カエル博士の退休日記 村松伸

2020.2.7

01はじまりの口上


「退休」
 2020年3月31日、まだわずかに先のことだが私は東京大学生産技術研究所を辞す。東大では65歳になったその年度に辞めることになっているからだ。公務員がある年齢にきて職を辞すことを日本ではかつて法律用語で「退官」と言った。が、国立大学の筆頭の東大も法人化され、もはや「官」ではないし、それに「官」はなんかエラそう。かと言って「退職」も、雅な響きが薄い。で、わたしは勝手ながら「退休」と言いたい。「退休(たいきゅう)」、これは中国語。退いて休む、とても謙虚でぬくぬくした響きがあって好きだ。
 そう、退いてぬくぬくしたい。「退休」には私のそんな願望が込められている。もっとも、今時、65歳で大学を退いても、退職金はわずか、年金もさらに少ない。かつてのように退職年齢が異なる時差を利用して私学へと移るのが東大の教員の退職すご六の上りであった。でも、今は違う。私学の退職年齢も65歳と大差ない。学長経験者、ノーベル賞受賞者、そんな突出した教員たちは、その稀有の「才能」を評価され、いまでもすご六の階段を上がっていく。でも、私は、蟻の世界で言えば、怠け蟻の20パーセントに属する平の教員。それでもなんとか100歳まで生き抜くためにはもう数回の就活が必要だろう。退休の準備をしつつ、退休後を考える。退いてぬくぬくはなかなかできそうもない。でもこれはおいおいとお話しすることにしたい。なによりいまだ、決まっていないのだから。

「日記」
 「日記」。2019年2月に亡くなった日本文学史の碩学ドナルド・キーンさんは、わたしのうろ覚えだけれど、日記は日本人の好みの著述形式だと『百代の過客』の中で言っていた(はず)。ガツンと腹に重たいステーキではなく、味噌汁と魚の干物と玄米のような滋味が「日記」には溢れている。論理の一貫性はないし、本人の細々した関心ごとをだらだらと書いていく、そこがいい(と言っていたはず)。『土佐日記』や『徒然草』に始まり、みゃくみゃくとその伝統は現在も続いていた、どこかに手帳類図書室のようなものができたとか、それも日本人の性(さが)の現れなのだろう。父が若い頃日記を書いていたような、そして、母も結婚したての頃、日記を書き、出張が多い父がいない日々を、寂しい、と書いてあったのを盗み読みしたような。いずれも定かではないが、日記のまつわる私の些細な記憶である。
 つまり、日記は統一はとれてはいないし、ものすごく有益なことなど記されていないけれど、どこから読んでも少しだけ身体を温めてくれる、そんな趣きがあり、私は武田百合子『富士日記』、大岡昇平『成城だより』、山田風太郎『あと千回の夕飯』など、日記風の読み物をこれまでこよなく愛してきた。この「退休日記」は、だから、退いてぬくぬくしたいわたしが、滋味溢れる魚の干物やみそ汁のごとき、腹のあまり足しにはならぬものの、日々の老人のたわごとを、日本人の古来からのに則って、だらだらぼちぼちと書いていくものである、とややこそこそとここで述べておきたい。

「カエル博士」
 ついで、「カエル博士」。まず、博士。私は工学博士。中国を中心とした東アジア、さらには東南アジア、そして、時には地球全体の建築や都市の歴史を考える。でも、カエル。カエルは、蛙。諧謔といえば諧謔の象徴なのだが、私にとってはコミュニケーションの手段でもある。12年ほど勤務先の近くの小学校と毎年2か月ほど、まちの探検プログラムをやっていたことがある。その際は、コミュニケーションの手段として、逆立ちをしていた。ヨガのシールシャーサナは頭立ちのことで、ヨガポーズの女王と言われ、決まるととても美しい。私の頭立ちもけっこう美しく、国際頭立ち協会(International Headstand Association)の会長に収まっていたのだが、故あって辞めた。辞めた理由についてはおいおいと。
 逆立ちができなくなって、カエルになった。子供たちにも人気があるし、国際会議でもカエル博士は歓迎される。少数の例外でカエルになれない場合もあるだが、カエル博士もカエルの子、怖気づいてカエルに変身できないことはままある。どこかの国の王女様とカエルになって記念写真を撮ったのだが、後で、よく不敬罪にならなかったですねと同僚に警告された。でも、遠藤周作は『深い河』、『沈黙』を書く一方で、狐狸庵先生となって諧謔を尽くした。キツネもタヌキもかぶってはいなかったが、亡くなった際の死亡記事に「狐狸庵先生、逝く」と出たとかでなかったとか。私もそんなひとになりたい。
 ちょっとだけ付け足すと、私は静岡県の袋井という小さな町の北部の農村に生まれ、育った。遊ぶ相手は、妹と弟と、そして、蟻やカエルであった。無謀なやり方で蟻さんやカエルくんたちを多数殺してしまった。カエル博士になっているのは、そういった自分の人生への反省やカエルへの供養の意も含まれている。ごめんね、カエル君。
 ということで、「カエル博士の退休日記」が始まる。あまり期待しないで、下さいね。