リキッド・アマゾニア 太田光海

2023.11.30

 人の列が前に進むにつれて、エミリーの姿が少しずつ遠くなっていく。かすかに手を振っているのがわかる。もう少しだけ、手持ち荷物をトレイに出す手元の作業を遅らせれば、もう一度目を合わせることができるかもしれない。最後に目線を外し、身体を前に向ける瞬間は、自分が決めなければならない。彼女がくれた、ハガキ封筒の糊付けを開いた裏地全面に書かれた手紙にポケットの中でそっと触れ、流れる涙に気付かれる前に顔を逸らした。全身の血をあえて波立たせるように、意識に強度を込めた。これから、俺の人生最大の博打が始まる。
 2016年8月、俺はパリのシャルル・ド・ゴール空港にいた。人類学の博士論文執筆のためのフィールドワークに向け、エクアドル共和国の首都キト行きのフライトに乗るためだ。旅の最終目的地はアマゾン熱帯雨林だった。そこで俺は、「先住民」と呼ばれる人々の何らかのコミュニティを探し出し、信頼関係を築き上げ、1年間ともに過ごし、彼らと彼らを取り巻く自然環境、すなわち森との間の関係性とその現代的変容の諸相について、人類学的研究を遂行する使命を負っていた。
 当時の俺の拠点は、イギリス北部の街マンチェスターだった。その後の世界の行く末を決定的かつ不可逆的に変えた産業革命の震源地であり、それ故にマルクスとエンゲルスがその思考の核を醸成した現場であり、またアラン・チューリングが最初期のコンピューター・サイエンスを開発した地であり、エメリン・パンクハーストがフェミニスト集団「サフラジェット」を組織し、ジョイ・ディヴィジョンが結成され、イアン・カーティスが自殺し、マンチェスター・ユナイテッドとマンチェスター・シティによって二分される街だ。マンチェスター大学社会人類学部博士課程に所属していた俺は、ヨーロッパ諸国はもちろん、北米、中南米、中東、ロシア、南アジア、オセアニアなど、世界中から集結した数十人の同僚たちと、博士号取得を目指して互いを励まし合い、研鑽する日々を送っていた。
 エミリーとはマンチェスターに移住する前に4年間住んでいたパリで2011年に出会い、紆余曲折を経た末に恋人関係になって1年が経っていた。日本美術史の修士論文を彼女が書き上げる間、マンチェスターの緑深きワリー・レンジ地区でしばらく同棲していたが、その部屋を引き払ったあと、エクアドル出発直前の夏にパリの彼女の実家で最後の時間を一緒に過ごした。そして、ヨーロッパに置いていく分の荷物を、元々彼女の祖母が住んでいたというブルターニュの別荘に置かせてもらっていた。シャルル・ド・ゴール空港から出発したのは、そのためだ。
 エミリーとは主にフランス語で会話していたが、日本での1年間の留学を経た彼女は日本語も流暢に話せた。元々画家志望で、6区のセーヴル通り沿いにあり、ボン・マルシェからほど近い美大予備校に通っていた経験もある彼女は、1年目にボザールの試験に落選したあと、パリ大学の日本語学科に進学する決断をした。修士課程では、藤田嗣治をテーマに研究していた。ひょうきん者でユーモアに溢れ、予測不可能で、それでいて繊細かつ聡明なエミリーの魅力に、俺は結局8年間も取り憑かれることになる。
 アマゾン熱帯雨林への出発まで数週間を切ったとき、どちらからともなく、結婚の話が出た。お互いのことを愛しているのは前提だが、俺がアマゾン熱帯雨林から帰ってきたあと、さらにイギリスでの博士課程を終えたあとのことを考えたとき、今結婚してしまった方がフランス永住権の取得までの時間が短縮されるし、彼女も日本に長期滞在しやすくなると2人で考えたからだ。フランスでは、結婚制度はあくまで紙切れの製造機に過ぎない。しかし、その紙切れが人生の可能性を広げる。だからその紙切れを上手く使って、自分たちが幸せになるために利用する。制度とは徹頭徹尾そうやって付き合うのがフランスの流儀だ。
 考えを固めたあと、エミリーの親にすら結婚することを告げずに俺らはすぐ区役所に行った。「親に伝えなくて大丈夫?」と聞くと「なんで伝える必要があるの? 私がしたいことをただするだけなのに」とエミリーは不思議そうに答えた。役所に着いて、「結婚届を出したい」と要件を伝えると、どうやら俺がEU圏外国籍のため、その場ですぐにできないようだ。聞くと、日本大使館にまず所定の申請書を提出し、必要書類を発行してもらう必要があり、それには3ヶ月かかる。俺とエミリーの結婚は、出発前には成立不可能だということがあっけなくわかった。
 「何ヶ月か経ったら、君がアマゾンに来ればいいよ。その時までには滞在先の先住民の村も見つかっているはずだ。もしかしたら彼らは独自の結婚の儀式を持っているかもしれない。もしそうだったら、アマゾンでそれをやってみない?」と俺は伝えた。「1月の終わり頃に行くよ。アマゾンで結婚の儀式をするのは素敵だし、やりたい。でも、蚊に刺されるのが嫌だから長期の滞在は気が向かないな。せっかくエクアドルに行くなら、私はガラパゴス諸島に行きたいの」とエミリーは答えた。「じゃあ、ガラパゴス諸島にも一緒に行こう」、と俺は返した。
 アマゾン熱帯雨林に行くのは、俺にとってこれが初めてだった。それどころか、南米に足を踏み入れたことすらなかった。これまでそれなりに世界各地を旅してきたが、未踏の大陸について想像を巡らせることは、どれだけオーディオ・ヴィジュアルな情報にまみれた現代においても、容易ではない。
 とりわけ、アマゾン熱帯雨林に関するイメージは、極端に偏りがあった。目を閉じて思い浮かべてみると、超望遠レンズで捉えられた首をくるくる回しながらキィキィ鳴く小型の猿や赤と青の羽で覆われたオウム、蛇のようにうねる流れの緩やかな川を上空からドローンで捉えた壮大な眺め、顎や耳に動物の骨のようなピアスをつけ、おかっぱのような髪型でこちらを睨みつける、ほぼ裸に近い先住民族の姿が見える。
 俺の脳内のアマゾン熱帯雨林はどれもこれも紋切り型で、これらのイメージの蓄積をもたらした映像や写真は、画角やレンズの焦点距離すらほとんど同じなんじゃないかと勘ぐるくらい、凡庸だった。その凡庸さは、アマゾン熱帯雨林自体が凡庸であるかのように、俺を含めた多くの人間を錯覚させていた。
 アマゾン熱帯雨林に一度も行ったことがない自分が、なぜこんなにも現地を「知っている」かのように感じるのだろう? 暗闇の中で、「それが何か」だけがわかる感触を得てしまったときのような、底冷えする恐怖のようなものを事あるごとに感じていた。そこには、身体がとある実体と地続きのものとしてこの世界に存在するという感触が、決定的に欠落していた。アマゾン熱帯雨林は、率直に言って「つまらない」研究対象だった。猥雑な都市に現出するあらゆる不条理や抵抗、エクスタティックな刺激に比べて、あまりにも物事が一定すぎるように当時の俺には見えていた。
 南米に行く下準備自体は、3〜4年をかけて、今思えば毎日ひとつまみの砂を集めるように行ってきた。例えば、パリで人類学の修士課程に在籍していた時から、研究の合間を縫って1日15分だけスペイン語の勉強をしていた。スペイン語のラジオを聴き流しながら、気になる単語や文法事項を調べ、ノートに書く。15分きっかりにセットしたタイマーが鳴ったら、何も考えずに切り上げ、また次の日に取り掛かる。元々語学が得意なことに加え、フランス語で研究ができていたこともあり、同じロマンス語系言語であるスペイン語を身に付けるのは、最悪現地に行ってから数ヶ月で可能だろう、と思っていた。カメラ好きの間で囁かれる「レンズ沼」なるものをあえて引き合いに出すならば、言語ほどの深海のような「沼」を自分は知らない。1日15分という厳密な時間設定は、むしろこの沼に引き込まれて我を失わないためのセーフティネットだった。
 明瞭な意識を伴ってアマゾン熱帯雨林に行くと決めたのは、出発から2年以上前の2014年、パリに住んでいた時のことだ。当時、俺はパリ郊外における主に移民出自の少年たちとサッカー実践の関係性について、ポストコロニアリズムと都市人類学の手法を用いて修士論文のための研究をしながらも、世界に対してやり場のない怒りを抱えながら生きていた。そして、その受け皿が世界のどこにもないと感じていた。
 その怒りの最大の発信源は、紛れもなく東日本大震災と福島第一原発事故に端を発する、一連のカオスだった。2011年3月11日は俺と日本、そして世界との関係性を根底から粉々にし、永遠に変えた。それまで自分が崩れない基盤だと思っていたものが崩れ落ちた。より正確には、その「基盤」は、それが基盤であることすら身体感覚の次元で認識できていないことだった。それは自分たちが生きる糧の源となっている食物や水を与えてくれる土地や海、河川、大気、そこに住まうあらゆる生命体や事物が織りなす繊細なバランスによってのみ成り立つ生態系であり、俺はそれらがどのような相互作用的エコシステムによって他でもないこの俺の生命機能を支えてくれていたのか、終ぞ理解しないまま、20年以上の時間を生きてきたのだ。
 それらが放射能によって汚染されたとき、何千年や何万年にもわたるスパンで、俺たちはその責任を負い続けなくてはならなくなった。マンハッタン計画が生んだ原子爆弾が広島・長崎の一般市民50万人以上を凄惨な死に追いやって以来、生み出してしまったこの死の技術を非難を浴びずに効率よく収益化することを目的として戦後に「原子力の平和利用」の名の下に推進されてきた結果が、日本国内だけで54基、世界を見渡せば400基以上存在する原子力発電所だ。1953年にアイゼンハワーが国連総会で行った原発の推進に関する演説に真っ先に応えた中曽根と、当時の読売新聞社のトップにいた正力松太郎が日本におけるその原動力となり、俺が生まれた1989年時点で、すでに日本は世界屈指の原発大国になっていた。
 ここでハッキリさせておくが、俺の世代はこの選択をしていない。気付いたらこんな世界に生まれていたんだ。もし俺が原子力発電やそれから出る核のゴミがどのような帰結をもたらすかを事前に知っていたら、絶対に賛成しなかっただろう。もし、俺らの世代が原子力発電の導入を決断してしまっていたなら、少なくとも俺は導入に反対した人間の1人として存在することができる。だが、選挙権を得たばかりの俺の目の前に広がるのは1世代では到底背負いきれない死の残骸であり、今この瞬間も、そしてこれからの長い未来にかけても、俺たちはさらなる放射能汚染のリスクと隣り合わせの状況に立たされていく。
 福島の原発事故が起きたあと、おびただしい数の御用学者たちがメディアに登場し、しきりに「放射能は危険ではない」という言説を流布し始めた。そして東電は炉心溶融の実態を覆い隠すためにあらゆる手を尽くし、社員たちは避難者の人たちが仮設住宅で寒さを凌ぐ中で年末ボーナスをもらっていた。すでに地震を始めとした災害による事故のリスクが何度も指摘されていたにも拘わらず、その度に「原発は安全である」という戯言を突き通した末にこの歴史上最大級の原発事故は起きた。しかし、自らの虚言と怠慢によってこの人災を引き起こした人々は誰一人として責任を取らず、のらりくらりと追及をかわしながら生きながらえていた。屍から借りた仮面を被ったような無表情の人間たちを見て、初めて自分が今まで生きてきた世界はゾンビたちの巣でもあったのだということに気がついた。
 それまでは、暖簾に腕押しのような政治家たちの態度に少年のときから辟易しつつも、自分たちではデザインできなかったもののGHQから与えてもらった議会制民主主義の中でより公正で適切な政策が打ち出されれば、物事は少しずつ良くなっていく、という淡い希望をまだ抱いていた。しかし、ゾンビたちとその醜い巣の実態をぼんやりと覆い隠していた煙幕は3・11の衝撃によって吹き飛ばされ、物事はそもそも議会制民主主義などという虚構から成り立っているわけではない、という予感が確信に変わった。それまでは死に体ではありつつも体裁として民主主義が成り立っているように見せかけていた議会では、ゾンビたちが気だるそうに起立し、着席し、居眠りし、挙手し、自分の言葉ではない言葉を相手ではない相手に向かって放ち、主要メディアはその姿を無批判にひたすら情報のベルトコンベアに載せていた。日本国憲法が説くような民主主義は、ここには存在しなかったのだ。
 これら全てに対して、俺は固く誓った。死ぬまでこの人間たちを絶対に許さないと。どれだけほとぼりが冷めたように見えても、どれだけ世論が俺のような意見を持つ人々を冷笑し、虐げ、排除しようとも、決してこの痛みと怒りを忘れないと誓った。御用学者たちも、今の政治を牛耳る政治家たちも、近いうちにこの世を去る。彼らは自分たちがもたらした害悪に対する責任を一切取らないまま、俺たちに未来への債務を残して死んでいく。彼らの後始末をするのは俺たちの世代であり、俺たちの子供たちの世代であり、俺たちの孫たちの世代だ。高度経済成長を謳歌し、科学技術の進歩をひたすら能天気に信じ、今も経済成長さえすれば全ての問題が解決すると思い込んでいる彼らを、俺は絶対に許さない。絶対に乗り越えてやる。絶対に、彼らが提示してくれなかった答えを、完璧じゃなくていい、命に替えても次の世代に残してやる。そう誓った。少年の頃に一度読んだアーレントの『暗い時代の人々』をもう一度読んでみると、そこに見つけたのはもはや過去から学べる教訓としての描写ではなく、俺ら自身の姿だった。
 修士課程でパリに向かったのは、学問の本場で修練を積みたいという純粋な想いももちろんあったが、あまりにも頻繁に情報が隠蔽され、めまいを覚えるような言語破壊が横行し、進行中の放射能のリスクに対して正面から向き合おうとしない日本に対して危機感を覚え、自分の身を自分で守るために避難したい、という理由もあった。当時、ヨーロッパやアメリカのメディアの記事を読む方が、日本語で情報を得るよりも遥かに早く、正確だった。放射能による健康被害の影響を最も強く受けるのは細胞分裂がより活発な子供であり、俺たちのような若年層である。福島の原発事故を「想定外」の一言で済ませるような老齢の男たちが権力を握るこの社会で、例えば数年後に自分が突然癌や白血病だと診断されたら、果たして後悔なくそれを受け入れることができるだろうか?と想像した。いつか次の世代に残せる何かを創造するために、その時まで生き残るために、俺は誰にもこの気持ちを打ち明けることなく、2012年にフランスに移住した。
 だが、フランスは決して理想郷などではなく、むしろ矛盾が矛盾を呼ぶことで俺の精神は病み、分裂していった。そもそも、フランスは核兵器保有国にして原子力発電大国である。国内電力の70%を原子力で賄い、さらに諸外国に販売していた。また、サルコジ大統領は、福島第一原発事故を巧妙にビジネスチャンスに変え、フランス国営原子力企業であるアレヴァ社製の多核種除去設備(ALPS)を汚染水処理のために日本に売り込んでいた。フランスでは確かに日本政府や東電の事故に対する対応への真っ当な批判が行われていたが、それには同時に「自分たちなら上手く対処できる」というパターナリズム的メッセージが込められていて、この地球という惑星において人類が原子力を乱用すること自体に伴う責任や、その根源的な不確実性についての省察はなかった。有り体に言えば、彼らが日本を見る視線は当時同時進行で起きていた「アラブの春」に伴う混乱に対するものと似ていて、「真正の近代性」を持ち得なかった社会が理性を保てず自壊していく哀れな様子として映っていた。
 日本を逃れて移住した先ではあったが、俺は巨大な自然災害が起きにくい地理的環境にあることにかまけた先人たちが作り上げたフランス、ひいてはヨーロッパ的近代にも限界を見ていた。自然をただ自然でいさせることができず、自然を支配することに疑問を抱かず、「まともな自分たちなら支配を全うできる」とする姿勢は、今後の世界で必ず立ちいかなくなる。福島第一原発が俺に教えたことは、日本の体たらくだけではない。それは、知識による自然の支配を掲げたフランシス・ベーコン以来この現代世界が指し示している大きなベクトル自体が、少なくとも人類という種にとっての早期の破滅にしか向かっていないという切実な事実だった。俺は決して、「まともでない国からまともな国に移住した」のではなく、あくまでまともでない世界そのもので、当座の生存戦略を選んだに過ぎないのだ。
 俺は残りの人生を使って、東日本大震災と福島第一原発事故が自分にもたらした衝撃と消えることのない深い傷に向き合うと決めた。いや、向き合わざるを得なかった。戦争を経験した人たちが一生その経験と向き合わざるを得ないように、俺にとっての世代的条件はこの大地震と原発事故なのだと認識した。だが、どこにもぶつけようのない湧き上がる怒りや絶望感、自分に対する抱えきれない不甲斐なさの感覚を、どうやって意味あるものに昇華すればいい? 最初は何もイメージが湧かなかった。自分にしかできないことは何なのか、どうしてもわからなかった。
 フランスに来てからの2年間、子供の頃から元々ずっと興味があり、学部時代から続けていた移民という現象を着想源にした人類学的研究をしていたが、3・11を経た今、もはや自分にとって最も重要な探究すべきことではなくなっていた。それに薄々気付きながらも、なんとかヨーロッパに踏みとどまり続けるために研究を続けた。しかし、やがて自分の関心領域は誤魔化しが効かなくなるまでに変化し、ついには修士課程の研究がほとんど苦痛にしか感じなくなってしまった。
 それに気付いたとき、少なくとも今後数年間を生きるための指針を一気に失い、先が何も見えなくなってしまった。一つだけ確かなのは、俺がこの傷を乗り越えるためにするべきなのは、祈ることではなく、徹底的な厳密性と具体性とポイエーシスを伴った新たなパースペクティヴを、自らの身体を使って創り出すことであり、それ以外の何物でもない、ということだった。
 俺はこの目的を遂行するために、手段を選ばなかった。どんな手段を使ってでも、世界の全てを敵に回しても、やり遂げると決めていた。
 震災と原発事故の自分の思考に対する影響は、あまりに深かったために、それが具体的な何かとして現前するまでに丸3年を要した。それまでは、とにかくがむしゃらに放射線被曝の歴史や原発の成り立ち、日本における電力を取り巻く社会構造、あるいは原子力をめぐる日米の主従関係などについて多角的に調べつつ、当時重要な情報ソースだったツイッターを追いかけていた。東電や政府の新たな隠蔽や不祥事が発覚するたびに怒りに打ち震え、絶望感に苛まれていた。特に、中川保雄『増補 放射線被曝の歴史——アメリカ原爆開発から福島原発事故まで1』や矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか2』といった著作からは、多くを学んだ。永劫的に搔き回され続ける答えのない認識のパズルを、自分自身の手で並べ直す長い旅は、まだ始まったばかりだった。
 これらの著作を読むことで原発を取り巻く歴史的状況に対する解像度が高まった一方、同時に芽生えてきたのは、このまま日本における原発危機を政策論的に捉えるだけでは、もっと奥深くに根を下ろしている、今を生きる世界中の人間たちが共有する諸問題の本質を捉えることができないのではないか、という直感だった。
 例えば、放射能による被曝を避けるのは端的に言えば自らの健康のためだが、健康の保持は日々の食事や飲み水、日頃吸っている空気、メンタルヘルス、着ている服、使っているシャンプーや洗剤、人間関係など、自分を取り巻き、影響を与えるあらゆる物質的・精神的要素との不断の交渉と邂逅の集積である。
 3・11が起きたとき、俺は好きな古着やカメラや本を買うために食費を削り、パスタに出来合いのトマトソースをかけただけのものやインスタント食品ばかりを食べていた。野菜は近くのスーパーで手に入る一番安いものをいつも買っていて、一番安いからという理由で鶏の胸肉を買い、塩と胡椒だけで味付けをして食べていた。その食品がどこから来たもので、どんなプロセスで生産されたものかについて、思いを巡らせることなどなかった。
 ハンドソープやシャンプーはスーパーで最初に目に入る一番安いもので、よく使っていたのはパンテーンだった。古着は好きだったものの、それは純粋にデザインや風合いの問題で、ファストファッションの舞台裏でどんな物質が使用され、どんな労働者の搾取が起きているかについて、深く想像することができなかった。また、エミリーはベジタリアンだったが、彼女が時折話してくれる家畜たちが置かれる劣悪な環境や大量に投与される抗生物質、ホルモン剤などのリスクについて、頭では一度理解するものの、「動物が可哀想」という理由以外で自分がどのようにその問題と向き合えばいいのか、わからなかった。そもそも、これまでの人生でずっと食べてきたのに、肉なしで生活するなんてできるわけないと思っていた。
 3・11がもたらした放射能被曝という身に迫った脅威は、まるで『不思議の国のアリス』のように、今までそうだと信じ込んできた世界が錯視の結果に過ぎなかったのではないかと目が醒めた感覚をもたらす一方で、俺の物質的生活とそれによって生成された身体は、未だに「向こう側の世界」にずっぽりと根を下ろしていた。それは都市的で消費主義的な、目的論的かつロゴス中心主義的な身体の在り方であり、物事を数値やスタイル、カテゴリーやイデオロギーの問題としてしか捉えられない、身体と外界の間に破ることのできない膜が張られた状況下における生である。それは、究極的には主客の分化を前提とし、世界を同定可能な固形物として捉えるデカルト主義的身体であり、ボードリヤールの言う「シミュラークル」に囲まれた生であり、シミュラークルへの反発自体が別個のシミュラークルに回収されていく永遠の流転の中にある生である。
 3・11によってもたらされた途方もない「夢から醒めた夢」に対峙し、もう一度この世界に生まれ直すためには、自分と世界の間に張られた膜を切り裂く必要があった。そして、今現在において最も自分の身体性から遠い、圧倒的な自然環境の中に没入しながら生きている人々と、ある種の結託関係を結ぶ必要があると思った。同時に、そのような環境が日に日に失われつつあるとしたら、その只中で生きる彼らは今何を考えているのか、知りたいと思った。
 特に、アメリカ合衆国でウラン採掘に先住民のナヴァホ族の人々が動員され、肺がんによって多くの死者をもたらしたと知ったとき、これは単に国家間の支配関係や、日本国内において周縁化された福島を始めとする諸地域の搾取の問題だけに還元できることではなく、よりグローバルでトランスナショナルな病理と暴力、そして何よりも人間と地球の間の関係性の問題として再構築する必要があると確信した。
 ウラン採掘のために強制労働に駆り出され、死に追いやられたナヴァホの人々に想いを巡らせるうちに、少しずつ自分のやりたいことが見えてきた。俺はそれまでの都会的人生の中で口に出したこともほとんどない「人類と大地」の関係について、実践的体験を通じて探究したい、という自分の気持ちに初めて明快な感覚で気付いた。これこそが俺がやりたいことだ、これを成し遂げるために命を投げ打つ覚悟がある、そう自覚したとき、重苦しく映っていた世界が少しだけ明るくなり、身体が軽くなった。
 アマゾン熱帯雨林に行きたいと決断したのには、いくつか理由がある。まずひとつ目は、自給自足生活をしている先住民コミュニティと関わりたいと考えていたから。2つ目は、「種の多様性」が大前提となる空間に身を置きたかったこと。3つ目はアマゾン熱帯雨林が世界最大の森林地帯であり、その趨勢が地球にもたらすインパクトは比肩するものがないほど大きいこと。4つ目は、フィリップ・デスコラやエドゥアルド・コーン、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロなど、現代人類学の潮流に最も大きな影響力を持つ人類学者たちの多くがアマゾン熱帯雨林の先住民について研究していたから。
 彼らはそれぞれに異なる立場を保持しつつも、「存在論的転回」と呼ばれるある種の知的ムーヴメントを牽引する存在として見なされていた。俺は「自給自足生活をしている先住民」に興味を持ち始めてほどなくすると、書店や図書館で彼らの著作に知らず知らずのうちに手が伸びるようになった。なかでも決定的だったのは、2013年に出版されたばかりのコーン著『森は考える——人間的なるものを超えた人類学』に出会ったときだ。当時、在籍していた社会科学高等研究院(EHESS)で参加していたゼミで大きな話題となっていたこの本は、序章を読むだけで血流が高まった。「間違いない。この人と対話するために俺の次のステップがある」と確信した。
 しかし、マンチェスター大学で博士課程に進学し、より幅広い先行研究の精読を進めていくにつれて、俺は徐々にコーンを含めた「存在論的転回」周辺の人類学者たちに対して批判的な立場を取るようになる。一言で理由を述べるならば、彼らの議論には、「自分たち自身の存立条件である土地や領域が脅かされる可能性がある」という危機感を微塵も感じなかったからである。彼らはしきりに現代のエコロジー危機を自らの思考の前提に置いていると語る。しかし、彼らの頭の中のイメージでは、それは彼らが住む島の外の話であり、自分たちにそのカタストロフィの実害が迫ってくる可能性については全く考えていないのだ。彼らの視線の先には、広大でありながらも苛烈な消失過程にある、決して恒常的存在を保証され得ないアマゾンの森ではなく、観察対象として永久にサンプリング可能な、試験管の中に入ったアマゾンしか見えていない。だから彼らは、「潤沢な森」という存在を前提から外して議論することができない。
 アマゾンの森が失われている。そこに住む人たちが自分たちの土地を追われたり、殺されたりしている。その裏には血なまぐさい不条理と暴力に彩られた諸活動がある。その事実を報じるニュースや著作に触れて俺が感じることを、彼らの研究書から読み取れることはなかった。以前の自分なら彼らと近い感覚で世界を眺めていただろう。世界中で悲劇が起こっているが、自分たちの領分は安全なところにある。フランス人たちがよく皮肉を込めて言うように、「ここはアフガニスタンではない!= On est pas en Afghanistan non plus!」、という大前提を共有していた。だが今は違う。俺は自分や家族、友人たちの住む土地が破滅的状況に陥り、汚染され住めなくなる可能性を差し迫った未来にありえるものとして想定している。その点に関してはむしろ、俺は西洋の知識人たちよりも、アフガニスタン人やアマゾン熱帯雨林に住む先住民の人たちとより近い感覚を共有しているのではないか、と感じた。
 だが、彼らに対する批判意識が芽生えたのはいいが、困ったことに彼らは今をときめく人類学の大スターたちである。アマゾン熱帯雨林における先住民研究の文脈で、俺のような一介の博士課程の学生がフランス語あるいは英語で彼らを批判しようとしても、西洋アカデミズムの文脈ではあたかも全く的はずれな論理であるかのように四方八方から丸め込まれてしまうのはそれまでの経験から身体知の一つとして刻まれていた。同じカンファレンスの場にいても、彼らが身を置いている世界と俺が身を置いている世界は、全く異なるものだった。そして、日本と比較しても決して風通しが良いとは言えず、むしろ深刻な白人男性主義が蔓延する西洋アカデミズムの序列の中で、俺が正面から彼らに議論を提示することは困難だと考えた。
 しかし、同時に興味深いのは、彼らがまさに現代人類学の議論を牽引する存在であるがゆえに、西洋に起源を持つ人類学という学問自体の現時点での思考可能性の限界を同時に露呈してくれている、という点だ。彼らに見えていない、ポッカリと穴の空いた認識の次元は、そっくりそのまま世界的文脈における人類学自体のアポリアでもある、ということだ。だからこそ、俺は彼らがアマゾン熱帯雨林の先住民世界を観察しながら現在進行系で打ち出す議論に並走し、目一杯吸収しながら、同時に彼らの限界を見極め、その先を見据えることを、博士課程での至上命題としたかった。彼らと近いフィールドである、エクアドル共和国におけるアマゾン熱帯雨林を研究対象として選択したのはそのために他ならない。
 それは、研究を通して彼らの限界のその先に到達したいという意欲と同時に、人類学という今でも俺が重要視している学問の最も熱い部分の髄液を吸収することが、どのような展開になるにしても今後の俺の活動自体にとって大きな意味を持ってくると確信していたからだ。
 俺はマンチェスター大学に提出した博士課程研究計画の中で、彼らを正面から批判するのではなく、彼らからインスピレーションを受けながら新たに視点を付け足す、という柔らかいニュアンスを打ち出した。そして、研究計画は無事受け入れられた。
 俺の最優先事項は、人類学で博士号を取ることでも、学問の世界で周りから称賛されるようなキャリアを形成することでもなかった。俺の目的は、この止まることのない瓦解とアポカリプスの只中で、言説的システムに阻まれることで外部に伝わってこないある種の生の諸感覚を、俺の持てる人類学的知識やスキルを流用することでアカデミズムの牢屋から解放することだった。そのためには、西洋アカデミズムをしたたかに出し抜き、自分の魂を死守した上で、飼いならされずに結果だけを上手く持ち帰る必要があった。自分の置かれた脆弱な立場に耐えきれず、心細く押しつぶされそうなときに俺を救ったのは、W・E・B・デュボイス、フランツ・ファノン、エドワード・サイード、エドウィージ・ダンティカ、エメ・セゼール、エミール・シオラン、あるいは岡本太郎といった、限りなく広義の意味における亡命的環境下で、強靭な意志と思考と共に創作し、生き抜く人たちの言葉だった。
 西洋の人類学は、白人以外の人間が自らのルーツ以外の研究をすることを極端に嫌う。そうさせないために、様々なレトリックを用いて誘導し、脅し、アフリカやアジア、南米、太平洋諸国、東欧、あるいは民族的マイノリティ出身の若い研究者たちを「自文化の情報提供者」として囲い込む。それは例えば「君のやりたい研究はすでに他の人がやってしまっている。君は自分のルーツという強みを活かすべきだ」という言葉や「君のパターンは今までにないから、将来のキャリア形成に響く」という気遣いを装った無意識の脅しに表れる。
 インド出身のアフリカ研究者や、アフリカ出身の東南アジア研究者や、南米出身のオセアニア研究者が極端に少ないのは、このように堅牢に組み立てられた白人主義的な知の権力によって、人類学的想像力が今日この瞬間も制約されているからである3。俺はこのようなアドバイスを聞いて悩んだ末に研究テーマを自分の純粋な心の声に従って選ぶのではなく、キャリア戦略的に選ぶという道を取った人たちの心理状態が痛いほどよくわかる。アフリカから全親族の期待を背負ってヨーロッパにやってきた学生たちが、キャリアの成功を最優先させることは、親たちが必死に名門大学に子供たちを送ろうとする東アジア諸国の現状と照らし合わせても理解することは難しくない。そして、ヨーロッパの教授陣たちは、ヨーロッパという「知の首都」に世界中から「上京」してくる学生たちのその心理を良くわかっていた。
 その上で、俺は心の中で自分に言い聞かせた。俺の目的はあなたの思っているそれじゃない。俺の目的は、俺の命を投げうってでも遂行しなければならない。あなたのアドバイスは聞かない。キャリアの悩みなどはるかに越えた、一生抱えざるを得ない傷を俺が抱えていることを、あなたは微塵も想像できないだろう。「俺はあなたが思っているような男ではない= I’m not the man you think I am」(ザ・スミス)。俺はあなたが想像することもできない、これまで誰も歩まなかった道を歩む。悪魔に魂を売ってでも。
 マドリード経由でキトに到着し、マリスカル・スクレ国際空港から出ると、当たり前だがそこは全てスペイン語の世界だった。建物や店、イミグレーションで並ぶ自分の周りにいる人たちから、自分の知っている世界とは明らかに違う色彩感覚や情動を感じる。結局のところ、自分の身体はパリや東京の成分が濃厚で、冷たく、固く、青白くこわばっていた。
 Airbnbで予約していた宿に向かうタクシーに乗ると、運転手とのスペイン語での対話が始まる。マンチェスターでチリ人の博士課程の同僚、フリオとバレリアに時々スペイン語で話してもらっていたものの、彼らの言っていることがほとんど理解できなかったため、自分のスペイン語力はまだ日常会話に耐えられるレベルではないと思っていたが、驚いたことに運転手の言葉のほとんどが理解できた。拍子抜けはしたが一気に自信を摑んだ俺は、ぎこちないイントネーションではあったが宿に到着するまでの運転手との会話をスペイン語のみで乗り越えた。
 フリオはよく「俺たちチリ人のスペイン語はマジで酷いから、わからなくても気にするなよ」と冗談交じりに言っていたが、ここまで南米の他の地域のアクセントと差があるとは思っていなかった。子音が頻繁に省かれ、発音のスピードも異常に速いチリ訛りのスペイン語で鍛えられていた俺にとって、緩やかで癖のないエクアドル訛りのスペイン語は、すでにかなりの部分を聴き取れるようになっていたのだ。
 キトにはエクアドル到着後の最初の2週間滞在した。高台に位置し、有刺鉄線で覆われ、掃除婦が出入りする宿の邸宅を毎朝出ると、マスタードやスカイブルーが映えるヴィヴィッドでくすみがかった南米特有の色空間に身を浸しながら市街を徘徊して回った。街中のスーパーや小売商店に出入りし、現地の物価や売られているものを注意深く観察し、大衆食堂で地元の労働者たちに混じってセコ・デ・ポージョ(鶏肉のシチュー)やロクロ・デ・パパ(ジャガイモのスープ)を食べた。道端に立つ、ポンチョとハットを身に纏ったアンデス出身のケチュア語系先住民たちから時折オレンジを買い、その場でかぶりつき、道行く人々の表情のグラデーションに目をやる。南米の多くの国々と違わず、エクアドルもまた、スペインによる征服以来の数百年に亘る混血とともにあった。赤道直下でアンデス山脈中腹に位置するキトは、「永遠の春」と形容される穏やかな気候に包まれていたが、太陽の照りはこれまで経験したことがないほど激しく、日焼け止めを塗るのを忘れるとその柔らかな気温からは想像もできない日焼けに襲われた。
 キトの街にアマゾン熱帯雨林の気配は微塵もなかった。キト滞在中に俺が「アマゾン」に触れたのは、エクアドル民族歴史・工芸博物館に常設されている生活道具や装飾品を始めとする色とりどりの展示物と、書店で見つけたフアン・レオン・メラによるエクアドル文学の古典『クマンダ』を通してだけだった。レストランで居合わせるか道で出くわした人々との短い会話の中で、俺がアマゾンの奥地に行って先住民の人たちと1年間暮らすつもりだと言うと、多くの人たちが驚いた表情で答えた。「アマゾンの奥地だって? それは危険だ。彼らは文明化されていなくてとても凶暴だ。君がそんなところに行ったら、きっと殺されてしまう。でも、アマゾンはとても美しいところだよ、自分は行ったことはないけれど」。美しいというただ1点の利点を除いて、アマゾンはドラッグ密輸の温床であり、話が通じない凶暴な現地民の支配する領域であり、「我々文明人」の肉体は到底耐えることのできない劣悪な衛生環境を強いられる場所として語られていた。深く、深く、アクセス不可能なまでに内面化されたその視線には、そのまま500年以上の植民地主義の歴史が凝縮されていた。
 一方で、出発前に知人・友人から連絡先を教えてもらった何人かにコンタクトを取り、実際に会って話をし、別の誰かを紹介してもらうプロセスを繰り返しながら、キト滞在中にも少しずつアマゾン熱帯雨林の世界に近づいていた。エクアドルに着く前は、自分の今後の1年は全く見通しが立たない未知だったが、現地に着いて実際に人と会うことによって、そして常に自分の希望と意図を伝え続けることによって、世界はみるみるうちにフォルムを変え、不可視だった熱帯雨林への道が解像度を上げて視線の先に立ち現れてきた。
 そんな流れで出会ったのが、エクアドルのアマゾン熱帯雨林の南部に主に住むシュアール族の出自で、今はキトとバーニョスを行き来しながら外国人観光客のプライベートガイドをしている女性である、スリティアク・ナイチャップだった。実際に会って話をする約束を取り付けて、待ち合わせ場所のカフェ前で待っていると、50代前半くらいの白人男性を連れた、ストレートの黒髪と褐色の肌の、力強く張り出した頬とかすかな吊り目の女性が歩いてきた。スリティアクだった。「男性と2人で会う」という状況が不安だったのだろうか、スリティアクの恋人だというその男性は、最初は俺を牽制するような態度ではあったが、同じテーブルに着きながらも俺と彼女の会話にそこまで割って入ることはなかった。
 スリティアクは、ガイド業に加えて手工芸やモデル業にも取り組んでいて、外部的視線の対象としての理想的な先住民女性像をまさに体現しているような振る舞いや容姿を保持していた。黒々と光沢を帯びたストレートで毛先まで力強く伸びる髪と、深く鋭い瞳。ほっそりとしたか弱い女性像の対極に位置する、せり出した肩や腰の筋肉と、それでいて引き締まった官能的な曲線。自分の民族性や森に対する誇り高き感情を片時も隠さない、野性的で率直で歯に衣着せぬ言動。アマゾン熱帯雨林の先住民の理想化されたアーキタイプをこれ以上なく体現する彼女が、一方で多くの先住民系の人々とは一線を画すように、強靭な客観性と、森の外部で自己の立場を確立しながら生き抜くしたたかさを持ち合わせていることをすぐに理解した。
 自分は人類学の学生で、日本生まれだが今イギリスに住んでいる。大学の研究のため、アマゾン熱帯雨林の先住民のコミュニティを訪ねたい。先住民の文化や生き方に、自分はとても興味がある。なぜなら、外の世界がすでに忘れてしまった、自然と共に生きるという実践を今も続けているのはあなたたちだから。だからあなたたちに教えを請いたい、と話を切り出した。
 現代人類学の理論において、先住民文化を単純に「失われゆく文化」と見なすことや、「文明人が学ぶべき文化」と見なすことは、端的に言ってすでに理論的に批判し尽くされた時代遅れの発想である。しかし、実際に先住民である生身の個人と対峙するとき、現代人類学理論に照らし合わせて自分の発言が正当かどうかという視点が役に立つことは稀である。スリティアクと対面した俺は、できる限り嚙み砕き、彼女が納得できるような道筋を描きながら、たどたどしいスペイン語で言葉を選んだ。
 一通り俺の話が終わったあと、スリティアクは言った。「あんたの希望はわかった。私たちの文化から学びたいと思っていることもね。だけど聞きたいことがある。あんたが私たちに興味を持つ本当の理由は何? アマゾンにはこれまで、私たちの知恵を盗んだり資源を奪うために甘い言葉を囁いて騙してきた外の人間たちがたくさんいる。だから私たちはあんたみたいな人が来るといつも警戒するんだ。また同じようなやつが来ただけなんじゃないかってね。あんたは良いやつそうだけど、私はまだあんたがなんでアマゾンに行きたがるのかよくわからないんだよ」。
 ブランカ・ムラトリオやマイケル・タウシグの著作を読み込んでいた俺は、もちろんアマゾン熱帯雨林における収奪や搾取の歴史に精通していた。今までの白人研究者たちは、その歴史の暗部を認めつつも、だからこそ自分は君たちを彼らから救いたいのだ、という白人救済者論によってフィールドワークのルートを作ってきた。だが、俺は贖罪と弁明の言説によってではなく、何か他の参照点を基にして、これまでとは異なるアマゾン熱帯雨林との関係性を構築したかった。それは、端的に言えばティム・インゴルドが言う「境界ではなく、結びつき4」をもとにした、より情動的、多感覚的、共感的な、ある種の新たな人類学的実践だった。
 「5年前に、日本で大地震と津波が起きて、さらに原発事故が起きた。それを聞いたことはある?」と俺は切り出した。
 「日本……中国とは違う国だっけ? それとも中国の中の街? なんとなく、あっちの方で大変なことが起きたとは聞いたことがある」
 「世界の今までの歴史の中でもとんでもなく大きな地震が起きて、そのあと津波も起きて、2万人以上の人が何日かの間に亡くなったんだ。しかも、近くにあった原発が爆発して、放射能が国の東の方のかなり広い範囲に漏れた。それを浴びたり、それに汚染された食べ物や水を摂取してしまうと、病気になるリスクが上がってしまう。その原発の周りの土地は放射能で酷く汚染されて、何百年、何千年もの間健康の不安なく住めなくなってしまったんだ」
 「原発……? 放射能……? よくわからないけど、あんたの土地は汚染されて住めなくなったってこと? アマゾンの森も、企業が私たちの了解なく石油を取るために入ってきて汚染されたりして、周りに住む人たちは病気で死んでるんだ。それと同じようなことがあんたの土地でも起きてるの?」
 福島について語るとき、「俺の土地」=「mi tierra」という言い方がいかに人類学的、社会学的、政治的に問題含みなのかは、スリティアクと今行っている対話の中では忘れることにした。もう一度言う。俺は悪魔に魂を売ってでも、あらゆる矛盾を吞み込みながら前に進む。
 「そう、俺の土地が汚染されたんだ。だから、アマゾンの森がどんどん消えているというニュースを見て、まるで自分のことのように痛みを感じる。君たちが感じている痛みの重要度が、5年前の出来事のあと、だんだんわかってきた気がするんだ。でも、俺たちはもう君たちのように森の中で自給自足生活をしていないし、アヤワスカを飲んで森とつながろうとしたりもしない。自然とどう関わればいいか、何もわからなくなってる。だから、今も森と共に生きている君たちから、どうやったら森とつながることができるか、学びたいんだ。俺は日本の出身だけど、今住んでいるのはイギリスで、英語でも研究を発表する。英語は世界中で通じる。俺は君たちの生き方や思想が、もっと世界に伝わるべきだと思ってる。イギリスの人たちは、俺がどれだけ君たちと近い痛みを感じているか理解できないと思う。きっとこの話をしたら彼らは笑うだろうし、君たちに対して失礼だと思うだろうし、なんでこんなに俺が必死なのかわからないだろう。でも、これが俺の本心なんだ」
 「私たちはアヤワスカとマイキュアを飲んで、夢を見てヴィジョンを得る。夢の中で私たちは動物や虫や植物と話す。だから私たちにとって彼らが意志や自分自身の考えを持っているのは当たり前のことだし、それが理解できないのは不思議なことね。でも、アパッチ(非先住民)たちが何もわかってないことはもう知ってるから、驚かないけど。とにかく、あんたは自然のことがよくわからない。でも自分の土地を汚染で失ったことで、もっと自然のことを学ばないといけないと気付いた。私たちの知識を盗んで悪用したり、金儲けをしたいわけではないということね」
 「マイキュア」という植物は知らなかったが、後々聞くことにした。今重要なのは、アマゾンの森になんとか連れて行ってもらうことだ。
 「そう、その通り。ラバーブームの時代にアマゾンの先住民たちが酷く搾取されたことも、現在進行系で森林保全を訴えるアクティヴィストたちが殺されたりしていることも知ってる。製薬会社が先住民の知識を盗んで特許を取ったりしている、という話は今君から初めて聞いたけど、とにかく、たくさんの人たちが君たちを騙して利用しようとしてきた悲しい歴史があるということはわかっている。俺はそういう歴史を繰り返したくないと思っている。お金には替えられないけど、俺の研究を読んだり知ったりした人たちが、君たちの森との関係の築き方を学ぶことで、もっとアマゾンの森を守る意識が高まったり、自分たちの生き方を問い直すきっかけになればいいと思ってる」
 あんたに会わせたい人がいる。セバスティアンって人。私が最も尊敬している人だ。彼は森のことや、シュアール族のことをなんでも知ってる。今あんたが言った学びたいことは全てセバスティアンが教えてくれるよ。前に私は彼の村に住んでたんだ。あんたをその村に連れて行くよ。

 

1. 中川保雄『増補 放射線被曝の歴史——アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』明石書店、2011年。

2. 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル、2014年。

3. その意味で、日本における人類学は、自文化以外を研究することについて一定の自律性を保持し、内外からの抵抗を受けにくいという視点から見れば、欧米諸国以外で稀に見るオアシス、あるいはエアポケットとしての一面を持つ。

4. Ingold, Tim. 2008. “Bindings against boundaries: entanglements of life in an open world”. Environment and Planning A 40 (8), 1796-1810.