文字にお熱 鈴木悠生

2025.12.5

04漢字とひらがなのバランス感覚

 

 

ありそうでなさそうな漢字

 

 

 最近、意図せず新しい漢字を生み出していた自分に気がつきました。
 発見場所は数年前に文字デザインのアイデア帳として使っていたノートです。懐かしさ半分ぱらぱらめくっていると、違和感とともに目に飛び込んできた漢字。火偏に草。こんな漢字あったっけ? 存在しないはずなんだけど、ありそうな気もする。

 頭のなかで火偏と草とクエスチョンマークがぐるぐると渦巻き、そしてあっと思いました。これ、「煙草」って書こうとしてたわ。
 しばらくして、SNSのおすすめ投稿でも似たような漢字を見かけました。
 ひとつめは、「見込み」がぎゅっと短縮され、「み」が「入」のスペースを奪ってしまった漢字。投稿は走り書きをパシャっと撮ったような写真に、“なにこの字(笑)” という本人のコメントつき。わたしが書き間違えた「煙草」と同じようなにおいがします。
 ふたつめは、「佐賀県」の「賀」と「県」が合体した縦長の漢字。小学生の子を持つお母さんが投稿した写真でした。都道府県名テストの解答用紙にお子さんが丁寧な字で書いた解答がずらりと並んでいます。ほとんど正解。でも残念ながら、というかやっぱりこの「佐賀県」だけは丸をもらえなかったみたいです。ちなみに「滋賀県」は間違えず解答できたとのこと。よかったね。
 ここでは、そのとき見た投稿写真を参考にわたしが書いたものをお見せします。

 あるある。そうなっちゃうのわかる。共感の気持ちで、どちらの投稿にも強めにいいねボタンを押しました。
 焦っているとき、急いでいるとき。頭のなかで文章をつくるスピードが書くスピードを上回ると、おかしな字が生まれることが多いですよね。その場では正しい文字を書いているつもりで筆を走らせているから違和感がないけど、読み返してみると異変に気づく。誤字の正体をつかんだ瞬間の気持ちよさ。頭のなかで強い光が一瞬ビカッと点灯するようなこの感覚は、一種のアハ体験のようです。
 それにしても、間違った字なのに正しく読めてしまうのはどうしてだろう。
 調べてみると、脳は蓄積された知識に頼って情報処理をおこなっているそうです。そのため、「わたしちたは、でらためなぶんょしうもたいだいよめる」というへんてこな文字列だって不思議と理解できる。つまり、脳は単語の手がかりとなる部分を見つけると、知識をもとに情報をつくりかえて理解する仕組みになっているんです。
 火偏+草という字が「煙草」と読めてしまう理由もそこにありそう。「煙草」という字面を知っていること。「煙」という漢字を「火」「覀」「土」というブロックで認識できていること。そういった知識のおかげで正しく認識することができたというわけです。
 そして、この誤字が生まれた背景にも脳の認識ミスが関わっているにちがいありません。〈火偏の書き終わり=「煙」という字の書き終わり〉だとわたしの脳が誤認したのでしょう。
 こんなふうに脳が勝手に文字をはしょってしまうのとは真逆に、はっきりと意図して文字をブロックごとに捉えることもあります。むしろわたしはそればかり。
 ブロックとして捉えた文字の構成要素の一つひとつを臨機応変にデフォルメする。あるいはブロック同士をあえて繋げたり、大きさのバランスを変えてみたりする。こうやって文字のかたちをデザイン的に拡張させることで、新しい姿が見えてきます。作字やタイポグラフィと呼ばれている世界への第一歩です。
 たとえば、「認識」という漢字をちょっといじってみると、

こんなふうにすることができます。
 まず、それぞれの字に言偏(ごんべん)が共通していることに着目し、ふたつの言偏をひとつに。それ以外のブロックは縦にぎゅっとつぶしました。ほかにも、「心」の点と「音」の点をひとつ共有したり、「立」の四、五画目をへんてこな分け方にしたり。
 応用して、総画数五十七画の難漢字「𰻞(びゃん)」をデフォルメすると、こんなふうにシンプルにすることもできます。「ビャンビャン麺」でお馴染みのあの字です。

 ポイントは、「長」と「馬」のブロック。全体をすっきりさせたかったので、横棒をすべて省きました。真面目に一画ずつ書くと字の密度が高くなり、みちっとして見えます。よりすっきりさせるために「馬」の点も省略し、「長」の最後の画であるはらいの部分と合体させました。

 文字、とくに漢字をいつもとはちがう視点で見つめ、ありそうでなさそうな字に変化させていくのは、粘土をこねているような楽しさがあります。偶然の誤字なんてむしろありがたいアイデアの源泉。
 現代の暮らしでは “正確な” 活字に見慣れてしまっていますが、文字はこれまで長い年月を通してすこしずつ変化を続けてきたものなんです。
 今回取り上げた「煙」という字は、意味を表す「火」と音を表す「垔(いん)」から成る形声文字。つまり「煙󠄁」。ふだん見る字体とすこしちがいますよね。一九四九年(昭和二十四年)に字体の標準が示されるまでは、この旧字「煙󠄁」が使用されていました。「煙」は新字なんです。
 長い目でみれば、こんなふうに文字はこの先も時代や使われ方によってすこしずつ変化していくでしょう。それなら、時代を先取る気持ちで漢字を自分なりに自由なかたちに導いてみるもアリなのでは。
 紙と鉛筆さえあれば、いつでも、どこでも文字の可能性に触れられます。みなさんも新しい漢字を生み出してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

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ひらがなと漢字の配分で知るその人

 

 

 ふだんLINEやメールで誰かにメッセージを送るとき、文章中のひらがなと漢字の配分が妙に気になってしまうのはわたしだけでしょうか。
 たとえば、「明日」は基本的にひらがなにしておきたい。
「明日仕事?」より「あした仕事?」で、「明日飲みにいこう」より「あした飲みにいこう」。ただしイレギュラーもあって、「明日明後日休み」は「明日あさって休み」のほうがしっくりきます。
 それ以外にひらがなにしたい単語を思いつくままに挙げてみると、あたま、おなか、きのう、きょう、すき、きらい、うつくしい、おわる、などなど。
 逆に、都道府県や駅名、場所や建物の名称などの固有名詞は絶対に漢字です。むしろそれじゃなきゃ気持ち悪い。「おかやまに行くならびかんちくに寄ってみて」だと何がなんだかわかりませんよね。

 日常的にやりとりするようなメッセージだと文も短く、ひらがなと漢字の配分を調整するといってもたかが知れています。だけど伝えたいことが多ければ多いほど調整のしがいがあるし、腕が鳴る。
 文章のリズムは句読点を打つ位置で決まり、スピード感とやわらかさはひらがなと漢字の配分に左右されます。めざしているのは、読みやすい文章ではなく読みづらくない文章です。文字の並びの心地よさについての感覚は、自分と他人とでそれぞれちがう。完全に一致するものではないからこそ、読みづらくならないように気をつけています。

 そういうわけで、わたしは他人の文章に触れたときも、その人のひらがなと漢字の配分についてつい注目してしまいます。
 副詞でも接続詞でも、漢字に変換できるものはなんでも漢字にする人っていますよね。「悉(ことごと)く」とか、「殆(ほとん)ど」とか。正直なところ、自分の手で書くときはぜったい漢字で書かないでしょう!? と、ほんのちょっとだけ思っています。
 実際にそういう人に会って話をしてみると、どことなく内省的な印象。失礼ですが、「その字に漢字表記があるなら漢字で書くのが正解だ」という考えの自己完結タイプなのかも、なんて考えたり。
 一方で、文章のほとんどがひらがなで構成されている人もいますよね。漢字は一文につき一文字か単語ひとつ分くらい。そういう人はつかみどころがないというか、鏡のような人だなと感じます(すみません、ぜんぶ個人の感想です)

 ほとんど妄想に近いところがありますが、それでも文字が人に与える印象はきっと少なからずあるはず。文字と人柄の結びつきにどうしても注目してしまうわたしは、話し言葉では感じられないこうした文章から得られる情報を大切にしたい、とつねづね思っています。
 もちろん、なにが良くてなにが悪いかという話ではありません。相手に興味があるからこそ、その人の内面やその人らしさをもっと知りたい。目の前の文字情報からすこしでも相手を推し量りたい。そういった思いです。
 以前つくった短歌集の中に、

という自由律短歌があります。ここまでつらつらと書いてきたようなことを詠んだ歌です。
 これを友人たちに見せて読んでもらったときには、とくに気にもしていませんでしたが、もしかするとわたし特大ブーメランをくらっているかも。いろいろ言ってるけどあんたの文こそああでこうで、といった友人の声がいまにも聞こえてきそうです。あのときどう思われていたんだろう……。ゆきちゃんのLINEはひらがなが多くて読みにくい、と言われたこともあったような……。
 ご意見やご感想、あのときこう思っていたよ、などのメッセージを寄せてくださる方、頭を垂れてご連絡お待ちしております。

 

(第4回・了)

本連載は、隔週更新です。
次回:2025年12月19日(金)掲載予定