カエル博士の退休日記 村松伸

2020.7.24

10調べ物の「快楽」

 

ウォートルス伝の到着

 新型コロナの第2波がやってきていて、相変わらず家籠りが続いている。そんな私の所にオーストラリアからウォートルス伝が届いた。正確に日本語に訳して言えば『アイルランド人の技術者―明治初期日本とそれを越えた地域におけるトーマス・ウォートルスとその家族の非凡な業績』というものである。
 トーマス・ウォートルス(1842-98)は、「ウォートルス」と慣用的に読み習わされているけれど、実はWatersであって本人が聞けばびっくりするかもしれない。40年前、私が東アジアの近代建築史を研究し始めた頃、このウォートルスは日本近代建築史上最大の謎だと言われていた。もっともこれは藤森照信さんの言であって、いつも針小棒大に語りたがる藤森先生特有の口吻は眉に唾をつけて聴かないといけない。
 今でこそウィキペディアをひもとくだけで、簡便に日英中仏語の解説が出てきて、幕末から明治初頭に東アジアをまたにかけたイギリス人技術者と説明されるのだが、当時、顔写真はおろか、生没年さえもわかっていなかった。日本近代建築史研究でいえば、藤森さんの先代にあたる村松貞次郎先生あたりから本格的にウォートルスに関心が向けられ、銀座煉瓦街や幕末鹿児島での製糖工場建設、大阪の泉布観などの事績が少しずつ明らかにされてきていた。若かった私や後輩、周囲の建築史研究者たちは藤森さんのこの「ホラ話」に踊らされ、奮起し、あらゆるつてを使って調べに調べた。私自身は日本から上海にわたった後のウォートルスの活動を発掘し、当時藤森さんの助手という面目を保った。
 やがて、オーストラリア、ニュージーランドにわたったこと、最後はカリフォルニアで3人兄弟そろって事務所を開き、鉱山活動をおこなってそこで亡くなったこと、そして、詳細な家族構成などの発見が藤森研究室の毎週金曜日のゼミで続々と報告された。もうそのしつこさといったらない。日本人のもつ微細な執着心の在り方を知るにはもってこいの事例だ。そのウォートルスに関する伝記が公刊され、日本語にも翻訳中と知ったのは2週間ほど前のことだった。オーストラリアの歴史研究者のMeg Vivers博士が書いたことを発見した。ウォートルス流に読めば、ヴィヴェルス博士だろうか。

 

調べ物の「快楽」

 雨降る梅雨の季節にはるばるオーストラリアから届き、外側は少しだけ雨に濡れていた。が中は滲みひとつなく美しい装丁の本が出てきた。絶版になっていて、しかも私家版だったのだが、どこをどうやったのか著者本人まで到達し、連絡できてしまったのは今風である。2013年出版のその本を送ってもらえることになった。お金のやり取りは面倒だから、それと同額の本を日本か見つくろって送って欲しいということだけは微かに覚えている。
 そもそもこの本に行き着いたのは、いま、アヘン戦争から19世紀末くらいまでの東アジアの建築や都市の動きを明らかにしようとしていたからだった。ライフワークとしていま執筆中のやや妄想のような「超大作」本の第何章目かにその内容が入り、現在、実際に文字にしようと日々奮闘している。膨大だから一気に書きあげるわけにはいかない。いま書いているこの日記のようなエッセイはわずか2000字、400字の原稿用紙でいったらたった5枚なので、少しの調整はあるものの最初から一筆書きのように最後を収めることができる。が、これはそうはいかない。超高層建築と住宅設計ほどの差異はあるだろう。
 そのためにはきちんとした設計図が必要である。たとえの次いでに言えば1/10前後の模型も作る必要がある。ステイホームの半ばあたり2か月ほど前やっとその模型が完成し、超高層建築のブロックごと、つまり章ごとに構築していく、そういう段階にいまはある。ただ、そうは言ってもプレハブのようにどこからか既成の材料を集めてきてちょいちょいと組み立てる、というわけではない、やはり細部はとても大切なので、「調べもの」に精を出すことになる。この細部の面白さが、緻密な構成とともに本の質を保つ両輪となる。
 だが、この「調べもの」という響きの魔力からはなかなか逃れられない。私が研究者になったのは、いやなれたのは、この「調べ物」が好きだったから、と言っても言い過ぎではないだろう。昔書いた『上海―都市と建築』という本は、それこそ世界中を探し回って「調べ物」して集めた史料によってなりたっている。「調べもの」をしていると脳内に快楽物質が出てきて、それに惹かれて研究が進んでいく。日本におけるウォートルス建築研究の進化も実はこの「調べ物」の文化の上に成り立っている。

 

麻薬としての「調べ物」

 だが、一方でこの「調べ物」は麻薬でもある。徐々に心身を蝕んでいく。新しいことを発見する度に脳内物質が湧き出して、さらに次の「調べ物」を催促するのである。やがてなぜその「調べ物」をしているのか忘れさせてしまう。もう少し突っ込んで言うと、この「調べ物」からはなかなか大きな構想力は生まれてこない、というのが私のいまの考えである。「調べ物」に時間や労力が浪費され、構想の構築までたどり着けぬ間に時間切れとなってしまう。
 その点、伝記というのは一見するとこの「調べ物」と相性がよい。ひとの一生という時間に沿った枠組みがすでにできていて、その時間軸に沿って「調べ物」をし、ひたすら年表を細かくしていくことでも成り立ってしまうのだから。ウォートルスの「調べ物」がひたすら進んだ理由もここにある。もちろん、伝記そのものに創造力を働かせ新たな仕組みを作ることも可能であり、さらに何らかの主張のために焦点を絞るという尖ったやりかたもできる。
 心身双方を蝕む「調べ物」の害毒の身体を蝕むことも現今は強く考える必要がある。かつて私の「調べ物」は中国各地、日本各地、そして、欧米にまで実際に足を運んでなされたもの。お金と時間、そして、体力を費やした。だが、今はほとんど家の机の、そして、パソコンの前に座っての「調べ物」で達成される。何日も何日も机に向かいほとんど歩かないことも多い。
 かつて何か月もかかって「調べ物」し、やっとひとつの事項が獲得できた。ウォートルスの顔写真がわかった時、小躍りして喜んでいた藤森さんの姿はいまでも鮮明に覚えている。が、インターネットが進化した現在、多くのことが瞬時ではないにしても以前とはくらべものにならない短時間でできてしまう。イギリスまで行かないと見られなかった世界最古の建築雑誌Builder(1842-)も、上海租界最初の新聞North China Herald(1850-)もインターネットの力で、ステイホーム中の私の机のパソコンで検索できてしまう。「調べ物」はさくさくと進むが、同時に身体を蝕んでいく。
 だが、「調べ物」の副作用は心身二つへだけではなかった。圧倒的に私の時間も蝕んでいく。わずかに残された風呂の自由時間にこのウォートルス伝を読んでいるのだが、睡魔に襲われ本の時々お湯に浸かる。ふやけた本の姿は、「調べ物」の戦果といえるのだろうか。

 

次回2020年8月10日(月)掲載