行ってもらうことになった。チャクラは女性たちの仕事場だが、男性が入ってはいけない空間ではないようだ。
 セレーナ・ヘクラーが述べるように、アマゾン熱帯雨林先住民についての研究では、女性たちが主に携わる菜園(=チャクラ)での活動は、80年代頃までの支配的研究においては男性たちが関わる狩猟に比べて過小評価され、最低限の食料を担保するための退屈な作業に過ぎないと捉えられてきた1。ヘクラーの他にも、ジョアンナ・オーヴェリング2やセシリア・マッカラム3といった人類学者たちの近年の仕事によってその暗黙の認識は徐々に批判されているものの、アマゾン先住民社会を読み解く上で、狩猟こそが最も重要な活動であるとする言説的構造4に大きな変化は見られない。
 しかし、ヘクラーによれば、チャクラにおけるキャッサバ芋の栽培やそれを用いて調理されたチチャは、決して単調で退屈な、結果が保証された作業の帰結ではなく、複雑な知識の運用が求められる実践である。エイミー・マクロクランがコロンビアのウイトト族についての論文で述べるように、例えば女性たちが作るチチャの味としての「甘さ」は、調理の仕方いかんによっては「苦み」が生まれる可能性を排除しきれない条件の中で、「甘み」を物質化するその連続的実践によって女性個人の倫理的人格を味の特徴と同化させ、強化することで、ひいてはコミュニティにおける社会的関係の構築と維持に寄与しているとも言える5。チャクラを単なる食料生産場として捉えるのではなく、そこで栽培される作物の固有の物質性と、作業する女性たちの身体知や感覚の質に注意を向けることで、アマゾンにおける「社会性」=socialityそのものが生成され、折衝が起こる初発の空間としてチャクラを解釈することができるのだ。
 セバスティアンとパストーラの家を出て裏手に回ると、細い小道が森の奥へ続いている。マチェーテをチャンキンの中に入れ、チャンキンに取り付けられた帯を肩ではなく額に当てて歩く。森を歩くとき、彼らは手が塞がらないように気をつける。あらゆる不測の現象が起こる可能性が常にあるからだ。出発前にパリで時間をかけて選んだゴアテックス製マウンテンブーツへの信頼をまだ捨てきれない俺は、スリティアクに一刀両断されたにも拘らず、まだ彼女が勧める長靴を買っていなかった。
 人生で初めて、「密林」と呼ばれる地帯に足を踏み入れた。急に薄暗くなり、まるで暖簾をくぐって秘密の隠れ家に紛れ込むような感覚になる。木々に包まれることで外部から遮音され、一瞬静寂を感じるものの、昼下がりの虫たちが、控えめにひっそりと鳴き声を響かせていることにすぐ気づく。同じ「森」にいながら、この小さなアクションによってサウンドスケープが変化したのだ。
 ゆっくりと歩みを進めるが、なかなか目線を上に上げることができない。なぜなら、地面には多くの木の根っこが隆起していて、枝や倒れた木が散乱している。少しでも気を抜くと、何かに足を引っ掛けて転んでしまいそうだ。さらに、森に入る前に「毒蛇には気をつけろ。嚙まれたら死ぬぞ」とスリティアクから忠告されていたので、蛇の出現頻度がどれほどかもまだわからない今、一瞬も気を抜くことはできない。かといってずっと下を見ていると、胴体や頭の高さで止まっている倒木の下をくぐり抜けなければならない地点に気づくことができず、横から飛び出している木の枝や棘に当たり、上から垂れ下がる蔓に絡まりそうにもなる。全方位に注意が向いていないと、たちまち動けなくなってしまう。
 一瞬立ち止まり、周りの景色を見てみる。生涯で見たことがない、数え切れない種類の植物の葉が、俺を取り囲んでいた。個々の葉の大きさにはもちろん違いがあるが、全体を見渡すと、手のひらの何倍ものサイズがある多種の葉が、漲る生気を放射しているような印象を受ける。また、個性的な木々の幹は、様々な形にうねりながら伸び、複数種が絡まり合いながら成長し、さらにそこにおびただしい種類の寄生植物たちが集まっている。目の前を、黒と青緑、あるいは赤とオレンジの、煌めく羽をなびかせて何頭もの蝶たちが通り過ぎていく。「ようこそ、私たちの遊び場へ」。そんな陽気な誘惑を投げかけられているようだ。
 俺の肉眼で見えるものも、見えないものも含めて、あらゆる生命体がそれぞれのリズムでゆらめき、生長し、音を奏で、ギラギラとした緑色の光を反射させていた。今までの人生で訪れたのは、「森」と呼ばれる場所ですら、特定の種の木があり、幹があり、枝葉があり、それらが間隔を空けて並び……という、ある程度の規則性と種の限定性を前提にした空間でしかなかったのかもしれない。確かなのは、これまでの自分の経験知を基に、今自分がいる空間を認識しようとしても意味がないということだ。形質や色彩、さらには音や匂い、触覚を包括した情報の洪水が、俺の身体全体を強烈に満たしていく。今すぐ「理解」できなくていい。今は、「今の自分には理解できない」ということがわかるだけでいい。そう自分を納得させた。
 「おい、アキミ! 歩くのが遅すぎるぞ! 私たちが見えなくなったらここで生きていけるのか?」いつものようにスリティアクが俺をからかう声が遠くから聞こえる。ふと声が聞こえた方を見ると、スリティアクとパストーラはずいぶん遠くに進んでいた。このままだと見失ってしまいそうだ。それにしても、彼女たちは歩くのが異常に速い。もちろん、彼女たちからの視点では、俺の歩くスピードが異常に遅いのだが。大学時代まで競技生活を送っていたサッカーとフットサルで鍛えた足腰と体力にはそれなりに自信があったが、今まで俺が住んでいた諸地域では通用するそのような基準は、この森では無価値なのかもしれない。そう認めざるを得ないほど、彼女たちが森の中を進む速さは比類なきものだった。そこには、平面のフィールドで行われるスポーツのトレーニングでは得られない特殊な要因があるに違いなかった。
 まるで歩き始めて間もない1歳児のように、俺は彼女たちに度々待ってもらいながら、ヨチヨチ歩きで森の中を進んだ。本当は、楽園のように周りを囲む植物や虫たちをゆっくりと眺めながら木漏れ日を味わいたい。だが、そんな余裕がない程度には、必死に前進していた。
 セバスティアンとパストーラのチャクラは、森を抜けて村の横を流れるナマキム川の支流にもう一度接近しつつ、少し高台に上がった地点にあった。「ようやく着いたな。初めて森を歩いたにしてはやるじゃないか。私が連れてきた外国人の中には、全く森の中を進めないまま諦めた人たちも何人もいる。アキミはそうじゃない。とても遅いけど、歩くことはできる」。褒められているのかはわからないが、ここまでついてきたことを、スリティアクは認めてくれたようだ。
 植えられているのは、キャッサバ芋、プラタノ、パパチーナ、カモーテの4種。そこに、パパイヤなどの果物類が混ざる。植え方に一見して明らかな規則性があるわけではなく、モザイク状に植えられている。パストーラとスリティアクは、葉っぱの状態や茎の太さなどを観察し、食べ頃になっているキャッサバ芋やパパチーナの茎をマチェーテで小気味よく切り、中腰になって引っこ抜き、籠に放り込んでいく。ランダムな順序で植えられているので、一つの作物を抜くと、その横には必ず別種の作物がある。縦方向や横方向に移動していくのではなく、360度を見渡しながら不規則な経路を辿り作業することになる。
 このとき、マチェーテを初めて使った。刃渡り50センチくらいはあり、振り上げるのにも覚悟がいる。パストーラやスリティアクは特に使い方を教えてくれるわけではない。「マチェーテを使えない人間がいる」ということが彼女らにとってそもそも想像の埒外だということもあるが、言葉によって「やり方を教える」という意識自体が希薄なのだ。見様見真似で、マチェーテを茎に対して斜めに振り下ろしながら、キャッサバ芋を引っこ抜くための準備をする。中腰になって踏み込み、キャッサバ芋の塊を上下左右にねじるようにゆっくりと引っ張る。サツマイモを抜くときの要領に近かった。
 何度かキャッサバ芋の塊を引っこ抜いていると、土の中に土器の破片を見つけた。パストーラに見せると、驚いた様子だった。「これはシュアールの先祖たちが大昔に使っていた土器の破片だわ。こんなものを村に来てすぐに見つけるなんて、とんでもない運を持っているのね。この村にずっと住んでいる私たちですら、何個かしか見つけることができていないのに!」シュアールの先祖たちが、何百年、あるいは何千年も前に使っていたかもしれない土器の痕跡を、ジャージのポケットの中に大事にしまう。
 一通り必要な作物を籠に入れ終わり、満杯になったので家に帰るようだ。「アキミ、シュアールの女たちがどれほど力持ちか、自分でこの籠を持って帰って体感してみな」とスリティアクが言う。言われたあと、ふと我に返って籠を見てみると、確かに普段の生活ではスーパーマーケットに2週間分の食料をまるまる買いにでも行かない限り持つことがない量の作物がギッシリと詰め込まれている。これを毎日のように、あの足場の悪い森の中を歩いて持って帰っているのか。
 彼女らがそうするように、しゃがんで背中に籠が来るような体勢となり、額に帯の部分を当てて立ち上がる。途端にズッシリとした感触が背後から俺を襲い、気を抜くと後ろに倒れそうになる。空港で預け荷物としてドロップオフできる23キロ分を限界まで詰めたバックパックを背負っているとき以上の重量感だろうか。しかも、額に帯を当てるという慣れない体勢だ。バランスを取りながら歩くのもかなり難しい。チャクラを抜け、何とか森の中を十数メートルほどは進んだものの、足場がさらに悪くなるこの先は進めない。何も持たずにここまで来るだけであれだけ苦労したのだ。今の俺には、籠を担いで家に戻ることは不可能だった。
 「先住民の女たちがどれだけすごいか、わかっただろう?」と、スリティアクが神妙な顔つきで言った。そして、「パストーラ、あんたは毎日これを運んでるんだ。今日は私が運ぶよ」と続けると、しゃがみこんで籠を額でグイッと持ち上げ、来たときと同じくらいのペースで歩き始めた。俺は、あの重たい籠を背負いながら森を進むスリティアクに、必死に付いていくだけで精一杯だ。森で生きていくために必要な身体能力の差を幾層にもわたって痛感させられた俺は、半ば放心状態だったが、同時にゾクゾクするような感覚も得ていた。「自然や土地との関係を見直す」という課題を、政策論や言論の問題として捉えるだけではどうしても頭打ちになるという自分自身に対しての見立てが、正しかったからだ。ここアマゾン熱帯雨林には、自分がこれまで射程に収めていた諸概念や「現実」の諸相を根底から揺さぶる物事が、ひっそりと、しかし確実に、存在している。家とチャクラとの間の一度の往復だけで、それが実感として俺に深く突き刺さった。「どこまでも食らいついてやろうじゃないか」、と燃えたぎるような意欲が湧いてきた。
 家に着くと、セバスティアンが待っていた。「子供たちと貝を取ってきたぞ。パパチーナと一緒に食べよう」と言う。見ると、鍋一杯にカタツムリに似た形の黒い殻の貝が入っていた。パストーラがその鍋を受け取り、火にかけるために焚き火へ持って行く。「それと、ここにオリートがある。いくらでも食べていいぞ」とセバスティアンが続ける。「オリート」とは、日本などで一般的に流通しているバナナよりも小さいサイズの亜種の、エクアドルでの呼称だ。横に目をやると、オリートの房が山積みで置かれている。合計で100個前後はあるだろうか。熟れ具合に違いがあり、全体が黄色いものから、まだ緑色のものまでグラデーションが豊か。もちろん、完全無農薬の不耕起栽培によるオーガニックだ。
 有り余る果物を目の前にして、いくらでも無料で食べていい、と勧められる経験も、今までの人生で初めてだ。セバスティアンの無邪気な提案は、労働、あるいは奨学金などのある種の義務遂行契約を通して得られる対価としての貨幣を元手に、慎重にモノの価値を吟味した末に選択する購買行為の結果としてありつくことが許される存在としての食料という、俺の中につっかえ棒のように引っかかっている概念を、不思議な力で溶かしていく。たとえ一時的かつ地域限定的であるにせよ、俺たちは今この瞬間、コモディティから自由な領域にいるのだ。
 まずは1つ、いただくことにする。初めて食べるオリートの、少し薄くてギュッと実に張り付くような皮を丁寧に剝き、口に運ぶ。口の中で、キメの細かいテクスチャーがとろけるように舌に纏わりつき、未だ嘗て感じたことのない繊細かつ豊穣な甘みが広がっていく。考えてみれば、「ついさっき収穫されたバナナ」を食べたのは、これが初めてだった。国内で流通しているバナナの99%が輸入されたものである日本や、バナナの自給など不可能な北西ヨーロッパには、コンテナで冷蔵輸送するなど多くの行程を経てようやく辿り着く6。そのため、農地での収穫から2週間近く経過した状態のバナナしか食べる機会がなかったのだ。「バナナは、本当はこんな味をしていたのか……」と、脳髄が撃ち抜かれるような味覚の衝撃を受けながら、無心で何本も続けざまにオリートを頬張る。まるで、この味を知らなかった空白の27年間を埋めるのは今しかないと、身体が底の方から叫び声をあげているかのようだった。
 セバスティアンやスリティアクは、オリートの味に深く感じ入っている俺の様子を見て、不思議がりつつも、得意げな喜悦の表情を浮かべていた。彼らからすれば、先祖たちが何世代にもわたって栽培し、毎日採れたてのフレッシュな状態で食べてきたオリートを、そこまで有難がるものだろうか、という可笑しみがあるだろう。しかし、同時に彼ら先住民たちは、大量生産される食物や工業製品に囲まれた生活を放棄する代わりに森から採れるフレッシュで良質な食を中心に置く彼らのライフスタイルを侮蔑する態度が、南米大陸の占領以来森の外部で今日に至るまで蔓延してきた歴史を肌で理解している。だからこそ、彼らは自分たちが与えた食料を無心で味わう俺に対して、まるで初めてそんな光景を見るかのように新鮮な眼差しを向けていた。
 貝の調理が終わり、皿の代わりにテーブルに敷くプラタノの葉を採りに行ったパストーラが帰ってきた。茹でたパパチーナを添えて、大量の貝を葉の上に盛ってくれた。味付けは、塩のみ。茹でる際にも、調味料は一切入れていない。オリートをたっぷりいただいたあとだったが、チャクラで働いた疲れもあったのでまだまだ空腹だった。遠慮なくパパチーナに塩をまぶし、口に運ぶ。やはり、美味としか言いようがない。今ここにある、個としてのパパチーナ自体が保持しているとしか表現できない旨味が、舌の上を滑る。「水で茹でて塩を付けるだけ」の料理など、料理と呼べたものではないという、調味料至上主義がこの世界を支配して久しい。恋人や友人にそんな料理を振る舞おうものなら、それは相手へのリスペクトの欠如と受け取られても文句は言えないだろう。様々なブイヨンやハーブ、スパイスを熟知し、組み合わせ、使いこなす一連のスキルが、料理をより豊かに、より美味しくし、それを味わう我々をより幸せにする。そんなあまりにも自明化されてしまった論理が、というより、そもそもそんな論理が自分の中にもあったのだという事実が、自分を貫く剝き出しのパパチーナがもたらす味覚体験によって、完膚なきまでに炙り出されていく。
 「私たちがなんで塩しかつけないか、わかるか?」と、スリティアクが問いかけた。「それは、素材自体を味わうことが、一番美味しいと思っているからだ。人はよくアマゾンでの私たちの食生活を見て『塩しかないなんて、なんて哀れで貧しい人たちなんだ』と言う。彼らは私たちのことを全くわかっていない。私たちは、塩以外何もいらないくらい、自分たちが森から採る食物を美味しいと思ってるんだ。塩がないときは、塩なしで食べることだって、何にも問題はない。先祖たちは、塩なしでも美味しく森の糧を食べてきた。塩がなくても美味しいことを、私たちも知っている。森の食物は、良い土で自然に育ったときに一番美味しくなる。だから私たちはチャクラを持って、そこにユカ(キャッサバ芋)やプラタノ、パパチーナ、カモーテ(スイートポテト)を植える。アパッチたちがやるように、大きな畑を耕して農薬を撒いて育てても、美味しい作物なんかできない。だから彼らは塩以外の色んな調味料を求めるしかないんだ」。
 スリティアクは、シュアールの村で育ちながらも、その後ガラパゴス諸島やキトで生活した経験があり、メスティーソや白人たちの論理をよく理解している。その上で、彼らの盲点を的確に突き、言語化する力を持っている。出会ってからこの短い期間で、スリティアクの言葉や振る舞いによって何度目から鱗が落ちたか、数え切れない。自分の住む土地で自給すらしていない調味料を上手く加えないと料理は美味しくならない、という発想自体が、大航海時代以降の収奪的な植民地主義に端を発する帝国意識の何重にも濾過された残滓であることを、突き付けられた。
 セバスティアンとパストーラの村に来て、初めて振る舞われた食事をいただく過程で、強烈に思い知らされたのが「味覚」をめぐる社会性や政治性の深みである。このアマゾン熱帯雨林における味覚をめぐる地層には、その後のフィールドワークを通じてより深く分け入っていくことになる。しかし、この時点で述べておきたいのは、アマゾン熱帯雨林における味覚についての人類学的研究は、ほとんど皆無と言っていいほど存在せず、わずかに言及があるとしても、それはいわゆる分類学的な思考に基づく、単語と味の性質を単に照合させていくような、硬直的記述しか見つけることができないという事実だ。しかし、先に述べたように、この問題をめぐって探究すべき広大な認識論的かつ経験的領域が、アマゾン熱帯雨林先住民社会には存在する。また、それは今日の環境や生態系を取り巻く議論において、ラディカルに人間の立ち位置や存在論を組み換え、捉え直すために、流動性を前提に置きながら思考すべき危急のテーマであるということだ。だが、全く手つかずでほとんど誰にも認識されていない現状では、自分自身が切り拓くしかない。
 食事が終わると、セバスティアンに家の外に出て左手の場所に案内された。比較的背の低い草木に覆われ、一見森の始まりのように見える30平方メートルほどのその空間は、彼自身が作り上げた薬草園だという。看板や目印がないため、生えている種を把握していないと「森」、つまり生活空間の外部との区別が付かない。いや、そもそもアマゾンにおいて「森と薬草園を区別」するという安易な発想自体が、間違っているのかもしれない。デスコラは、自身のアチュアール族についての研究において「全ての新たな庭は森に対して行われた捕食の結果であり、周囲の自然に対するマーキングである7」と述べたが、セバスティアンが家の横に設えた薬草園は、確かに森に対する積極的介入の所産ではあるものの、決して「捕食」という表現で定義できる空間だとは思えなかった。そこには、「捕らえる」ことよりも「放擲」することへの意志がより強く感じられたのだ。
 「見てごらん。これは『カンツ』という植物で、食べることもできるし、薬でもあるんだ」上品な紫色の葉っぱを手のひらに載せて見せながら、生理痛や頭痛、身体全体の痛み、骨折にも効くという植物についてセバスティアンは語り始めた。「これは『アパイ』という植物で、食べられるし、腹痛にも良い。こっちにあるのは僕が自分で見つけた植物で、『ヌハムカル』と名前を付けた。骨折や手術後の回復にとても効く。さて、これはね……」決して矢継ぎ早に説明していくのではなく、ゆっくりとした足取りで、何が起きているのか要領が摑めていない俺に注意を払いながら、セバスティアンはポツリポツリと、まるで水滴のように言葉を落としていく。「なんで植物を集めているか、わかるか? 僕は森を愛しているんだ。森に棲む動物も、植物も、精霊たちも。色も、音も、匂いも、光も、純粋な空気も。ここには毎日、鳥たちがやってくる。ほら、今もあの木に止まっているのが見えるだろう? 僕はここに立ち、彼らの声を聴くのが好きだ」。
 どうやら、いくつかのことがわかってきた。まず、セバスティアンは「食料にもなり、同時に薬でもある」植物に特別の関心を持ち、日々森を探索する中で見つけた種々の植物を家に持ち帰り、薬草園に植えることで集めているということ。つまり、日本で使用される薬膳用語である「医食同源」に近い思想をセバスティアンは持っていた。そして、それらの植物には一つの種にいくつもの効用があり、生で直接食べる、お茶にして飲む、すり潰して身体に塗る、煮込んで蒸気を出させ浴びるなど、使用方法にもヴァラエティがある。また、驚くべきことに、セバスティアンはいわゆる「先祖伝来」の知識に基づいて予め把握している植物を探したり見つけるだけでなく、名前の知らない植物を「研究」し、どのような性質や効用があるのか明らかにする活動をしているという。
アマゾン熱帯雨林先住民と「医食同源」の思想について書かれた研究は未だ存在しない。欧米中心主義的視点による言説では、地理的に遠く離れた東アジアと南米の先住民たちをパラレルな関係として眼差すことはなされず、使用される植物たちは「食用なのか、薬用なのか」の二分法でカテゴライズされ、リスト化される。それらが「食料でもあり、薬でもある」という同時性を、アマゾン熱帯雨林先住民に関する先行研究が論じた形跡はない。
 アマゾン熱帯雨林に滞在してまだ間もない俺がセバスティアンを訪ねた初日に、すでに彼らにとっての食と薬の不可分性が明らかに観察できるにも拘らず、この点について直接的に述べた研究が存在しないというのは、摩訶不思議なことだ。これは決してセバスティアンの独自思想ではない。以前に出会ったアルベルトも、スリティアクも、何か新しい食べ物あるいは飲み物について俺に教えてくれるとき、ことあるごとに「これは薬でもある」という事実を強調していた。スリティアクによれば、口嚙み酒のチチャは「薬」であり、さらに言えば「飲み物」であると同時に「食べ物」であるという。スペイン語にせよシュアール語にせよ、会話の中では便宜的に用途によって単語を使い分けるものの、本質的には彼女にとって身体を通して摂取するあらゆる物質は同時に薬であり、飲み物であり、食べ物なのだ。シュアールの人々は、常に流動する自らの身体感覚を薫染し、生を駆動させる媒介物として植物を捉えている。
 食や薬と身体感覚の関係については、グレン・シェパードによる論文「2つのアマゾン社会における薬草治療の感覚生態学8」(2004年、未邦訳)やセレーザ・ミラー著『親類としての植物:ブラジル先住民のマルチスピーシーズ民族誌9』(2019年、未邦訳)など数例を除けば理論的にも資料的にも明らかに不毛なアマゾン熱帯雨林とは違い、アフリカ諸地域を対象とする人類学的研究には長期的蓄積がある。ニジェールのソンゴイ族を主な研究対象としているポール・ストラー『民族誌的事物の味:人類学における感覚10』(1989年、未邦訳)や、同じくニジェールのトゥアレグ族のもとで調査を行ったスーザン・ラスムセンによる「人類学によりよき『香り』を:トゥアレグの社会文化システムと民族誌の形成におけるアロマ11」(1999年、未邦訳)、『共同体における治癒:トゥアレグたちの薬、係争地、文化的邂逅12』(2001年、未邦訳)などが好例だ。だが、その中でも独自の民族薬理学的アプローチから食と薬の同時的存在性を捉えようとしているのは、ナイジェリア北部のハウサ族について主に研究したニナ・エトキンである。エトキンによる『食べられる薬:食の民族薬理学13』(2006年、未邦訳)は、人類学的視点から食と薬の不可分性について包括的に論じた画期的著作であり、食あるいは薬のどちらかに関心の中心を置くことに拘泥する傾向にある上に挙げた諸々の研究と、一線を画す。
 しかし、ここで俺が目指すのは、アフリカでのフィールドワークを通してエトキンが辿り着いた知的フレームに、シュアールの人々を当てはめることではない。セバスティアンが描く絵を理解するためには、彼が絶えず関わり合う植物たちを「用途」や「効用」の次元ではなく、より広い射程の中で捉える必要がある。なぜなら、セバスティアンにとって最も重要なのは、結果的に何らかの効用がある植物を発見することや、できるだけ多くの薬草を集めることだけではなく、それらの活動に取り組むプロセス自体から生まれる彼の身体的経験や感情の動きの総体だと思ったからだ。
 「アキミ、見てごらん。これは『マイキュア』といって、他のどんな植物よりも大きな力を持つんだ。これを飲んで、僕たちは夢を見る。夢を見てヴィジョンを得る。そして、マイキュアは僕たちを悪いものから治してくれる」。ほんのり黄色がかった緑色の、15〜20センチくらいの葉っぱを生やした、一見特に気を惹かれなさそうな植物を指して、セバスティアンが言った。スリティアクから何度か名前を聞いたことがある「マイキュア」を、このとき初めて見た。
 「『マイキュア』のことは、今まで知らなかったよ。アマゾンの薬草で一番重要なのは『アヤワスカ』だと思っていたんだ。ヨーロッパやアメリカでは、アマゾンと言えばアヤワスカの話ばかりしてる。つまり、マイキュアはアヤワスカよりも重要な植物ってこと?」
 「もちろん、アヤワスカも僕たちにとってとても大事な薬草だ。でも、マイキュアの力には及ばない。アヤワスカは人生の中で何度でも飲むことができる。だけど、マイキュアはそうはいかない。なぜなら、あまりに力が強いからさ。シュアールの男は、人生で12回マイキュアを飲まないといけない。それによって、真にヴィジョンを得た人間、『ワイミャク』になれるんだ。この回数は、それ以上でも以下でもいけないんだ」
 ヴィジョンを得るための薬草として、「マイキュア」(エクアドルのスペイン語では「フロリポンディオ」と呼ばれる)に最も重きを置いている民族の例は、シュアールやアチュアールを始めとするヒバロ語族系の諸民族を除いて多くない。ヨーロッパや北米で近年再燃しているアヤワスカ・ツーリズムの周辺で、「マイキュア」について漏れ聞こえてくることは皆無である。一体、「マイキュア」とはどのような植物で、なぜシュアールの人々によってこれほどまでに重要視されているのか、興味が湧いた。
 また、一つの薬草が複数の用途や効用、使用方法を持つことも、これまで俺が主に関わってきた西洋近代的な医療の考え方と全く異なる。西洋近代医療では、機能不全に陥っているとされる身体部位を特定し、そこに巣食うとされる原因を除去することを基本的に目指す。そのときに複数の効用のパターンを持つカプセルなどが処方されることは稀である。だが、セバスティアンの薬草園には、腹痛にも骨折にも効果がある薬草や、風邪にも効き、糖尿病の予防になり、癌にも効果を発揮する樹液がある。症状や使用タイミングによって組み合わせや調理方法を変えることで変幻自在の光景を生み出す、まるで万華鏡のような薬草の世界が広がっている。
 そして、最も衝撃的なのは、セバスティアンは「シュアール族伝統の」薬草を集めているだけではなく、新種の薬草、つまり自分を含めた村の誰も名前や効果を知らない森の植物を発見し、その性質を調べる活動をしているという事実だ。民族植物学の分野では、分類学的アプローチから現地民による植物名を聞き取りし、それらを学術名と照らし合わせ、用途などを分析するのが通例である。
 ベネット、ベイカー、アンドラーデによる、シュアール族に関する初の大規模な民族植物学的論文「東部エクアドルのシュアール族についての民族植物学14」(2002年、未邦訳)でも、同様の手法が用いられている。論文の冒頭で、彼らは以下のように述べる。「親たちと同様の森の知識を持つシュアールの子供たちは稀であり、すなわち多くの民族植物学的知識は一世代のうちに失われることになる。森林の断片化と文化変容が、この知識の喪失を避けがたく差し迫ったものにしている15」。この文章は、民族植物学を通して「伝統知」にアプローチする際の暗黙の前提を示している。つまり、とある先住民族コミュニティに存在する知識は、過去から引き継がれたものであり、文化変容によってそれが失われるプロセスは、不可逆的だという決め込みである。
 セバスティアンがもし、過去に彼の先祖たちがまさに行ってきたように、自らの身体を通して植物を観察し、試すことで効用を見極め、能動的かつ予測不可能なやり方で薬草に関する知識を増幅させているのだとしたら、それは既存の民族植物学に対する強烈なアンチテーゼであり、とある民族についての知識を現地民という「生きた古層」から発掘することを無意識の前提とするある種の学術的態度を攪乱することとなる。
 夕方になり、日が傾いてきた。すると、遠くの方から「インドーーール!」と叫ぶ声が聞こえた。何事かと思ってパストーラに聞くと、どうやら「インドアサッカー」のことで、村の中心にある「エスパシオ・クビエルト」でサッカーをするメンバーを呼び込んでいるらしい。現代では、アマゾン熱帯雨林の村でも一番人気のスポーツはサッカーのようだ。しばらくまともにプレーしていないものの、15年近い競技経験を持つ俺は、アマゾンでどれくらい自分の実力が通用するのか試してやろうと思い、参加することにした。会場に行くと、12歳前後の子供たちや10代後半の若者たち、そして30代以上の大人たちまで集まっていた。中には15歳前後の女の子も何人か混じっていた。その中には靴を履いている者もいれば、裸足の者もいた。俺がプレーするらしいとわかると、若者たちはクスクスと笑いながら俺の方に目をやる。突然現れた「チーノ」(中国人)がどんなプレーをするのか、興味津津のようだ。
 適当に振り分けられたチーム編成で試合が始まると、様子を見つつも徐々にエンジンをかけていく。サッカーには向かない重たいマウンテンブーツを履いているため、素早いプレーはできない。そもそも、何年にもわたる読書漬けの研究生活によって明らかに運動不足の20代後半の男が、日々肉体を動かしながら生きている10代のエネルギッシュな若者たちの動きについていくのは難しい要求だ。それでも、甘いマークの隙を突いてスペースを見つけると、パスを呼び込み、キックフェイントでディフェンダーを交わしてシュート。すぐに得点できた。その後もポジショニングを工夫することで体力不足を補いながら、足の速い若者たちにパスを届け、ドリブルでリズムを作り、得点チャンスでは確実にシュートを決めていった。
 3点目を決めた頃からだろうか、チームメイトたちはボールを受けるとまず俺を探し、パスを出すようになった。「こいつに預ければ勝てる」という信頼を得た証拠だ。クラブレベルでは、エリートプレーヤーからは程遠かった。しかし、サッカーのおかげで、俺は今まで世界のどんな場所に行っても言葉を介さずにコミュニティに溶け込んできた。あらゆる辺境の地やストリートで通じ合えるこのスポーツの魔力が、高校生のときに交換留学でホームステイしたアムステルダム近郊で、修士号を取得したパリで、旅先のモロッコで、ルーマニアで、コソヴォで、南アフリカで、俺を救ってきた。それは、ここアマゾン熱帯雨林の地でも同じだった。
 しかし、15分くらいプレーすると、明らかに息が上がってきた。他の村人たちにとってはまだウォーミングアップのような時間だろうが、俺にとってはもう限界だった。「ちょっと待ってくれ……。少し休憩させてほしい、もう疲れすぎて動けないよ」。情けないが、音を上げて一度交代した。すると、横で試合を見ている女性たちのうちの一人が、声をかけてきた。振り向くと、ボウルに並々と注がれたチチャを俺に差し向けている。
 一般的なラガービールと比べても度数は低いとはいえ、チチャはれっきとしたアルコール飲料である。それをサッカーの試合の合間に飲んでしまったら、さらに動けなくなってしまうのではないか。俺の直感的な反応はそれだった。しばらく休んだらプレーを再開したかった俺は、疲れた状態でチチャを飲むことでこれ以上プレーできなくなってしまうことを危惧した。すると、躊躇している俺の考えを察したその女性は「問題ないわよ! これを飲めばエネルギーが出るんだから、飲みなさい」。周りの人たちも、口々に「飲んだ方がいい」と言ってくる。チチャを飲むことにすでに慣れてきてはいるものの、森の深くにある村に滞在するのは初めての経験だ。病院から離れた場所で誰彼構わずチチャをもらって飲むことで、自分の身体に問題を引き起こさないか、不安もあった。
 しかし、状況的に飲まないという選択肢はないように思えた。せっかくサッカーによって一目置かれるようになったのだ。ここでチチャを潔く飲み干して、さらに村人たちからの信頼を得よう。そう決めるとボウルを傾け、チチャを口に注ぎ込んだ。
 その後に起きたことは、俺の予想を遥かに超えていた。アルコールによって疲れた身体に酔いが回るどころか、漲るような力が湧いてくる。すぐにプレーに復帰すると、今まで以上に軽快に身体が動き、好プレーを連発した。そして、さきほど交代するまでに決めたゴールの倍の数をネットに叩き込んだ。
 この村に来るまで、先住民以外の人々にチチャの話をすると、「唾から出るバクテリアが危険だ。迂闊に飲むと死ぬ可能性もある」と、本気で忠告されていたのだ。「アマゾンで先住民が出す食べ物や飲み物には衛生上の問題がある」という言説は、森の外部に広がるメスティーソたちの社会では一般常識のように繰り返し語られている。その言説に対して、人類学者としてもちろん疑いを抱きながらも、ここまで現実が言説と乖離することがありえるということに驚嘆せざるを得なかった。
 「スティグマ」の一形態であると言えばそれまでではある。しかし、「スティグマ」はあくまで「事実の断片の概念的過剰肥大」から生じる社会的暴力であって、「事実の真逆」である必然性はない。チチャを飲んで覚醒した自分のプレーを前に、俺は全く道の見えない藪の中で、自分自身の肉体と感覚と思考を頼りにどの方向に進むべきか決断するしかない概念的かつ知的地点に立っているように感じた。この村に着いてから経験したあらゆる出来事が、この感覚を俺に突きつけていた。
 次の瞬間だった。右足を踏み出そうとした瞬間、靴の先が地面に引っかかるような体勢で強く躓いてしまい、つま先に激痛が走った。「ぐっ……!」と思わずうめき声を上げると、プレー中の村人たちに声をかけてピッチの外に出て座りこんだ。靴とソックスを脱ぐと、右足の親指の爪の中で内出血が起き、真っ赤に染まっていた。どうすることもできずしばらく痛みに耐えていると、スリティアクが駆け寄ってきた。「どうしたんだ? 爪が割れそうじゃないか。悪化するといけないから、セバスティアンに薬草で治療してもらおう」。彼女に促されて立ち上がると、名残惜しくも大活躍中だったサッカーを離脱し、セバスティアンたちの家に戻った。
 すっかり夜になっていた。村にはエスパシオ・クビエルトや少数の家を除いて電気が通っておらず、セバスティアンとパストーラの家にも電気はなかった。セバスティアンはライトを照らしながら俺の爪先を見ると、特に何も言わずに暗闇の中に消えた。薬草園から何かを取ってくるようだ。その間に、スリティアクが内出血を起こしている親指の爪の一部をナイフで切り、中の血を出した。「病院では内出血のまま放っておかれる。だけどそれではあとで菌が入ってきて身体を壊す。シュアールにとって内出血は放っておいてはいけないものなんだ。だから血を出した方がいい」と彼女は言った。
 セバスティアンが薬草園から戻ってくると、火を焚いてお湯を熱し、持ってきた葉っぱを鍋に入れた。数分待つと、その茹で汁をすくい取り、傷を洗う。そして、お湯から出した葉っぱを石で叩いて潰し始めた。葉っぱが数ミリの断片の塊となり、液体が十分に滲み出たところで、セバスティアンはそれを葉っぱの塊ごと俺の爪先に当て、患部に染み込ませる。「ありがとう。この植物は何?」と聞くと、「マイキュアだよ」とセバスティアンは答えた。「マイキュア? ヴィジョンを見るための? こんな傷にも使えるの?」と俺は驚いた。「そうさ。マイキュアは傷を治すこともできる。すぐによくなるさ」。その夜はすり潰したマイキュアを爪先に乗せたまま、眠りについた。次の日の朝、もちろん一夜にして傷が完治したわけではない。しかし、確かに腫れは引き、足をかばえば歩けるようになっていた。
 ケンクイム村では、3泊4日を過ごした。オリートやプラタノ、パパチーナなど、チャクラから取れるものをたらふく食べさせてもらい、家の目の前を流れるナマキム川で毎日水浴びをし、村人たちの家々を回ってチチャをいただき、内容が全くわからないシュアール語の会話を聞いて過ごした。夜はセバスティアンやパストーラ、スリティアクと焚き火を囲んで他愛のない話をした。ヨーロッパや日本の暮らしがどんなものか。「健康である」とはどういうことか。セバスティアンたちは森での暮らしについてどう思っているのか。家族の話、父や母や祖父母の話、兄弟姉妹や子どもたちの話。語ることは尽きないが、森では就寝も起床も早い。毎晩遅くとも21時過ぎには床に就き、朝5時台に起きた。
 村で過ごす最後の夜、村のみんながセバスティアンの家で見送りの会を開いてくれた。隣に住むディエゴやそのまた隣に住んでいるアレクシア、そしてサッカーを一緒にプレーした何人かの人たち、さらに子供たちも来た。アレクシアは歌い手であり、この会で歌を披露してくれるという。セバスティアンは上半身裸で足首までの長さの布地を腰に巻く、シュアール族の男性の正装と呼ばれる格好に、木の実と蛇の骨を組み合わせて作られたネックレスとビーズ製のヘッドバンドをして下の階に現れた。現代のシュアール族の女性の正装とされる青い布地のワンピースを着た村の少女たちを連れていた。
 「アキミ、君は明日この村を出る。ここで過ごした3日間が良い時間だったと願う。シュアール族は客人を送り出すとき、歌や踊りを行う。そして家の長は、自分の言葉で力を込めて相手を送り出す。これから僕たちがやるのは、そういうことだ。君は今から僕たちと一緒に、シュアールのリズムで踊る。この記憶を持ち帰ってほしい」。そう言うと、セバスティアンは身につけていたネックレスを取り外し、俺の首にかけた。「これは僕から君への贈り物だ。君にはリスペクトがある。僕たちの文化を知ろうという意志がある。だからこれを君にあげたいんだ」。突然のプレゼントに驚いたが、とても嬉しかった。このネックレスは、この3日間の間にもセバスティアンがよく身につけていたし、大切にしているものだと思っていた。それを自分にくれるということは、村での俺の振る舞いが深いレベルで受け入れられたという重要なサインを意味しているように感じた。
 セバスティアンは周りを囲む村人たちに身体を向け、シュアール語で気合いの入った言葉をかけると、アレクシアに目配せをする。アレクシアは自ら手拍子をしだすと、勢いよく歌い始めた。ハスキーでありながら木造の家の中で良く響く抜けの良いその歌声は、彼女が通常の会話をしているときとはまるで異なる印象を与えた。2つか3つのパターンのフレーズが何度も繰り返される歌で、聴いているうちに身体も同じ動きのパターンに飲み込まれていくような感覚になる。スリティアクが近くに座っていたので「何について歌っているの?」と耳打ちしながら聞くと「森にいる色んな動物たちの力を称える歌だよ。ジャガーやアナコンダ、他にも色んな動物たちがいる。彼らがいかにすごいか。彼らのようになりたい。そのことを歌ってるんだ」と彼女は答えた。
 歌が進むと、セバスティアンは両足を前後に肩幅よりやや狭い程度に開くような体勢で、上体を屈めては起こし、屈めては起こす動きを繰り返しながら、前後にステップを踏み始めた。そして、手に持った自作の槍も前後に振りながら、一歩進んでは半歩戻り、また一歩進んでは半歩戻り、円を描くように移動していく。青いワンピースを着た少女たちは、セバスティアンの動きとは異なり、直立の姿勢で両手を身体の前で軽く組み、両足を並べて小さいジャンプを繰り返しながら、一歩進んでは半歩戻る前後運動を行いつつ円を描いて進み始めた。それに村人たちも次々と加わっていく。男性たちはセバスティアンと、女性たちは少女たちと同じ動きをしている。「アキミ、行くぞ。私たちも踊るんだ」とスリティアクが言う。セバスティアンと同じ動きをし始め、俺も見様見真似でステップを踏む。スリティアクは女性で唯一男性と同じ動きをしていたが、彼女には大ぶりなその動きが少女たちの踊りよりも明らかに似合っていた。その頃には俺の爪先の怪我も回復していて、そこまで気にならずに踊りに参加することができた。
 俺は元来、人前で踊ったりすることが大の苦手である。自分の身体の動きが人の注目を集めることに耐え難い恥ずかしさを感じるのだ。確かに、マンチェスターの圧倒的にオープンでウェルカミングなクラブカルチャーに親しむことで、その傾向がかなり改善されていたことも事実である。しかし、それを差し引いてもこの夜ケンクイム村に発生した「レイヴ」で感じたのは、踊ることで周りの注目を集めてしまい、自らの身体的動きを見定められることへの忌避感の、一切の不在である。それまでもそれ以降も、大勢の人間が集まる空間で同様のレベルで身体運動の自由を感じたことは、一度もない。そこでは、踊りは誰かの目に留まることを前提とする「パフォーマンス」ではなく、その空間に存在する参加者全員が間主観的な関係の渦に巻き込まれることで一つの大きな「主体」を自己生成する、限りなく内在的な実践だった。
 俺は顕在意識の空隙に漂いながら、夢中になってステップを踏み、セバスティアンの後ろについていった。アレクシアは小休憩を挟みつつ、もう何十分も手拍子に合わせて歌っているだろうか。彼女は作曲家でもあるらしく、自作の歌を織り交ぜて歌っていた。しかし、その「新曲」たちは、決してより伝統的な歌と比べて「ポップ」なわけでも、「現代的アレンジ」が加わっているわけでもない。それがアレクシアの自作の歌だと言われなければ、おそらく外部の人間は気付かないだろう。アレクシアが口ずさむ歌には、シュアール語が持つ固有のリズムが、メロディが、魂が、逃れようなく染み込み、セバスティアンの身体と槍を前後に振っていく。アレクシアの歌に合わせて、時折ディエゴが「ピンギュイ」と呼ばれる植物性のフルートを奏でる。音階の選択肢が少ないにも拘らず、アドリブで生み出されるその音色はアレクシアの歌と干渉し合わず、むしろお互いを増幅させる。極限まで抽象化された引き算で成り立つサウンドスケープとムーヴメントが、俺たち全員をトランス状態に引き込んでいく。
 夜はこうして更けた。しかし、マンチェスターの工場跡地で行われるものと違い、「レイヴ」は朝まで続くわけではない。いつものように21時前後には村人たちは解散し、村は静寂に戻った。そして、翌朝にはスリティアクとともにプーヨのアパートに向けて出発した。バスの中で、俺は初めてアマゾン熱帯雨林の森にある村で過ごしたこの3泊4日の旅を振り返りながら、自分が今まで無意識のうちに奥底に敷いてきた根源的概念や前提の数々が不可逆的にへし折られたような、清々しくも不穏な感情を覚えていた。今後長期的に森の村に滞在しながらフィールドワークを行っていくにあたって、セバスティアンとパストーラがいるケンクイム村が最適な場所だという直感は、このときすでにあった。しかし、想像を絶する広大なアマゾン熱帯雨林で営まれるありとあらゆる他の先住民たちの生のどこかに、俺がまだ知らない、さらなる衝撃を受けるような光景が存在するとしたら? 「そんなことはあり得ない」と、現時点の俺がどうして言えるだろうか? セバスティアンの村にもう一度向かう前に、俺にはまだ踏むべきステップがあった。

 

1. Heckler, S.L. 2004. ‘Tedium and Creativity: The Valorization of Manioc Cultivation and Piaroa Women’, Journal of the Royal Anthropological Institute (N.S.) 10: 241-259.

2. 例えば以下を参照。Overing, J. 1986. ‘Men control women? The “Catch 22” in the analysis of gender’. International Journal of Moral and Social Studies 1: 2, summer, 135-156.

3. 以下を参照。McCallum, C. 2001. Gender and sociality in Amazonia: how real people are made. Oxford: Berg.

4. 例えばヴィヴェイロス・デ・カストロは、アマゾン先住民社会を動物との捕食的関係、すなわち「venatic ideology=狩猟イデオロギー」が支配する社会であると表現している。下記論文を参照。
Viveiros de Castro, Eduardo. 1998. “Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism.” The Journal of the Royal Anthropological Institute 4(3), pp. 469-488, p. 472.

5. McLachlan, Amy Leia. 2011. ‘Bittersweet: The Moral Economy of Taste and Intimacy
in an Amazonian Society.’ The Senses and Society 6(2): 156-176.

6. 英ガーディアン紙による以下記事を参照。https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2003/jul/13/foodanddrink.features18

7. Descola, Philippe. 1986. La nature domestique: symbolisme et praxis dans l’écologie des Achuar. Paris: Éditions de la Maison des Sciences de l’Homme. p. 170.

8. Shepard Jr, Glenn H. “A Sensory Ecology of Medicinal Plant Therapy in Two Amazonian Societies”, American Anthropologist 106 (2), 252-266.

9. Miller, Theresa L. 2019. Plant Kin: A Multispecies Ethnography in Indigenous Brazil. Austin: University of Texas Press.

10. Stoller, Paul. 1989. The Taste of Ethnographic Things: The Senses in Anthropology. Philadelphia: University of Pennsylvania Press.

11. Rasmussen, Susan. 1999. “Making Better ‘Scents’ in Anthropology: Aroma in Tuareg Sociocultural Systems and the Shaping of Ethnography.” Anthropological Quarterly 72(2), 55-73.

12. Rasmussen, Susan. 2001. Healing in Community: Medicine, Contested Terrains, and Cultural Encounters among the Tuareg. Westport: Bergin & Garvey.

13. Etkin, Nina L. 2006. Edible Medicines: An Ethnopharmacology of Food. Tucson: The University of Arizona Press.

14. Bennett, Bradley C., et al. “Ethnobotany of the Shuar of Eastern Ecuador.” Advances in Economic Botany, vol. 14, 2002, pp. i–299

15. ibid, p. 1.