カエル博士の退休日記 村松伸

2020.4.3

05コロナのある日々1


2011
年3月11日金曜日

 午後246分、乗っていた中央線がぐらりと揺れて中野駅で緊急停車した。建築家内藤廣さんの東大退職記念講演会に赴く途中だった。ドアが開いたので、すぐさま飛び降りて家族に電話をかけた。電話はこんな時すぐつながらなくなる。電車の中にいた方がいいか、飛び出た方がよいか咄嗟に判断し、私はホームに飛び出したのだった。大多数のひとびとは電車の中で身動きせず、呆然としている。
 東日本を襲ったマグニチュード9.0の日本最大の大震災であった。死者・行方不明者1万8千余人、倒壊半壊建築物40万棟。だが、その時そんな大規模な地震だとはついぞ知らず、反射的に電車を飛び出て、電話をかけた。電話は通じ、家族の無事は確認できた。家には中学生の娘がひとりいた。5分後、回線がパンクして、電話が通じなくなった。
 それからが大変だった。中野駅の北口にあるスターバックスの2階に席を見つけ、研究室の学生たちの安否確認を始めた。当時、iPhone以前の私はメールを多数流し、彼らの返事を待った。回線はパンク状態でメールは遅く、何が起こっているのかさえ不明。すぐ、Twitterを始めた。これも咄嗟に。フェイスブックはおろか、Twitterさえ知らなかったのだ。京都にいる知人の建築家後藤直子さんに、テレビを見ながら実況をツイートして欲しいと依頼した。彼女の反応は早かった。津波が、死者が、建物の倒壊がと、東北の状況が時間を経ずにTwitterを通してこちらに届いた。それを横目で見ていた、隣に座る見知らぬ年配の女性が心配そうに問いかけてきたのを今でも記憶している。
 中野から家に帰ろうとした。中央線は止まっていたから、もちろん、歩いて。線路に沿って歩けば国立駅まで20km、約4時間で到着する、理論上は。すでに多くの人が歩き始めていた。自転車を購入して同様に中央線沿いに走っているひとびともいた。当時、グーグルマップはまだないし、実は距離さえもわかってはいなかった。時々、深夜まで職場で飲み、電車がなくなってタクシーで帰ったぼんやりした記憶しかない。しばらく歩いて諦めた。電車やタクシーによる記憶では、三鷹以降が遠いのである。丘を越え、谷を渡る必要がある。ゴールが見えないと人間は不安になるようだった。


大震災という他人事

 やっとのことで中央線沿線の知人を探し出し、当時まだ、お元気だった建築家六角鬼丈さんのお宅に電話した。ちょうどお嬢さんが私の博士課程の学生だったことからしばらく前から懇意にさせていただいていた。むらまつさん、だいじょうぶですよ、今夜パーティをしようとしていたのですが地震で中止になったので、料理はたくさん余ってます、と。2時間弱の「逃避行」のすえ、やっと西荻窪の六角邸に到着。初めて大画面のテレビでみた津波の迫力は凄まじかった。そして、キャンセルされた夕食は美味であったし、鬼丈さんの書斎の横の中3階に用意してくれた布団は暖かかった。
 当時、私は京都にある総合地球環境学研究所に、メガシティと地球環境のプロジェクト遂行のため移動したばかりであった。京都に赴くと震災への反応はいまひとつ、同じ日本でも大きく異っているのを実感した。もっとも19951月の神戸・淡路大震災の時、私自身は仕事でブラジルのサンパウロ市に滞在していて、この災害についてまったく記憶に抜けているのだから、東日本大震災の京都人たちの反応も当然ともいえる。
 5月、地球研が湧き水プロジェクトとして以前よりフィールドにしていた岩手県大槌町に、同僚たち数人と入った。岩手県の海岸沿いをレンタカーで北上したのである。大槌に住まう同僚の知人に面会し話を聞き、あるいは湧水の状態を調べた。大地やそこに造られた人工物の荒れ果てた姿はすさまじかった。ただ、海や山は静かで、いつもの自然の姿をそのままに湛えていた。


専門家にできること

 1か月後、今度は東京の研究室の学生たちも引き連れて、震災後すぐの大槌町の記憶をすべて写真に撮るとのプロジェクトを立ち上げた。写真家の浅川さんにも加わってもらい、克明にひとつひとつの敷地の姿を何千枚と撮影した。このプロジェクトにどんな意味があるのだろうか、いま考えて見るとこの時の執念はなんだったのだろうか。建築史研究という専門が、あの荒れ果てた大地の姿にまったくの無力であるとの焦燥感の裏返しであったのかもしれない。荒れ果てたままの敷地もあったが、コケシやランドセルや眼鏡など、もろもろの遺物が亡くなったひとびとを弔うようにあちこちに置かれもしていた。
 こういった時、医療関係者は役に立つ。遺体の処置、病気の方々の治療、精神的なケア、さまざまにある。音楽家たちは出張してコンサートを開き、滅入ったひとびとの心を慰めた。近世史研究家たちは史料を救い、乾かし、丁寧にもとに戻そうとした。建築関係者も半壊、倒壊の診断に加わり、建築家たちは仮設の建物を作るために奔走した。都市計画家たちはその後の復興を仕切ろうとした。
 建築史研究者はあまりにも不甲斐ない、そう考えて10月、大学院の建築史の講義を「大震災に建築史は何ができるか」というテーマに切り替えた。さまざまなゲストを招き、建築史研究の役割をさぐった。学生たちと出向き、現地のひとびとへのインタビュー、観察、小学生への出張ワークショップも始めた。
 写真家の浅川さんは以来、毎年岩手に赴き、変化する大槌の風景を写真に撮っている。震災時に博士課程の学生だった岡村健太郎さんは急きょ、博士論文のテーマを震災と建築史に変え、学位を取った後、『「三陸津波」と集落再編』(2017)、『津波のあいだ、生きられた村』 (2019、共著)を著した。中野駅で咄嗟に飛び出た私は、これを機に東北地方に関心をもち、なかなか遺産の第一号で岩手県一関市の旧達古袋小学校を認定したり、福島県矢吹町の復興プロジェクトにかかわったりした。
 そんなことを思い返しつつ、わたしは今、新型コロナ禍の中にいる。建築史の専門家としては忸怩たるものがあったが、東日本大震災では、咄嗟に動いて中央線から飛び出たこと、それが震災のもっとも大きな出来事として意識に残っている。だが、いまは、飛び出る先がどこにもない。電車の中も、外も、東北も、京都も、そして、私が今住まう東京も、場所を分かたず、専門家も個人も、人となりを問わず、すべてのひとが均等に、静かに襲ってきているこの新型コロナに対処しなくてはいけない。