鶏まみれ 繁延あづさ

2023.6.30

07それが、いま私が見てる世界すべて

※一部、刺激の強い写真を含みます。あらかじめご了承ください

 

 

 隙間から見える羽が動いている。いる、生きている、圧倒的な数のニワトリがここに! 鼻先から漂う強烈な臭いも相まって、目が眩む。

  “このまま引き返して帰ろうか――” ふっと頭をよぎった。

 冷え込む空気に、静かに息を吐きだす。私は踵(きびす)を返し、蛍光灯に照らされた玄関へと一目散に走った。ドアを押し開けると、もうひとつのドア。勢いにまかせて押し入ると、新しい視界がひらけた。下駄箱が並ぶ空間の奥に、階段を上ろうとする女性の後ろ姿。

「待ってください!」

 振り返った中年の女性は、驚いたように私を見た。

「なんや、あんた今日からね? こっちきんしゃい」

 立ち尽くす私に、こっちこっち、と手招きしてくれている。
  “きんしゃい” はふだん聞き慣れない言葉だったが、私はホッとしていた。急いで下駄箱に靴を入れ、彼女を追って階段を駆け上がる。もうあの臭いはなかった。暗い廊下の先、明るい部屋のドアが。中にはもうひとり白装束のような女性がいた。

 

 

「こんひと、今日から。あんた名前は?」

 振り返って尋ねられ、私はようやく女性ふたりの顔をちゃんと見た。ともに70代くらいだろうか。おばさん――というより、おばあちゃんに近い。空いているロッカーを探してくれ、使っていいと言ってくれた。白装束に見えたのは、どうやら作業着らしい。白いレインコートのような上下を着て、首まで隠す白い帽子で頭を覆い、顔には白いマスク。両手にはピッタリとしたビニール手袋。目しか露出していないから、表情どころか顔もよくわからない。

 しばらくして事務所に降りると、所長の田中さんや事務の女性らしき人が出勤していた。真っ白な作業着と厚手のレインコートを渡される。ここで働くことがリアルに感じられてきた。着替えて田中さんのところへ戻ると、点検するように私を見る。白帽子の裾(すそ)は衿口(えりぐち)に入れるのだという。なんだか全身ピッタリ白いものに覆われて、ミイラになったみたい。フードもしっかり被せられた。意外とあったかい。寒いのが苦手な私は安堵した。

「あたらしく入ったシゲノブさん。首斬りから教えてあげてください」

 田中さんは、工場長の野村さん(仮名)という男性を紹介してくれた。私と同い年くらいだろうか。「これ自分用になるから管理して」と新しいナイフを手渡された。蛍光灯の下で刃先が煌めく。家庭の包丁とはちがい、持ち手と同じ幅で刃が伸びている特殊なもの。しかも厚い。ドラマで戦国武将の姫君たちが自害するときの小刀とか、もしくはヤクザの持っているドスみたいな。
 野村さんの古い前掛けを借りて、両手に布手袋をつけ、さらに軍手をはめ、その手にナイフを持った。なんというか、体を覆っているものが多すぎて、自分と外の境界が曖昧に感じる。コロナの防護服もこんなだろうか。
 施設内は機械音がしていた。金属やモーターの音。私はナイフを持って野村さんの背中を追う。ごちゃごちゃしていて、どこをどう歩いているのかわからなくなっていく。トビラの先へと突き進むと、機械音がさらに大きくなった。野村さんが何か話しているようだが聞こえない。目は見えているのに、耳も聞こえているのに、ごちゃごちゃがさらに増して受け取るべきものがわからない。ただ野村さんの背中だけを頼りに歩く。

 壁に切り取られた四角い穴のようなところを通り抜けると、突然メガネが曇った。と同時に咽(む)るような臭いが顔に当たった。すると、野村さんが立ち止まって振り返り「におい、大丈夫?」と聞いてきた。すかさず「大丈夫です」と応えるも、その野村さんのすぐ横を見てギョッとした。お湯がボコボコ音を立てて、そこからニワトリの足が見えていた。

 


 ああ、そうか――。羽を毟(むし)るための、湯に浸ける工程だ。そう思った瞬間、急に焦点が合ったみたいに周囲がクリアに見えてきた。野村さんの背中を追いながら、私の目はぐるぐる動き出す。室内は湯気が充満していて、少し幻想的だった。黄色い足が連なる先に目をやると、吊り上げられたニワトリたちがいた。

 

 

 だんだん頭がはっきりしてきた。私は面接で「(作業工程を)全部まわりたい」と言い、所長の田中さんは「では最初から順にいきましょう」と言ったのだ。向かう先はそこなのだろう。
 野村さんの背中は真っ暗な細い場所に入っていく。私も後を追う。床がかなりぬめっている。滑らないよう気をつけながら進む。

 ある空間に出た。男性がいる。そのまわりを取り囲むように、ニワトリたちが吊り下げられている。こちらからは頭部は見えないが、みんな生きているのがわかる。羽をばたつかせたり、大音量の機械音にまじって鳴き声が響いているから。水野さんを追ってぐるりとまわり込み、男性の横に立つ。
 息が止まりそうになった。ニワトリたちの頭がズラリ並んでいたのだ。たくさんの目が、顔がある――。鮮烈な光景。一羽一羽、生きている。動悸がして、一気に胸が苦しくなった。野村さんが「彼女シゲノブさん、一緒にやらせてあげて」と男性に伝えるも、男性は手を止めない。というか、止められないのだ。次々にニワトリたちが流れてくるから、次々に首を斬りつけなければならない様子。男性の名は岩崎さんという。

 

 

 私の左に立つ野村さんが、左手でニワトリの頭部をつかんで、角度をつけ、右手のナイフで首を斬るのだと教えてくれる。斬るのは一度で、しっかりと。もちろん練習なんかじゃない。目の前に流れてくる本物のニワトリで私もやるんだ、わかっている。やり方は庭先養鶏のニワトリを絞めるのと大きなちがいはない。でも、なんだかぜんぜんちがう。次々と流れてくるこのスピードだ。“この子を殺す” って気持ちを定める間もない。
 ためらいながら、私は一羽のニワトリの頭を左手でつかんだ。角度をつけて下顎(あご)のような骨の位置を確認し、右手ナイフで斬りつける。あ、ダメだ、浅い。流れていくニワトリを、すぐ横で岩崎さんがもう一度しっかり斬りつけた。フォローしてくれている。

「もうちょっと深く入れないと、しっかり放血できないから」

 と、野村さんは、今度はニワトリの頭をつかむ私の左手ごと鷲づかみにし、ナイフを持つ私の右手もつかんで、私を操るように手の動きを再現してみせてくれた。斬るのは、エラのような骨の少し先。次は迷わないように。家でやるみたいに、サッと殺すことに集中して右手を動かす。ニワトリの首の片面がパッと開き、血が噴き出した。メガネに血がつく。

 しばらくすると、野村さんはいなくなった。私は岩崎さんと一緒に首を斬りつづけた。
 目の前のニワトリをサッと殺すことだけに集中して、ただただ左手と右手を動かしつづける。首を斬ったニワトリは右へと流れ視界から外れていくが、左からはまた生きているニワトリが視界に入ってくる。それが、いま私が見てる世界すべて。血が噴き出す一瞬を見届けたら、目はすぐに左からくる次のニワトリへと向かうようになった。それが果てしないほどに続く。

 

 

 だんだん腕が疲れてくる。力が入りにくくなる。力が入らないと、斬りつける位置がずれたり、切り口が浅くなる。もう一度、と力を入れ直すが、思うように手が動いてくれない。岩崎さんとふたりでこの仕事をやるんだから、せめて2羽中の1羽は私がやろうと思うが、だんだんとペースが落ちて3羽中の1羽、ついには4羽に1羽になってしまう。ふと隣を見ると、岩崎さんが、全羽の首斬りをしていた。私が斬ったニワトリの首も。いちいち見分けるのも面倒なのかもしれない。まったく役に立たない自分にガックリしながら、私は首を斬りつづけた。私の右手はいつの間にか赤くドロドロに。ナイフを握り直すと、よけいにヌルヌルした。

 面接で所長の田中さんが「できるだけ機械化したいんですけどね」と言ったときに、

  “殺すことも肉にするのも機械になったら、そうして人間の手を介さなくなったら、スーパーの肉はますます生き物であることを忘れられてしまわないだろうか? ”

と思ったことが蘇ってきた。あの日の自分に言いたい。

  “だからといって、大勢の食べる肉のために、たったひとりで、たくさんのニワトリを殺す役を担っている人がいることを想像していたか?”と。

 家でニワトリを絞めるときは、絶命するまで頭をつかんでいる。羽をバタつかせるときも、ぐっとつかんで、命が失われていくのを左手で受けとる。でもここでは、そんなことはしないし、できない。流れてくるニワトリを次々に手にかけていくしかない。それでも私の手はスピードに追いつかず、役にも立たない。

 

(第7回・了)

本連載は、毎月更新予定です。
次回:2023年7月30日(日)掲載予定