鶏まみれ 繁延あづさ

2023.2.10

04わが家の経済がかかっているんだ

 

 

 

「やるなら、庭先養鶏の拡大版がいい」

 そう言って夫がまず始めたのは、ネットでの土地探しと、事業計画書の書き方を調べることだった。融資を受けるためには、事業計画書が不可欠。講習を受ける手続きも早々に済ませていた。私が苦手な分野だけに、このあたりにすぐ着手できるのには感心した。
 ただ、それだけで時間が過ぎていっているような気がする。実現に向けてやることは山ほどあるのに。そんな彼のマイペースに、私はなんとなくモヤモヤしていた。とはいえ、目の前の仕事をこなすのに精一杯で、夫とはわずかに会話を交わすだけの日々。家族の生活費を稼ぐというプレッシャーを、誰からも受けてないのに、なぜか自分で自分にかけていた。
 ある日、2階の仕事場から降りてくると、居間で寝転んでスマホを見ている夫の姿が目に入った。スマホがパソコン代わりなのはわかっているし、土地探しをしているのかもしれないけれど――。寝転んでいる姿が吞気(のんき)に見えるのか、急に腹立たしさが込み上げてきた。何かひと言いわずにはいられない気持ちになって、
「もっとスピードあげて進めてよ」
「実現に向けてやること書き出して、実行していかないと」
「進みが遅いと、収入も先送りになるんだから」
 ひと言では済まず、口を突いて出てくる言葉を止められなかった。夫はこちらを見て、不機嫌そうに黙っている。力のない、半開きの目。それがまた嫌だった。何か言い返して欲しかった。反論でもいいから。
 ダメだ、ヘンな勢いがつきそうになる。この場から立ち去らないと。でも、何かまだ吐き出さないと気持ちがおさまらない。結局、私は大きなため息を吐き捨ててから2階に駆け上がった。
 仕事場に戻り、パソコンの前に座ると、よくわからない興奮がじんわり冷めていく。さっきの夫の半開きの目を思い出す。諦めのような目だった。思い出していたら、急に背筋がヒヤリとしてきた。言い返せない、という空気が私たちの間にあるのだとしたら? 
 もしかして――わたしは、いま、家の中で圧倒的な強者? 
 そのつもりはなくとも、私の言葉はそう受け取られるのかもしれないし、実際にそういう私になっているのかもしれない。
 自覚できているのは、不安でしょうがないのだということ。抑えきれない不安を撒き散らしてしまう。“夫の再就職まで” というゴールのある心境とは違ってきていた。実現できるのか、できないのか、どうなるかわからないところへ進んでいくのを、傍目に見ているのが辛いのかもしれない。不安だから、過剰に働いてイライラする悪循環。稼ぐことと、養鶏を進めていくこと、両輪を走らせないと。

 じつは養鶏を始めると友人に話したとき、彼が「うちでやる? 一からやるよりも負担が少ないよ」と申し出てくれたことがある。けれど夫は、思案の末に辞退した。その理由は、なんとなく私にもわかった。ひと言で言えば、おそらくサラリーマンとの訣別だろう。友人であっても、上の立場の人を置いてしまうと、以前と似た環境になってしまう。ひとりでやってみたい、そうした思いが強いのだろうと理解した。だから、これまで私も関わるのを遠慮していたところがあった。
 でも、私たちは思春期の息子と母親ではない。失敗してもいいから見守るなんて、私には到底できない。この養鶏には、わが家の経済がかかっているのだから。一蓮托生である。

 

 

「一緒に養鶏を見にいこうか」

 その夜、“わたしだったらまずこうする” という思いで提案してみた。
 現場には圧倒的な情報量がある、というのが私の職業的感覚。撮影は現場に行くのが仕事で、行けば見えてくる風景がある。その感覚が染みついているのかもしれない。昼間のこともあって、夫がどう反応するかヒヤヒヤしていたが、拍子抜けするほど簡単に「いいよ」と返ってきた。

*

 私にとっての庭先養鶏のおもしろさは、台所の三角コーナーの生ゴミが減っていくことから始まった。養鶏家の方から「野菜クズもあげるといい」とアドバイスをもらったが、はじめは正直よくわからなかった。それでも、長男が三角コーナーから野菜の皮などを拾い上げ、ニワトリにあたえるのを見て納得。家の台所を担っているのは私だから、それ以来いろいろ試しにあたえるのが日課になった。
 大根の皮、レンコンの皮、キャベツの外葉、エノキやキノコ類の石づきには飛びつくけど、春菊はまあまあ、人参は食べない。鰹節やいりこの出汁ガラは夢中。そして、猪や鹿をもらって切り分けるときの端肉は、狂喜乱舞の大興奮! おもしろくてしょうがなかった。食いつきの度合いや興奮によって、ニワトリの欲するもの、その悦びのようなものが、手に取るようにわかる。
 そんなニワトリが産む卵を食べながら、産卵率が下がりはじめる2年後を目安に代替わりをさせる。このとき、古いニワトリは絞めて肉にして食べる。わが家に生じた小さな循環。それが長男の当初からの養鶏計画であり、実際にうちの庭先養鶏になった(息子の養鶏については『ニワトリと卵と、息子の思春期』[婦人之友社]に詳述した)
 やりたいのは、この庭先養鶏の拡大版。もし近いかたちで養鶏業をされている方がいるなら、話を聞いてみたいし、実際この目で見てみたい。
 長男が養鶏を始めるとき、参考にした一冊が中島正さんの『自然卵養鶏法』という本。その後、この本は夫の手に渡り、彼も熟読していた。この中島さんに共感したり影響を受けた養鶏家たちが日本中にいて、長崎県にもMさんがいるのを知っていた。まずはそこへ見学に行かせてもらうということに。夫が電話をかけているのを聞いて、なんとなく動き出すんだという気がした。

 

 

 Mさんの農場は住宅地からそれほど離れていない、でも周囲から一定の距離がおかれた谷間の小さな丘のような場所にあった。到着して車のドアを開けると、「クオ〜」という覚えのある、でも群集らしい合唱のような鳴き声がしていた。多数のニワトリの存在が体で感じられる。奥へ歩いていくと、すぐMさんが顔を出してくださった。
「初めまして。お忙しいなかありがとうございます」と言う夫に続いて、私も「妻です」と挨拶。なんだか新鮮だ。夫には友人もいないし、職場の人に会ったこともない。だから自分のことを「妻です」と言う機会がこれまで一度もなかったのか、と思い至る。
 Mさんは「案内しましょう」と農場奥へとゆっくり歩きだした。60代後半だろうか。少し日焼けした柔和な笑顔が印象的。言葉の端々から養鶏に対するハッキリとした考えも感じられた。途中、中島正さんの『自然卵養鶏法』を話題にすると、そこからは “話が早い” とばかりに飼料のこと、鶏種、販売の仕方など、話題を広げ話してくださった。
 一周して農場入り口まで戻ってくると、畑があることに気づいた。巨大なキャベツが植わっており、その横には季節外れのカボチャが山積みになっている。なんだろう。

「冬は葉物が減るでしょう。夏に収穫したカボチャが緑餌代わりになるわけですよ」

 緑餌とはニワトリが食べる青草のことで、微量栄養素や繊維などを補給する目的がある。庭先養鶏ではときどき放し飼い状態にしていたから、ニワトリたちはそれぞれ好き好きに、好みの(季節ごとの?)雑草を食べていた。それが栄養補給にもなっているが、養鶏業となればそうもいかないだろう。年々増える鳥インフルエンザで放し飼いは相当難しいと噂に聞いている。自分たちで飼料設計するなら、季節への対応も考えなければならない。
 最後に私は、気になっていたことを聞いてみることに。
「ニワトリはいつ廃鶏にしていますか?」

*

 帰りにMさんの卵と、卵を使ったケーキをお土産に頂いた。すごくおいしそう。今すぐ食べたい衝動に駆られたが、これは今日のことを子どもたちに伝えながら食べることにする。
 行きの車内と違って、帰りは夫婦の会話が弾んだ。まだ土地も決まってないから具体的なことは考えられなかったが、庭先養鶏とは羽数がぜんぜん違うことを肌で感じられたのがよかった。「うちの台所の三角コーナーを、地域全体に広げてできたらいいね」と話しながら、そうした飼料を調達しつづけることが仕事の大きな柱になるのだとわかった。
 助手席の窓から西日が差し込んで眩しかった。小学一年生の末っ子の帰宅には間に合わないけれど、早く帰って夕飯をつくりたかった。朝から煮込んでおいた鹿のスネがある。もう柔らかくなっているから、あとは野菜をたくさん入れてシチューでもいい。
 ふと、さっきMさんから聞いた廃鶏のことが思い出された。Mさんのところは、産卵率が下がるまで採卵して、自家消費もしつつ、あとは廃鶏として出してしまうとのことだった。とくに意外というわけではなかった。むしろ、採卵用のニワトリを飼っているのだから、肉は無駄なく使えたらいい程度の対応になるのは当然だとも思う。
 廃鶏肉は硬すぎるため、ミンチになって冷凍食品やペットフードになることが多い。それはそれで、何の問題もない。むしろ、よいと思ってもいる。ただ、私なら……と考えてしまう。
 私なら、ただ廃鶏にするというより、やっぱり――食べたい、かな。いつも食べてる山の獣のように、庭で育てたニワトリのように、おいしく食べたい。

 

 

 はじめて狩猟についていったとき、猪が罠にかかって大暴れしていた。ヒギュー、ヒギュー! と猛々しく嘶(いなな)く怪物みたいだった。目を剝き、怒(いか)っていた。とてつもなく生きている、と思った。それが、猟師のおじさんが心臓を突いた途端、猪の動きは止まり、激しく響いていた声も消えた。それは、死んでいく風景だった。少しずつ目の光が消えてゆく。
 その肉体を解体して、肉を持ち帰る軽トラの助手席で、ずっと頭の中で唱えていたのが「絶対おいしく食べてやる」だった。以来、野生肉でも、家のニワトリたちも、絶対おいしくするという思いで料理してきた。殺したから、かわいそうだったから、悲しいから、ありがとうと食べたい。私にとってそれは、おいしく料理することと、おいしく食べることだった。
 でも、庭先養鶏を続けてきた今は、感情の逆流も起きている気がする。殺すから、かわいそうだから、ありがたいから、特別な思いで育てられる。そんな感覚も、ある。

「これまでみたいに、自分で捌きたいな」

 

 

(第4回・了)

本連載は、基本的に隔週更新予定です。
次回:2023年2月28日(火)掲載予定