鶏まみれ 繁延あづさ

2023.5.13

06ドアを開けたらドバッと流れ込んでくる

 

「あの、パートとかアルバイトの募集してますか?」
「はい! してます」

 間髪いれず、跳ねるような女性の声が返ってきた。若い声でもないが、年配という印象もなく、私と同年代くらいだろうか。勝手に電話の向こうを想像して、作業着の女性が仕事の手を止め話してくれている姿を思い描いていた。詳しいことは所長と話すように言われ、あとで折り返しかけてくれるという。切ると、ふと懐かしい気持ちになった。アルバイトの問い合わせなんて久しぶり。

「パートアルバイト、募集してますよ! まずは面接しましょうか」

 夕方かかってきた電話の男性の声はさらに弾んでいた。テンション高めの職場なのかな、と思いつつ、資格を取りたい旨などを伝えようとするが、要領よく話せない。小さい頃から吃音(きつおん)があるのだが、ふだんはあまり出ない。ただ、こうして電話で初めての人と話す場合には出てしまう。リズムの問題。懸命に話していると、またも「まずは面接しましょうか」と返ってきた。まあ……確かにそれがいちばん早いだろう。こちらの事情も厄介なほどあるし、電話より直接話したほうがよさそうだ。

 履歴書を書いてみた。われながら簡素な経歴だ。学校を卒業して一度も就職しないまま、数年後にフリーで写真の仕事を始めている。噓でも何か書いたほうがいいのかなと思ったが、よさげな経歴が思いつかなかった。そもそも、採用をめざしていくというより、まずは事情を伝えるのが目的。そして、大切なのはしっかり相談してくることだ。
 当然ながら、私はそこでフルで働くわけにはいかない。家計を支えるというと大袈裟だが、いま家で働き手は私しかいないのだから、そういうことになる。写真の仕事を続けながらどこまでできるのか、両立できるのか、そこを見極めたい。

 

 

 駐車場はがらんとしていた。それにしても、休業日に面接って不思議だな。所長さんは休日出勤することになるんじゃないかと考えながら、しんと静まり返った施設の入口から中を覗き込む。白い長靴が並んでいるのが見えた。

「シゲノブさんですね!」

 後ろから声をかけられた。電話で話した声、所長の田中さん(仮名)だった。二階の一室に案内される。ふだん使われていない部屋のよう。私は履歴書を渡し、食鳥処理管理衛生者の資格を取りたいこと、別の仕事をしていて毎日は出勤できないこと、出勤曜日も不規則になることなどを伝えてみる。話しながら、“曜日が不規則だとシフト組みづらいだろうな” と思ったが、正直に言うしかなかった。マスクで顔全体は見えないが、田中さんは終始ニコニコで話を聞いてくれた。私は密かに “この履歴書どう思われるかな?” と不安だったが、田中さんは最初に一瞥しただけで、あとは目線はずっとこちらに向けられていた。そして最後にこう言った。

「それで、いつから来られますか」

 なんとも不思議だった。その場で採用が決まる面接なんて今まで一度もない。雇い主からすれば、私はどう考えても扱いにくい人間だろうと(私の性格とかじゃなくシフト的に)思っていたからなおさら。でも、考えてみれば私は1ヶ月先まで予定はいっぱいだ。

「では1ヶ月後からにします。一応の曜日を決めて、変更の場合は連絡するのはどうでしょう?」
「いいですよ、それでいきましょう。シゲノブさんはきれいな肉のところがいいですか」

 ん⁉︎   “きれいな肉” って何のことだろうか。そういえば、どんな仕事現場なのだろう。大勢で解体するとなると、ベルトコンベアーで流れてくる感じだろうか。頭に浮かんだのは、取材でよく目にしていた農作物の出荷場風景。部分的に機械化され、人は各場所に配置されて作業にあたる様子。

「……えーっと、できれば全部学びたいので、全部のパートをまわりたいです。だいぶ機械化されているんでしょうか?」
「いや〜、なるべく機械化したいと思ってるんですけど、残念ながらまだまだ一部ですねえ。人の手でやってます。じゃあ、とりあえず順番にまわっていきましょう。最初は首切りですけど大丈夫ですか」

 帰りの車で田中さんの言葉を思い出していた。
  “なるべく機械化したいけど”と言ってた。全部機械化されたら、と想像してみる。さすがに違和感がある。だって、殺すことも肉にするのも機械がするようになったら、そうやって人間の手を介さなくなってしまったら、スーパーの肉はますます生き物であることを忘れられてしまわないだろうか?  と有らぬことを想像してしまう。
 まあでも、とりあえずうまくいった気がする。これなら今の仕事を続けながら資格取得もできるかもしれない。ダメ元で相談してみてよかった。まさか、こんなに都合のよい交渉ができるとは思ってなかった。

 

 

 それからの1ヶ月間は、とにかくたくさん仕事した。毎日のように撮影に出向き、合間に写真を仕上げて納品する日々。というのは、あとでスケジュール帳を見てわかること。じつはほとんど記憶がない。覚えているのは、娘とのささやかなひととき。
 学校から帰宅した娘が「となりでしゅくだいしたい」と言ってきた。しばらくすると、無言で小さな紙を私のキーボードの横に置く。開くと、“おしごとがんばってね♡” という文字。かわいい。中高生の頃、授業中に友人らとやっていたメモが思い出される。懐かしいな。娘の文字の後に “ありがとう。あげちゃんもがんばってね” と返事を書いて渡した。すると、すぐ返事が返ってきた。こんどは少し時間を置いてから返事を渡すが、またすぐに返事が返ってくる。こんなのが何度も続いて、この日は集中できないまま夕飯を準備する時間になってしまった。

 

 

 仕事への焦りはもちろんある。でも、娘との時間が足りないという焦りも。ずっと頭の隅にありつつ、考えないようにしてきた。考えると立ち行かなくなるから。でも、一緒に過ごす時間が短くなることは、母に気安く甘える機会を強制的に奪うということ。今後はさらに忙しくなる……とは、まだ娘に言えない。

「今日はいっしょに夕飯つくって、いっしょにお風呂に入ろうか」
「やったあ」

 湯船で抱っこすると、頭ごともたれかかってくる。お互い癒し合うみたいにくっついた。
 娘はもうすぐ小学2年生。入学時からコロナ禍で、今も続いている。給食は黙食、放課後も遊びにいけない。「自分から話しかけられない」という控えめな娘は、グッと近づける友だちがまだできないようだった。小さい頃から吃音がある私からすると、実際に発語できないわけでもないのに “話しかけられない” というのがイマイチよくわからない。話せばいいんじゃない? なんて簡単に思ってしまうのだが、非吃音者が吃音の感覚がわからないように、そういう “話しかけられない” もあるのだろう。

 食鳥処理場に働きに行くことは、夫と息子たちには話した。いずれも「ふうん、そう」というようなあっさりした反応で、誰も気に留めていない様子だった。私の仕事にはみんな無関心。いつもどおり。

 

 

 食鳥処理場へは朝5時に出勤することになっていた。初出勤は土曜日で、私は3時半に起き、4時過ぎに家を出た。玄関を開けると外はまだ真っ暗。空にまるい月が出ていた。めちゃくちゃ寒い。それでも、私は普段から4時には起きて仕事する朝方生活だったから、苦には感じなかった。緊張もない。田中さんの明るい声も、すぐ採用になったことも、私を気楽にさせていた。どんな仕事かわからないが、その仕事へのハードルをけっこう低く見積もっていたと思う。
 勤務先に到着しても、空はまだ真っ暗。建物の窓からは蛍光灯らしい明かりが漏れている。そういえば、この建物のどこに行けばいいんだっけ? 運転席に座ったまま事務所に電話してみるが、誰も出ない。留守番電話の音声が流れるだけ。どうしようかと思っていると、不意に人影が見えた。“あの人に聞くしかない!” 私は慌ててカバンをつかみドアに手をかけた。
 けれど、ドアが開いた瞬間、ドバッと流れ込んでくるものに驚いて、私はすかさず閉めてしまった。何この臭い。ためらうも、そうこうしているうちに人影は入口の中へ。ああ、もう行くしかない。もう一度、こんどは勢いよくドアを開けて外へ出ると、サッと閉め、煌々と光る入口をめざして走った。近づくほどに臭いが強くなっていく。なんとも言えない、怖さが胸に広がる。途中でハッとした、気配だ。振り返ると暗闇に大きなトラックが停まっていた。
 よく見ると、ブルーとオレンジのカゴが大量に積み上がっている。農業用コンテナでよく見知った配色。目を凝らす。ニワトリが入っている! これ全部に⁉︎ 思わず見上げた。

 

 

(第6回・了)

 

本連載は、基本的に隔週更新予定です。
次回:2023年5月26日(金)掲載予定