カエル博士の退休日記 村松伸

2020.5.18

08鏡の中の父

 

携帯の向こう側
 5月初め浜松に住む妹から突然、ライン電話がかかってきた。実家に来たからテレビ電話したとのこと。浜松の嫁ぎ先から実家までは車で20分ほどだから、時々帰っていたのだが、新型コロナは静岡の田舎にもじわじわと侵入していて、三密とは到底言えない環境でも、ほとんど家にこもっているらしい。それでも母親に頼まれると何をおいても赴かなくてはならないのは、実の娘だからだ。遠くに住んでいる長男の私や同居している次男やその家族にはなかなか頼めないことは多いはず。
 携帯に突然映った父の像に少しまごついた。祖母がいるのかと見間違えたのである。97歳で亡くなった私の祖母、つまり、父の母とそっくりの容貌が携帯画面に映っている。父本人も91歳になったし、母と息子だから似ていて当然なのだが、まごついたのは似ていることよりも、そこに現れていた老いについてである。ソファにだらっと座った姿態や携帯を通す故の動作の緩慢さが、老いを強調していたのかもしれない。
 ここ10年ほどなるべく実家には帰るようにしていた。京都と東京を行き来していた頃は頻繁に途中下車し、京都勤務が終わった後もできる限り機会を見つけ、四季の風景を鑑賞するためと口実つけて面会にいっていた。多くは一晩だけ、深夜に到着して次の日の昼頃に実家を出るという半日滞在がほとんだった。まして、父も私も訥弁であるし、交わす話題もほとんどない。せいぜい、身体は大丈夫か、再就職は決まったか、等々の単文の疑問形がいくつか出るとあとは沈黙あるのみ。

 

3つの思い出
 私自身18歳まで田舎にいたし、東京に出てきて以後もよく帰郷していたから父の記憶は多数ある。だが最も印象に残っているのはみっつ。ひとつめは、小学校高学年の時、春の遠足の一環として静岡に赴いた際であった。県庁所在地の静岡は私の故郷から見れば大都会、その県庁に父は勤務していた。遠足は日本平などの観光地も含まれていたが、社会見学でもあったからだろう、私たちは県庁も訪れた。その時、父が私たちの前に現れて県庁を紹介してくれた。年齢で言えば、父はまだ40歳前。白いワイシャツで現れた父は颯爽としていた。70人弱の同級生に対してその父の姿は誇らしくもあった。
 ふたつめは、静岡県庁を辞め袋井市役所に移った頃の父親の記憶。私はちょうど大学に勤務し始めた時期だった。父が突如、市長選挙に出馬した。還暦直前だったから最後の野心のようなものが一瞬燃え立ったのだろう。今でも当時の写真をみると、恰幅よく肌の色つやもしっかりしている。私は国家公務員の端くれだったから表立って何もできなかったし、その才もなかった。陰でそっと見つめて応援していただけだった。
 みっつめは、選挙に負けて隠遁してしまった後の父。以後、父はほとんど公的な付き合いを絶って家に引きこもり、若い頃からやってきていた兼業農業のうち畑仕事と好きな囲碁に専心した。朝早く起き、近くを1万歩歩き、ラジオ体操をした後、朝食。午前中に畑や庭木いじり。午後は近所に囲碁を打ちに出かけ、夕食に1合だけ日本酒を飲み、9時前に就寝する。時折り母と旅行に行く以外は、昨日も今日も明日も30年間この日常をくりかえしてきた。

 

鏡の中の父
 妹がかけてくれた携帯の画面に現れた動く父は、そのどれとも異なっていた。若い頃や成熟した姿は当然、もはやないのだが、隠遁中の父ともやや違う。60歳で隠遁して30年たつのだからその間に変化はあっていいはずだ。60歳の父と90歳になった父とでは明らかに異なる。
 新型コロナで大方家に引きこもっていると、その生活は父とほぼ同じ。私自身半分ほど引退の身だから当然なのだが、こちらも年齢を重ねると父への評価も徐々に変化してきている。しばらく以前、選挙に負けて60歳で隠遁したこと、世間と途絶したことを、私はやや斜めに見ていた。だが、私自身が同じかさらにそれを越えた年齢になると、父がなぜ隠遁しようとしたのかよくわかるし、その後の単調とも見える生活もかえって好ましく思われてきた。
 時々読み返す詩集に谷川俊太郎の『悼む詩』(東洋出版、2014)がある。詩人の谷川が折にふれ先に亡くなった親しかったひとびとに、時たま公に、多くは私的想いを詠った別れの詩の数々がその本におさめられている。心に疲れが溜まった時、私は詩集や小説をよく読むのだがこの本もその中の一冊である。携帯画面に動く父の顔を見た時、すぐにこの詩集を思い出した。とりわけ、谷川がその父、谷川徹三が亡くなった際に書いた詩や喪主挨拶に思い至った。哲学者で勲一等瑞宝章をもらった谷川徹三と私の父は比較すべもない。でも私とて谷川俊太郎に比べようもないのだから五十歩笑百歩。
 しかし、父であり子であるという関係は谷川父子と同じだ。「父の死」と題されたこの詩は、944か月で亡くなった際の、動揺を隠しきれない詩人の心の姿を細部まで訥々と、時には破たんを見せつつ描いている。中ほどには喪主挨拶が挟まれる。携帯電話の中の父を見てこの詩を想起し、そして、私も自分の父への思いを書いてみようと思い立ったのだ。生前贈与とか生前葬儀とかあるのだから、生前喪主挨拶というやつもあっていいだろう。父への思いなど、通常恥ずかしくて面と向かっては言えない。ただ、娘から時々に送られる誕生日や退職の日の小さな手紙は面はゆいと同時に、うれしいものだ。
 このブログは、プリントアウトができない還暦すぎの妹が、手書きで書き写したり、朗読したりして、父と母に伝えているらしい。どんな顔をして妹はこの回を父に伝えるのだろうか、縁起でもないと妹はふくれるに違いない。が、父は分かってくれると思う。これを書いている今日は、私の66歳の誕生日。書いている途中に洗面所にいったら鏡の中に父がいた。さてそれはどの時代の父だったかは、言わぬが花か。

次回2020年5月29日(金)掲載