カエル博士の退休日記 村松伸

2020.4.18

06コロナのある日々2


ミラノのカエル男

 ミラノで最も有名な場所と言ったら、まちの中心にある教会ドゥオーモである。イタリア第二の都市、ミラノの空に聳えたつその尖塔屋根に上がったのは今年の正月2日だった。大きな荷物は下に預け、いつものように携帯とトレードマークのカエルの被り物を持って上がろうとした。マスク、マスク! ダメ、ダメ! その時の警備員の声の激しさに驚いた。その叱責にひるんでしまい入口に置いておくから上がらせてと宥めても、ダメ、アガラセナイ、の一点張り、じゃあいらないから捨ててくれといってカエルの被り物を放り投げ、やっとのことで上階に向かうエレベーターに飛び乗った。確かにキリスト教会にとってカエルは異教徒や悪魔の化身にみえるのかもしれない。
 しかし、アメリカの建築家コールハースとOMAが設計したプラダ財団美術館でも同じようにカエルの被り物は拒絶されたから、宗教的拒否感とは異なる何かがあったのだろう。ドイツのケルンの美術館では決して邪見にされることなく、さまざまな展示品の前でカエル博士はインスタ映えする写真と何枚も撮ることができたのであるから。
 ミラノには年末から年始にかけて滞在した。娘が10か月の予定でミラノにあるボッコーニ大学に留学しているからだった。妻と義母と3人での10日間ほどのミラノ旅行は、当地の寒く、暗い気候ではあって心身はややかじかんでいたが、しごく平穏な旅であった。むしろ娘の留学に際してはよほど心穏やかでなかった。北京にソウルにと度々、長期滞在した際には自分のことしか考えず、自分の両親の心の動きなど思いもしなかったのが、今になってその心労がやっと理解できた。
 人間関係を総動員して、たとえば10数年ミラノに滞在し、ここ数年北郊のモンッアに隠居している大坂さんご夫妻、トリノ大学で中国文学の教員をしている北京時代の友人のステファーニャ博士、そして、ローマとイスタンブールを行き来している長年の研究仲間の青木さんなどなどに懇願して、娘のケアに遠隔操作であたった。日本で見つけたアパートのオーナーと喧嘩して追い出されたり、イタリア語ができなくてやや引きこもり気味だったりしていたのを、友人の彼ら彼女らに会いに行けとアドバイスして何とか乗り切った(と親の私は自分の功績だと考えている)。
 ドゥオーモの尖塔に上ったのはそんな旅のなかびの夕暮れ時だった。やっとの思いで屋根におりたち、多くの観光客に交じってのろのろと屋根を巡った。夕焼けの下に広がるミラノの風景に感激してもいたがふと足元をみた。おいおい、カエル君よりももっとおどろおどろしい怪獣たちがあちこちにいるではないか。雨樋になったガーゴイルを指さしてぶつぶつと不平を述べたのだが、捨てられたカエルくんは遥か階下に去ってしまっていた。


だらだらとずるずるとひたひたと

 でも、実際ミラノで出会った娘は大きく成長していた。心配するのは親ばかリ、なのかもしれない。そんな娘から突然帰国するからと連絡がきたのは3月の初めだった。ミラノに旅した際、新型コロナという単語さへ耳慣れず、遥か遠くの中国武漢の出来事にすぎなかった。それがあれよあれよという間に、イタリアに飛び火し感染が最も激しいのは北イタリア、ミラノだと連日報道が続いた。
 天安門事件の時、北京や天津あたりで調査を続けていた経験のある私は、知ったかぶりに居残って感染の状況を観察記録してみたらと、いまから考えれば無責任なアドバイスをしていた。だが、あれほど人で満ちていたドゥオーモ広場からは人が消え、ひとびとは忌み嫌っていたマスクさえしていた。これは大事に違いない、真剣に心配になってきた。娘が帰国したのは38日。アパートを引き払い、大学には帰国のメールをして、大きな荷物を抱えて帰ってきた。親の心配をなんなく乗り越えている。まだ成田空港では検査が始まっていなかったが、家で2週間自己隔離となった。
 いつの頃からじわじわとだらだらと新型コロナウィルスが私たちのそばに押し寄せてきている。東日本大震災は2011311日午後246分というきっかりとした時間に始まったが、今度は始まりの時間さえわからない。激しい揺れも、大人数を呑み込んだ恐るべき津波の姿もない。北海道で感染者が増え、田舎の袋井で一人出たとかでないとか、そんな情報が駆け巡り、早々と延期した私の最終講義の元の日程の313日も過ぎゆき、だらだらとしずしずと日は過ぎていく。
 岩手の阿部眞昭さん、福島矢吹町の橋本秀也さん、相次いで友人知人が亡くなった。コロナ禍とは無関係だろうが悲しい。いずれも震災が縁となって知り合った方々、私と同年代だった。327日、インドネシアの建築家アハメド・ユハラさんが新型コロナで亡くなったとの訃報が届いた。私たちのインドネシア建築調査の根っこにいた旧友だった。涙が出てきた。コロナはひたひたといつの間にか眼前まで押し寄せてきていた。


新しい(ような)生活

 東大の職場では本の片づけは遅々として進まない。だらだらと時はけじめなく過ぎていき、とうとう331日。学生たちが開いてくれるといっていたお別れ会もなくなる。41日、新たに特任教員で勤務することとなった大学の新任式。これもオンラインとなった。
 4月初め元の研究室にいって片づけを少しだけ進めた。机の上に一枚の退職の辞令がぽいと置いてあった。なにかこの時期の私の生活を象徴している。寂しさはないわけではないが、まあそんなもんだ、という恬淡とした気持ち。新たな大学の大学院の講義も5月連休明けに延期された。48日、緊急事態宣言が東京を含めて7つの都市に発令さてた。以来、ほとんど家を出ていない。
 朝7時過ぎに置き、ヨガと中国体操のフージョンのむらまつ体操を1時間弱おこない、朝食。昨年からずっとおこなっているライフワーク、『東アジア近現代建築200年』の執筆。昼飯。午後も同様に執筆。夕食。夜は鳥目なのでダラダラと。夜12時頃就寝。こんな生活は実は昨年度1年間続いていたからそれほど斬新ではなく、急に退屈になったわけでもない。
 変わったのは、オンラインによる会議や講義。前の大学、いまの大学、イスタンブールに住む、上記の青木さんのイスタンブール工科大学の建築史の講義への乱入など。時差の関係で身体機能は少しきついことはあるが、この遠隔の会議、宴会、講義はすこぶるよい。通勤、移動の時間的ロスがなく、新しい出会いが広がる。
 変化のふたつめ、娘が俄然動き出したこと。春休みを利用して運転免許を取ろうと画策していたのだが、それも断念。自宅にいるしかない。20歳すぎの青年が家にずっといることは、自分のことを振り返ってみれば簡単ではない。サイクリングに時々出かける以外に、料理を作り始めた。そして、庭で野菜を植える。かつて芝生が植わり、今では荒廃している庭を掘り起こし、草むしりして、畝をつくり、苗を植える。まるで戦争直後の食糧不足の時のよう。
 コロナはひとも生活も世界も、だらだらとじわじわとではあるが、劇的に変化させていく。ああ、そうそう、言い忘れたけれど、カエルマスクはドゥオーモを降りた際に無事に回収できました。